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新たに3人の逸材がデビュー 今季も「ロシア勢」が女子フィギュアを席巻する予感
新たに3人の逸材がデビュー 今季も「ロシア勢」が女子フィギュアを席巻する予感
今季からシニアデビューのカミラ・ワリエワ(写真/gettyimages)  昨季の世界選手権でメダルを独占したロシア女子は、北京五輪シーズンとなる今季も世界を牽引しそうだ。  ロシアで9月11・12日に行われたテストスケートでは、五輪代表候補の有力選手が今季のプログラムを披露した。試合形式で行われるこのイベントでは点数が明らかにされないが、ロシア女子のレベルの高さを改めて感じさせる内容となった。  昨季の世界選手権で優勝したアンナ・シェルバコワは、4回転には挑まなかったものの、完成度の高い演技を披露。世界選手権銀メダリストのエリザベータ・トゥクタミシェワはショート・フリー共にトリプルアクセルを組み込み、彼女らしく妖艶なプログラムを滑った。また世界を驚かせたのは世界選手権3位のアレクサンドラ・トゥルソワで、フリーで4種類5本の4回転を跳び、すべて着氷。さらに一昨季グランプリファイナル女王のアリョーナ・コストルナヤもトリプルアクセルを成功させ、昨季の不調から復活しつつあることをうかがわせた。  昨季までに国際試合で活躍していたメンバーだけで豪華すぎるほどだが、さらにロシアには今季シニアデビューする15歳の逸材が3人おり、テストスケートでもポテンシャルの高さを印象づけている。  昨季ロシア選手権で5位に食い込んだマイア・フロミフは、4回転を跳ぶ。タンゴに乗って滑ったテストスケートのフリーでも、4回転―3回転のコンビネーションジャンプを着氷させた。  ダリア・ウサチョワは、大技はないものの完成度の高い演技が強みで、昨季のロシア選手権で4位の成績を残している。テストスケートで披露した映画『The Greatest Showman』の曲『Never Enough』を使う新ショートプログラムでは、ドラマチックな歌声を品のあるスケーティングで表現した。  そして昨季ロシア選手権2位のカミラ・ワリエワは、ショートプログラムでトリプルアクセルを着氷させ、フリーではトリプルアクセルと4回転に挑んだ。フリーに組み込んだ2種類3本の4回転のうち着氷させたのは1本のみだったが、トリプルアクセルは両手を上げて跳び、きれいに決めている。  そしてフリーの曲は『ボレロ』。1984年サラエボ五輪のアイスダンスでジェーン・トービル&クリストファー・ディーンが滑りジャッジ全員が芸術点で満点を出した、フィギュアスケートにおいては特別な意味を持つ名曲だ。選択に勇気が要る曲に、ワリエワは昨季から挑んでいる。昨年末のロシア選手権で披露した演技は、放送席にいた2002年ソルトレイクシティ五輪チャンピオンのアレクセイ・ヤグディンが感涙するほどの出来栄えだった。長い手足を生かした美しい所作と滑りには、15歳という年齢を忘れさせる豊かな芸術性がある。  今季からシニアに上がるワリエワ、ウサチョワ、フロミフは、共にエテリ・トゥトベリーゼコーチ門下で切磋琢磨している。継続してトゥトベリーゼコーチに師事しているシェルバコワに加え、昨季はエフゲニー・プルシェンココーチの指導を受けていたトゥルソワとコストルナヤも、今季は古巣に帰ってきた。優秀な先輩スケーターも加え、普段の練習から国際大会並みにレベルの高い顔ぶれで練習していることが、彼女たちの強さの理由なのだろう。  精鋭が集う“エテリ組”に初の五輪出場を目指す24歳のトゥクタミシェワも加わり、北京五輪代表の座をめぐる熾烈な争いが予想されるロシア女子。激戦を勝ち抜いた3人が、そのまま北京五輪のメダリスト候補になることは間違いないだろう。(文・沢田聡子) ●沢田聡子/1972年、埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。シンクロナイズドスイミング、アイスホッケー、フィギュアスケート、ヨガ等を取材して雑誌やウェブに寄稿している。「SATOKO’s arena」
dot. 2021/09/24 18:00
高市早苗に「プリテンダー」の声 女性の悔しさ知るはずなのに「この道しかない」のか
矢部万紀子 矢部万紀子
高市早苗に「プリテンダー」の声 女性の悔しさ知るはずなのに「この道しかない」のか
9月17日に告示され、29日に投開票が行われる自民党総裁選への出馬会見を行った/9月8日午後、国会内で (c)朝日新聞社  高市早苗という政治家の原点は、自分に真っすぐな「シスターフッドの人」ではなかったか。「わきまえて」見える彼女のいまをつくったものは何か。AERA 2021年9月27日号から。 *  *  *  高市早苗前総務相が自民党総裁選への立候補を正式に表明した9月8日夜、テレビ各局の報道番組をはしごした。 「日本経済強靱化計画、いわゆるサナエノミクスの3本の矢は」  そう力強く語る高市さんの声を、何度も聞いた。「金融緩和、緊急時の機動的な財政出動、大胆な危機管理投資、成長投資」と続くのだが、それよりも気にかかったことが二つあった。  その1 自分で名付けておいて、「いわゆる」って言う?  その2 「アベノミクス」の継承・発展なら「タカイチノミクス」じゃない?  1からは権力者特有の図々しさを、2からはそのくせ「女子アピール」をする残念さを感じた。そしてこう思う。あーあ、結局、高市さんかー。  高市さんは2006年、第1次安倍内閣で内閣府特命担当大臣として初入閣した。以来、彼女の言動はずっと安倍さんへの「ですよねー」だったと思う。選択的夫婦別姓→反対、皇統→男系男子、靖国神社→参拝。「信念だ」と言うだろうが、指さし確認で従っている感じ。で、その甲斐あっての立候補。菅首相が引っ込んだ途端、彼女への支持を表明する安倍さんに、どんよりする。 ■シスターフッドの人  高市さんは1961年3月生まれで、私は1月生まれだ。同学年だけに自分の会社員人生が重なる。わきまえることが大切と教えてくれたのは森喜朗元首相だった。はい、よくわかりました。それが高市さん。  自分の話をもう少し続けると、30歳で結婚した。「そのうち別姓が選べるさ」と軽い気持ちで婚姻届を出さずにいたら、還暦を迎えてしまった。もし高市総裁なら、事実婚のまま古希か。もっと深刻なのは、日本中の若い女性が「わきまえないとダメだ」と思うことだ。いかーん。  そんなある日、作家で経営者の北原みのりさんと元衆院議員でジャーナリストの井戸まさえさんがクラブハウスで高市さんについて語り合っているのを発見、即、聞いてみた。高市批判が飛び交うことを期待したのだが、違った。2人は、彼女がまだ政治評論家だった92年に出した『30歳のバースディ』という本の話で盛り上がっていた。 衆議院議員選挙奈良全県区から無所属で出馬、初当選を果たした/1993年7月、奈良市の事務所で (c)朝日新聞社  厳しい母から逃れたくて早稲田にも慶応にも受かったのに、弟が私立中学に受かったからと断念させられ、奈良から神戸大学に往復6時間かけて通学した。ロックバンドでドラムを叩き、オートバイを操った。松下政経塾から突如、米国大統領選初の女性候補と目された民主党のパトリシア・シュローダー下院議員のインターンになった。合間合間に必ず挟まる、赤裸々な恋愛話……。そんな内容を語る調子に、彼女への共感がにじむ。2人が何度も引用していたのが、最後の一節だった。 「頑張っている同性の皆さん、一度っきりの人生だもの、自分に気持ちいいように生きようネ! GOOD LUCK、GIRL FRIENDS!」。高市さんはシスターフッドの人で、今の彼女はプリテンダーではないか。2人の一致した意見だった。 ■女性は「お察しします」  なるほどプリテンド(装う)か。シスターフッドは隠し、「安倍好み」のふりをし、総裁選へ。作戦としてはわかる。が、それでいいのかと割り切れない。2人に話を聞くことにした。  北原さんは高市さんを悪く語る人(とりわけリベラル系の男性)に、「女性嫌悪」を感じたという。極端な右寄りで問題ありの人だが、それにしてもひどい、と。そこで本を読み、原点を知り、驚いたという。 「安倍さんにすり寄って、実力以上に評価されている人というイメージだけど、これだけ2世、3世の多い政治の世界で、サラリーマン家庭出身の女性があそこまでの地位をつかんだ。そのためには野田聖子さんや小渕優子さんがしなくてもいいことを、たくさんしたと思う」  確かに、今回の総裁選へ立候補を表明している岸田文雄さんも河野太郎さんも、立候補を断念した石破茂さんも、みんな政治家の家に生まれている。 「高市さんは税金や軍事など、女が苦手とされるところに政治家としての自我を求めた。女だからと舐められないための戦略でもあり、舐められないために『女の味方ではない』と肩ひじを張った。それで保守の王道を歩みたいという思いはわかるけど、それにしてもあっちに寄りすぎちゃったよね、と思う」。そう言って、こう続けた。 「でも、そうなったのには訳がある。お察しします、と思います。女性だったらみんな、お察ししますなんじゃないかな」  井戸さんは元衆院議員。次期衆院選に立憲民主党から立候補する。政策は相容れないが、「高市さんは人として、信用できる」と言う。井戸さんは松下政経塾出身で、高市さんの後輩。卒塾式での体験があるからだ。 安倍晋三首相と並ぶ高市早苗総務相(いずれも当時)。今回の自民党総裁選では安倍氏は高市氏を支援する意向だ/2020年2月、衆院本会議で (c)朝日新聞社 ■彼女だから候補に  研修担当者が塾生の思い出を語るのだが、そこで井戸さんはいきなり「香水がきつかった」と言われた。激しく傷つき何も言えずにいたら、「そんなこと、ここで言うことじゃない」と抗議してくれたのが高市さんだった。  それから10年以上経ち、井戸さんは自分の経験から「民法772条による無戸籍児家族の会」代表として活動していた。06年、高市さんが入閣、少子化担当でもあったので、民法改正を訴える手紙を送った。他にも法務相、総務相(菅義偉さんだった)らにも送ったが、返事があったのは高市さんだけだった。雛型にあてはめたものでなく、きちんと内容に則していて、手書きの署名が添えられていた。誠実に働き、きちんと事務所を運営している政治家だと思った。 「彼女を今の高市早苗にしたのは有権者であり自民党。彼女はそのルールブックに則ってきただけとも言えます。『女性の総理大臣候補が高市早苗なの?』っていろいろな人が言うけれど、彼女だから候補になれたというのが現実なんですよね」  その現実をはっきり見せられるのがつらい。そう井戸さんに言うと、こう返ってきた。 「多くの女性が結局、上に行くには彼女の道しかないことに気づいている。それで責任を感じるとまでは言わないけれど、自民党を、この社会を変えられなかったことがどこかやましく、だからつらいんじゃないでしょうか」 『30歳のバースディ』を読んだ。そこにいる高市さんは、自分に正直でまっすぐな人だった。その印象は、衆院選に初当選した2年後に出した『高市早苗のぶっとび永田町日記』でも変わらず、2章が抜群に面白かった。 ■悔しさ知っているのに  92年、地元奈良県から参院選に無所属で立候補、落選した顛末(てんまつ)が書かれている。当初、自民党公認で出るはずが、党県連会長に阻まれる。その経緯を一言でまとめるなら、「会議の場で言われたことを額面通りに受け取ったが、実は裏で違うことが進んでいた」というもの。怒り、悔しがる高市さん。だが、その翌年衆院選に無所属で立候補、トップ当選する。たくましい。  この時、高市さんが落ちたのは、「ボーイズクラブ」の陥穽(かんせい)だった。女性は立ち入り禁止の所で物事が決まり、今もあちこちで女性を待ち受けている。その悔しさを知っているのに、何で? と、思った端から思う。だからなのか、高市さん。  総裁選は、どうなるだろう。(コラムニスト・矢部万紀子)※AERA 2021年9月27日号
AERA 2021/09/22 11:00
【現地ルポ】河野太郎の旧友が語る「歌いっぷり」から「夫婦秘話」まで 新総裁本命候補が地元で見せた素顔
上田耕司 上田耕司
【現地ルポ】河野太郎の旧友が語る「歌いっぷり」から「夫婦秘話」まで 新総裁本命候補が地元で見せた素顔
河野太郎行政改革担当相(C)朝日新聞社  16日に野田聖子幹事長代行が出馬表明したことで、立候補者が4人となった自民党総裁選。そのなかでも「本命視」されているのは、河野太郎行政改革担当相(58)だ。朝日新聞社が行った最新の世論調査では、「新総裁に誰がふさわしいか」という質問に、33%の人が「河野氏」と答え、4人の中で最多となった。永田町では「変人」「異端児」などと称されることもある河野氏だが、地元ではどのような評判なのか。AERAdot.は、河野氏を知る人物を訪ね歩き、“本音”を聞いた。今回は「幼少期~社会人」の政治家になる以前の人物像に迫る。 *  *  * 河野氏が生まれ育ったのは、神奈川県平塚市。父は自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長。祖父は河野派を率いて、農林相や建設相、副総理を歴任した河野一郎氏という3代続く政界のサラブレッドだ。大叔父の河野謙三氏も衆院議長を務めるなど、まさに政治家ファミリーの中で育った。 小学校は地元の平塚市立花水小学校に6年間通った。小学生の頃から、他の子より少し目立つ存在だったようだ。6年生の同級生で、現在は平塚市役所産業振興部長の津田勝稔氏は、当時をこう振り返る。 「男子生徒は『太郎』とか『太郎ちゃん』とか気軽に呼んでましたね。勉強は昔からできましたが、同級生が360人以上いる学校だったので、その時は、もっと成績優秀な生徒もいましたよ。1位ではないけど、ずっとトップクラスにいるイメージ。ガリ勉という感じではなかったので、陰で努力をしていたか、地頭がいいのだと思います。子どもの頃から自分の意見をハッキリ言うタイプだったから、いつかは政治家になるんだろうとは思っていました」  当時は、平塚市内で「河野御殿」と呼ばれる旧河野一郎邸に住んでいた。現在は取り壊されているが、そこに小学校の同級生が集まることもあったようだ。 「小学校を卒業する年(1975年)の1月、太郎ちゃんの誕生日会に招かれました。河野邸の中に入ったら、大きな庭があったのを今でも覚えています。私も含めて、みんなが誕生日プレゼントをあげていました。みんなから人気がある子どもだったと思います」(同) 小学6年生のときの河野太郎氏。顔つきには面影が残る(画像は取材者提供)  河野氏は1月の早生まれのため、体はそんなに大きくなかったという。 「クラスでは一番前に座っていました。体は細かったから、校庭で一緒に相撲をしても、僕は一度も負けたことはなかった。でも、走るのは速かった。長距離は全然かなわなかったですね。河野家は祖父の一郎さんが箱根駅伝にも出場した長距離ランナーで、大叔父の河野謙三さんも箱根駅伝を走っている。長距離ランナーの家系なんですね」  河野氏自身も、進学した慶應義塾中等部で、今も破られていない4000メートルの記録保持者なのだという。  また、津田さんが鮮明に覚えているのは、河野氏が小学校の合唱コンクールで指揮者をしたこと。 「合唱コンクールはクラス対抗でしたが、太郎ちゃんは皆から自然と指揮者に選ばれていました。正直、歌はうたわない方がいいんじゃないのかな、という感じです」  別の知人によれば、「河野は音痴で声がでかくて甲高い」のだという。  花水小学校を卒業すると、慶應義塾中等部、同高等学校へ進学したが、地元の友達との関係はその後も大切にしていたようだ。津田さんはこんな思い出を語る。 「慶應に進むというのは、(小学校の)卒業が近くなってから知りましたね。僕はそのまま地元の中学に進んだのですが、10年くらい前にその地元中学の同窓会があったんです。花水小の同窓生もたくさんいたんですが、そこに太郎ちゃんが突然、乱入してきたんです。誰かが『お前、ここは違うだろう』とつっこんで、みんな笑っていましたね」  高校卒業後は、1981年4月に慶應大学経済学部に入学するも、わずか2カ月で退学。すぐに渡米し、82年9月には米国ワシントンD.Cのジョージタウン大学に入学した。84年にはポーランドの大学に留学したという。  古くから河野氏と付き合いある湘南ベルマーレの眞壁潔会長がこう語る。 「太郎が留学したのは、ちょうどポーランドの自主管理労組『連帯』を主導したレフ・ワレサ(後のポーランド大統領)の民主化運動が盛んな頃でした。太郎は社会主義の国を自分の目で確かめるために、ポーランドに行った。そこで大学の知人の紹介で、ワレサに会いたいかと聞かれたので、ワレサに会いに行ったんです。でも、そのときに事件が起きた。ワレサの自宅で本人といろいろと話をして、帰ろうと近くの交差点まで行ったところで、警察官から職務質問を受けた。パスポートを所持していなかったので逮捕され、留置場に入れられたそうです」 6年生の教室では一番前の机に座っていた。写真の一部を加工しています(画像は取材者提供)  幸い、大学生であることがわかり、翌朝には釈放されたという。 「彼は性善説で人を見るんですよ。当時、ルーマニアにも行っていて、親切にしてくれた見知らぬ人の家に泊めてもらって、冷蔵庫の中にあった野菜や肉をごちそうになったという話も聞きました。当時のルーマニアで、知らない人のうちへついて行くなんて、ヤバイんじゃないかと思いましたけどね」(眞壁氏)  1985年、ジョージタウン大学を卒業後、日本に帰国。富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)に就職し、シンガポールに2年間勤務した。その後、93年に父親の河野洋平氏が大株主の日本端子(本社・神奈川県平塚市)に転職した。現在、日本端子の社長は洋平氏の次男が務めている。  河野氏が政治家になる前から付き合いのある平塚市の片倉章博市議はこう話す。 「河野さんは日本端子に入社した頃に、平塚に帰って来ました。地元の平塚のJC(日本青年会議所)のビジョンを作る委員会に所属していました。私もメンバーだったし、みんな同世代だったから、くだらないことを言い合ったり、何時間もビジョンを語り合ったりしたのは、いい思い出です。毎年夏には、それぞれが夫人同伴で10人くらいでワイワイ過ごす家族会をしていて、大磯ロングビーチのプールへ行くのが恒例でした。河野さんの香(かおり)夫人も来ていましたよ。プールの後は、ちゃんこ料理屋などで打ち上げをするのが恒例でした」  香夫人はオーストラリアの帰国子女で、聖心女子大を卒業後、外資系の金融機関に勤務していたという。2人のなれ初めについて、古くからの知人はこう話す。 「太郎ちゃんが富士ゼロックスの時代に、香さんが外資系の証券会社に勤務していて、食事会で知り合ったと聞きました。太郎ちゃんのひとめぼれで、香さんと同じ電車に乗るように時間調整して通勤したりしたこともあったそうですよ。香さんも通訳ができるくらい英語がペラペラで、夫婦で英語が堪能。太郎ちゃんは銀座のクラブへも行かないし、愛妻家ですよ。香さんは、夫がいない時には、代わりに選挙のあいさつ回りをしたりして支えています」  夫妻には一人息子がおり、現在は学生だという。河野氏が自民党総裁選に出馬したことについて、前出の津田氏はこう話す。 「総理大臣というのは政治家になったら夢でしょう。地元のことももちろんですが、日本のため、世界のために頑張るという初心を忘れずに、総裁選に挑んでほしいです。同級生みんなが応援しています」  河野氏が衆議院選挙で神奈川15区から立候補して、初当選を果たすのは1996年のこと。33歳のときだった。【後編】では政治家となった後の河野氏の人生を追う。(AERA dot・上田耕司)
河野太郎自民党総裁選
dot. 2021/09/17 12:48
頂き女子は「詐欺罪」「脱税」にあたる可能性 横行背景に「裏アプリ」の存在も
頂き女子は「詐欺罪」「脱税」にあたる可能性 横行背景に「裏アプリ」の存在も
 スマートフォンの普及で急速に広がったマッチングアプリ。それを悪用して、金銭を巻き上げる行為が横行しているという。背景に「裏アプリ」の存在がある。 AERA 2021年9月20日号から。東京・歌舞伎町は、マッチングアプリの待ち合わせ場所としてよく使われているという(写真と本文は関係ありません) (c)朝日新聞社 *  *  *  7月にあるユーチューバーが投稿したインタビュー動画がネットで話題になった。  登場した23歳という女性は「頂き女子」を自称。スマートフォンのマッチングアプリで複数の男性と交流し、言葉巧みに金銭的な困窮具合を説明して、2年半で計2億円以上を「頂いた」というのだ。なかには消費者金融で借金をして振り込む男性もいたようだ。 ■普通の会社員が危ない  マッチングアプリに詳しい業界関係者が解説する。 「表向きは男女がアプリ内のやり取りで信頼関係を築いた上で交際することが推奨されています。しかし、実態は『援助交際』や『パパ活』といったところです。この女性が注目を浴びたのは、体の関係はないとしながら、2億円もの金銭を巻き上げたと話しているからです」  女性は金を「頂く」手口をツイッターに書き連ね、フォロワーから「頂き女子の神」と尊敬されているという。受け取ったお金はホストクラブにつぎ込むためほとんど残っておらず、ふだんはホテル暮らしだそう。  お金を貢ぐ側にも疑問が湧くが、女性が明かした手口によると、「ファッションに無頓着」「結婚願望はあるが出会いがない」「癒やしを求めている」といった人がターゲットになりやすいという。お金持ちではなく、あえて普通の会社員を相手にするとも。女性は男性の自宅で料理を作ったことがあるとも話しており、そうやって懐に入り込んでいったようだ。  こうした行為に対し、ある弁護士は「詐欺罪にあたる」と断言する。受け取ったお金は贈与税の対象になりうるともいい、申告しなければ脱税に当たる可能性もある。  一方、マッチングアプリ側も一連の行為を助長しているとの指摘も出ている。女性の書き込みを増やすため、「裏アプリ」を使って、サクラを募っているというのだ。 ■サクラで書き込み助長  サクラ経験がある女性は「あるマッチングアプリは、女子にだけ『裏アプリ』をこっそりと提供しています。裏アプリでサクラの書き込みをすると、大手ECサイトのギフトカードがもらえるんです。表向きは裏アプリがどのマッチングアプリとつながっているか、わかりにくくなっています」と明かす。  はなから「真剣な出会い」なんて求めていない人たちを金券で釣り、「交際するふり」をさせているのだ。すべてが冒頭の「頂き女子」が語るような行為をしているわけではないが、「男性からだまし取るだけでなく、こういうアプリも使って儲(もう)けているんです」(サクラ経験者)。  サクラにだまされる人にはある特徴があるという。 「アダルトサイトなどの架空請求に引っかかった過去があることを、自分から話してくるんです。私たちからすると、『ネギを背負ったカモ』だと、正直に話してくれるようなものです(笑)」(同) 「頂き女子」や「パパ活」も、古典的な言い方をすれば詐欺や売春にあたる。ただ、従来と異なるのは、スマートフォンやSNSの普及で個人で動きやすくなったことがあるという。  風俗店に勤める場合でも、自分でSNSを更新しなければ、集客できない傾向になってきている。それならば「最初から『頂き女子』や『パパ活』で稼いだ方が、手軽で割もいいと考える人が増えています」(前出の関係者)。  だが楽に稼げると考えていると、大きな落とし穴にはまる。  冒頭の「頂き女子」は、アプリで出会った男性に車で連れ去られそうになったことがあると告白している。ほかにも様々な犯罪の被害者になる可能性がある。また詐欺罪で実刑になれば10年以下の懲役が科される。  安易に頂き女子になろうとすれば、犯罪の加害者にも被害者にもなりかねない。自分の首を絞めることになるだけだ。(ライター・石藤八郎)※AERA 2021年9月20日号 
AERA 2021/09/17 11:00
眞子さま結婚で皇室「離脱ドミノ」の可能性 次なる山場は12月1日か
矢部万紀子 矢部万紀子
眞子さま結婚で皇室「離脱ドミノ」の可能性 次なる山場は12月1日か
赤坂東邸で眞子さまと小室圭さんの婚約内定会見が行われたのは、2017年9月3日。それから4年近い歳月を経て、年内に結婚する見通しであると発表された (c)朝日新聞社 AERA 2021年9月13日号より  9月1日、秋篠宮家の長女、眞子さまが年内に小室圭さんと結婚する方向で調整中であることが報じられた。婚約内定会見から4年、思いを貫いた背景には、愛のほかに何があったのか。AERA 2021年9月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  眞子さまが年内に小室圭さんと結婚する。「納采の儀」などの儀式はせず、1億円を超すという一時金も辞退する方向で、結婚後はニューヨークで生活する。その報道を見て思ったのは、「次の山場は12月1日ではないだろうか」ということだった。  12月1日は、天皇陛下と雅子さまの長女愛子さまの20歳のお誕生日だ。成人になると、皇族は公務を始めるのが恒例だ。愛子さまも、いよいよその年齢となる。その日に合わせ、記者会見をするのも恒例だ。眞子さま、佳子さまも宮内記者会との最初の会見は、20歳のお誕生日に合わせてのものだった。そこで愛子さまは何を話すのか、それに向けて、陛下と雅子さまは何を思うのか。 「眞子さま」と「公務」と「愛子さま」。そういう話をさせていただく。 ■「愛」と「皇室離れたい」  まずは、眞子さまだ。2017年の婚約内定記者会見で、小室さんと国際基督教大学で出会い、交際開始の1年後には小室さんが眞子さまにプロポーズ、その場で眞子さまは承諾した、と明かされた。「お互いに、お付き合いをする人は結婚を考えられる人でありたい、という共通の認識がございましたので、結婚につきましては、当初より念頭にございました」という眞子さまの言葉を当時、私は純粋さの表れと受け止めた。  が、小室さんの母の「金銭トラブル」が明らかになり、2人に逆風が吹き荒れ、それでも結婚に漕ぎつけた。そのことを知っている今、それを読み直すと、別の文脈が見えてくる。眞子さまが意志を貫けたのは、「愛」あってのこと。だがもう一つ、支えていたものがあった。それは、皇室を離れたいという思い。その原点が「お付き合いをする人は結婚を考えられる人」だったのではないだろうか。  次にするのが、「公務」の話。人には「愛」が必要だが、もう一つ、社会的承認も必要ではないかと思う。さらに言うなら、人は仕事によって社会的承認を得ることが多い。皇族は皇族であるだけで、社会的承認が得られるのではないかという見方もあろうが、皇太子妃となって適応障害という病を得てしまった雅子さまのことを思っても、それは自明とは言えないだろう。 ■人手不足対策のコマ  私はかねてから、女性皇族にとって皇室は「寿退社が明文化された職場」ととらえていた。皇室典範12条に「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とあるからだ。眞子さまの叔母にあたる黒田清子さんは、結婚の3年前、33歳のお誕生日に「内親王という立場」について語っている。  まとめさせていただくと、こうなる。「女性皇族ということを意識することはあまりなかったが、内親王として将来、立場を離れることを思うと、継続的な責任ある立場に就くことを控えたことはあるかもしれない」  清子さんは上皇陛下と美智子さまの一人娘として、ひたすら真面目に公務をした女性だ。が、寿退社という壁に阻まれ、責任ある立場は遠ざけたというのだ。寿退社職場に、愛着を持つのはなかなか難しい。だから、女性皇族という立場の曖昧(あいまい)さを何とかしてほしい。そう何度も書いてきた。  ほんの少しだけ望みをかけていたのが、安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議(座長・清家篤元慶應義塾長)だった。4月にスタートした時、女性皇族の幸せを検討してほしいと思い、そのことも書いてきた。が、7月26日に出された「今後の方向性」を見て、がっくりした。  女性皇族が結婚後も皇室にとどまる案と、旧宮家の男系男子が養子として皇族復帰する案を検討していくという。それだけで、女性皇族のあり方についてはまるで触れられていない。政府は女性皇族(と、かつて皇族だった男系男子)を単に人手不足対策のコマと見ている。  と思っているのは、外野にいる私だけだろうか。そう考えた時に、頭に浮かぶのが愛子さまだ。冒頭に書いたように、12月1日に20歳を迎える。公務を始めることになるから、愛子さまにとって皇室は「家庭」であると同時に「職場」にもなっていく。そして、ここまで書いたように、問題ありの上に政府による改善がまるで期待できない職場なのだ。 ■対等さは「共働き夫婦」  雅子さまは外務省でのキャリアを中断し、皇太子妃となった。婚約内定の記者会見で、外務省について「大変やりがいのある仕事もさせていただいておりましたし、(略)とても充実した勤務でございました」と振り返っている。「職場のやりがい」を実感した女性として皇室外交を期待したが、まず望まれたのが男子出産だった。なかなか妊娠がかなわず、結婚8年後に愛子さまが生まれたが、その2年後に長期療養に入った。  令和になってはっきりしたのが、仕事をする雅子さまを尊重する陛下の姿勢だ。コロナ禍になりそれは一層はっきりし、お二人は進講の場でも新年のビデオメッセージでも、いつも横並びに座っていた。その対等さはまるで、「共働き夫婦」だと思う。  となれば、お二人は皇室という職場の問題に気付いていないはずがない。眞子さまは「結婚」をもって、皇室という「職場」から脱出した。もちろん皇室は、眞子さまの温かい「家庭」でもあったが、それよりも出たい思いが勝ったから、儀式も一時金もいらないと判断したのだろう。 ■皇室にとどまる意味  だから「職場」の問題を解決しないと、佳子さまも、そして愛子さまも、積極的に皇室にとどまる意味を見いだせなくなる可能性は大いにあると思う。「眞子さま婚」が眞子さまだけにとどまらず、佳子さま、愛子さまに波及する。そうして「女性皇族離脱ドミノ」が起こっても不思議ではないと思うのは、長く仕事をしてきたから。だって、やりがいの感じられない職場を脱出する手段が結婚で、結婚すれば自由が手に入る。相手が「ふさわしい」か「ふさわしくない」かは自分で決める。眞子さまが敷いたその道を魅力的と感じ、ついていこうとお二人が思ったとしても、何の不思議もない。  ところで、なのだが、陛下と雅子さまは東京五輪にあたり、「広報方針」を変えたと思う。生真面目(きまじめ)な前例踏襲型だったのが、陛下は開会式での宣言を「祝う」でなく「記念する」と大胆に踏み込んだ。 「天皇は、国政に関する権能を有しない」という憲法の規定は承知の上で、国民に寄り添うと決めたのではないだろうか。選手たちは応援したい、感染拡大は心配。そんなシンプルな思いを共有する。それが直接国民と触れ合えないコロナ禍で、皇室の存在意義を保つ道。そう思っているのだと想像している。だから陛下と雅子さまは、女性皇族がどうあるべきか、考えだしているに違いない。  今回、眞子さまの結婚が公になったのは、母である紀子さまのお誕生日が9月11日に迫っていたことが関係していたはずだ。誕生日にあたり文書を出すのが恒例で、その際、眞子さまのことは避けて通れない。  雅子さまのお誕生日は、12月9日。陛下は2月23日。まだ少し時間はある。女性皇族についての考えを述べるには、とてもよいタイミングではないだろうか。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2021年9月13日号
皇室
AERA 2021/09/10 08:00
美智子さま、眞子さまのご結婚に何を思う? お二人の関係から読み解く
矢部万紀子 矢部万紀子
美智子さま、眞子さまのご結婚に何を思う? お二人の関係から読み解く
秋篠宮家の眞子さま、佳子さまを見守る美智子さま=前列左から5人目(1997年12月、宮内庁提供) (c)朝日新聞社  今年中に念願だった小室圭さんとの結婚をかなえて、皇室を離れる見通しの眞子さま。初孫の決断を、美智子さまはどのように受け止めているのだろうか。『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)の著者でコラムニスト・矢部万紀子さんが、お二人の歩みから読み解いていく。 *  *  * 『皇后さまとご養蚕』という本の中に、美智子さまが眞子さまへ出した手紙が収められている。  学習院初等科3年生だった眞子さまに「お年寄り世代のしていた手仕事」という宿題が出された。眞子さまは「養蚕」について美智子さまに尋ね、美智子さまが手紙で答えたというものだ。 「眞子ちゃんは、ばあばがお蚕(かいこ)さんの仕事をする時、よくいっしょに紅葉山(もみじやま)のご養蚕所(ようさんじょ)にいきましたね」と始まる。昭憲皇太后以来、代々の皇后に伝わる養蚕をやさしく説明し、こう終える。 「今は蚕(かいこ)さんはおりませんが、もう一度場所や道具をごらんになるようでしたら、どうぞいらっしゃいませ。たいそう寒(さむ)いので、スキーに行く時のように温(あたた)かにしていらっしゃい。ごきげんよう」  天皇陛下(当時)のことを「おじじ様」と書き、説明の合間に眞子さまの話をする美智子さま。 「おととし眞子ちゃんは、このまゆかきの仕事をずいぶん長い時間てつだって下さり、ばあばは眞子ちゃんはたいそうはたらき者だと思いました」  優しい手紙から、懸命に蚕に向き合う小さな眞子さまの姿が浮かんでくる。眞子さまにとって皇居は、おじじ様とばあばの住む温かな場所。そう感じる。  この手紙が眞子さまに届いてから、20年以上の時がたった。今年中に眞子さまは、皇室を離れる見通しだ。念願だった小室圭さんとの結婚が、とうとうかなうのだ。  小室さんとの婚約が内定し、そろって記者会見に臨んだのは2017年9月。3カ月後に小室さんの母と元婚約者の「金銭トラブル」が報じられ、いろいろなことが起きた。だが、結婚を望む眞子さまはぶれなかった。 皇居・紅葉山御養蚕所で蚕に桑の葉を与える美智子さま(2017年5月、宮内庁提供) (c)朝日新聞社  昨年11月には「お気持ち」を文書で公表、「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」と訴えた。「愛」を表明してはばからない強さ。それが眞子さまを支えてきた。  だが、私はもう一つ、眞子さまを支えた強い思いがあると感じていた。それは「何としても、ここではない場所に行きたい」という思い。若者なら誰でも持つものともいえるが、切実さがあった。つまりそれは「皇室を出て、自由になりたい」。そういう気持ちだと思う。  報道によれば眞子さまは、天皇、皇后に別れを告げる「朝見の儀」もしないという。祖父母のいる温かな場所だった皇居から、挨拶(あいさつ)なしで出ていく。それほどの決意について考える時、頭に浮かぶのが「幸福とはどう決まるのか」という命題だ。非常に大雑把に答えるなら、社会的充足と個人的充足、両方あっての幸福ではないだろうか。つまりは、「仕事」と「愛」。  眞子さまには「愛」がある。だが、「仕事」はどうだろう。日本工芸会総裁、日本テニス協会名誉総裁という役職に加え、東京大学総合研究博物館特任研究員という職もあることは承知している。が、どうしても「女性皇族」という存在の曖昧(あいまい)さを思ってしまう。  皇室典範12条には、「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とある。女性皇族についての決まりはそれだけ。つまり、結婚したら出ていくことだけが定められた存在なのだ。  そして女性皇族は、成人すると「公務」をするのが慣例だ。眞子さまも国内外で熱心に働いた。が、それは眞子さまの心をどれだけ充足させただろうか。  長く働いてきた女性として、仕事の喜びは責任とセットだと思っている。だが「職場」としての皇室は、「寿退職」が決まりだ。幼い日、美智子さまから「たいそうはたらき者だと思いました」とほめられた眞子さまが、そういう職場で幸せを感じたとはどうにも思えない。 園遊会に出席した眞子さま(左端、14年4月) (c)朝日新聞社  だから眞子さまは、「愛」にかけた。とは言わない。愛のありようは人それぞれで、その人にしかわからない。そう美智子さまが教えてくれるからだ。  眞子さまの婚約内定記者会見の翌10月、美智子さまは83歳のお誕生日を迎えた。その日に公表された美智子さまの文書は、6月に「特例法」で決まった陛下の退位を念頭に置いたものだった。国内外の出来事への思い、陛下と出かけた国内外への旅についてなどがたっぷりと書かれていた。  宮内記者会が「この1年を振り返って感じられたこと」を尋ねてのもので、出来事の具体例の一つとして「眞子さまの婚約内定」もあげられていた。が、それへの言及はあっさりしたものだった。 「身内では9月に、初孫としてその成長を大切に見守ってきた秋篠宮家の長女眞子と小室圭さんとの婚約が内定し、その発表後程なく、妹の佳子が留学先のリーズ大学に発っていきました」  身内の話は長々しないというたしなみもあるだろう。が、それだけではないことがはっきりしたのは、皮肉にも「小室さん報道」が盛んになってからだった。  2人の結婚が延期されて以来、小室さん親子については悪(あ)しざまな報道が日常になっていった。「美智子さまが小室さんについてこう評している」といった報道も目につくようになり、宮内庁は18年5月、「眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について」という文書をホームページで公表した。そこにはこうあった。 「(結婚延期に際し)両陛下が第一に考えられたことは、これは眞子さまの内心に触れる事柄であり、何人といえども、恐らくはご両親殿下でさえ眞子さまのお考えを待つ以外おありでないということでした」  これで美智子さまのお誕生日の文書がわかった気がした。幸せとは、それぞれが決めていくもの。だから家族といえども、他人ができるのは、静かに祝うことだけ。そういう思いだったのだ、と。 「初の民間出身皇太子妃」として家庭を築き、陛下の公務を支えてきた。「愛」と「仕事」、両方に努力した人生の大先輩だからこその境地ではないか。そう拝察している。  眞子さまは年内に、ニューヨークに行くと報道されている。そこでの人生がどうなるか、それは眞子さまが決めること。美智子さまはこれからも大切な初孫の眞子さまを、静かに見守ることだろう。(コラムニスト・矢部万紀子) ※週刊朝日  2021年9月17日号
小室圭さん皇室眞子さま
週刊朝日 2021/09/09 11:30
高市早苗氏の意外な過去にフェミニストも震えた 総理の座を狙う過程で何があったのか
北原みのり 北原みのり
高市早苗氏の意外な過去にフェミニストも震えた 総理の座を狙う過程で何があったのか
自民党総裁選に出馬表明した高市早苗氏(c)朝日新聞社  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、自民党総裁選に正式に出馬表明した高市早苗氏について。 *    *  *  近しい人がデルタ株のコロナ陽性になったり、友人の同僚や、通っている美容院のお客さんが亡くなったりなど、夏以降、急速にコロナの危機が迫っているのを実感している。健康観察をされずに自宅で死亡した50代の方の話などを聞くと、東京五輪・パラリンピックに時間とお金と人材を費やすべきではなかったのではないかとつくづく悔しい思いになる。適切な処置を医療機関で受けられていたら、亡くならないですんだかもしれない命は少なくない。  Go Toキャンペーンやオリパラを強行することに専念してきた自民党政権が、トップの顔を代えただけで変われるとは思えず、期待には程遠い自民党総裁選。岸田文雄さんは、ボロボロの小さいノートを振りかざしては「国民の声を書き留めてきた、1年間で3冊、10年間で30冊」と様々なメディアでアピールしているが、正直、少ないと思う。薄いノートを1年でたった3冊埋めたくらいで、国民の声を聞いたとか言えるって、どんだけ聞いてこなかったかという話なのでは。河野太郎さんは、先日週刊誌でそのパワハラ言動が取りざたされていたが、ワクチン接種という、申し訳ないが素人目線でそこまで難しいとも思えない仕事でつまずいている人に期待するのはムリという話だし、高市早苗さんにいたっては、選択的夫婦別姓に強硬に反対するアンチフェミ女のイメージしかない。女性の人権に無関心な女性総理候補にいったい何の価値があるというのでしょう。  とはいえ、高市早苗議員、いったいどんな人なのか。32歳で衆議院議員に若くして初当選(※)。しかも同期の田中真紀子議員や野田聖子議員のように、親や祖父が国会議員だったというわけではなく、自民党員だったわけでもなく、サラリーマンの父と警察官の母という一般家庭から出てきた無所属の女性議員が、今、最も総理の椅子に近い女性となっている。なぜ高市さんは、政治家の道を選んだのだろう。どのように政治の道を歩いてきたのだろう。政治家としては多い著作のなかから国際政治評論家としてテレビで活躍していた頃に書かれた『30歳のバースディ―その朝、おんなの何かが変わる』(大和出版)、政治家2年目に記された『高市早苗のぶっとび永田町日記』(サンドケー出版局)を読んだ。  高市氏が大学を卒業したのは1984年。1986年に男女雇用機会均等法が施行されるが、この2年の差はやはりとても大きいものがある。女性が生涯にわたる仕事を手にすることも、そもそも親が大学に行かせてくれるかどうかも「女の子」であるというだけで諦めることがまだまだ当たり前にあった世代だ。特に地方であればなおのこと。保守的な奈良に育った高市氏も、当然のように「諦めさせられて」きた。例えば大学もそうだ。高市氏は第1希望だった早稲田と慶応のどちらも合格したにもかかわらず、「女の子のあなたを東京の私学で学ばせる余裕はない。弟の学費に回してほしい」と親に諦めさせられ、「女の子だから一人暮らしはさせられない」と通学に往復6時間かかる神戸大学に入学するのだ。  たとえ難関国立大学出身であっても、女性がその能力と希望に見合う就職先を見つけるのが難しい時代だった。「身の丈」よりもずっと小さく窮屈な型に押し込められる女性たちの悔しさは計り知れないが、高市氏の著書からはその類いの悔しさは強調されない。それは高市氏に並外れた行動力と決断力があり、自らの人生を切り開いてきた自負があるからだろう。たとえば、たまたま大学で目にした松下政経塾のポスターを目にして、直感に導かれるように松下政経塾に“就職”したり。たまたまテレビで見た女性議員で史上初の米国大統領候補指名争いに立候補準備を進めていたパトリシア・シュローダーに惹かれ、その2週間後にはワシントンに旅立ち、その情熱だけでシュローダー議員のオフィスで働き始めたり……若さゆえの大胆さと希望に満ちあふれた当時の高市氏のエピソード一つひとつに圧倒されてしまう。「女だから」と諦めさせられてきたのは大学まで、それ以降は絶対に諦めないという粘り強さで今の地位を築いていくのである。 『30歳のバースディ』は文字通り30歳を迎えた高市氏がそれまでの人生を「ポップ」に振り返る本である。「BGMはいつもユーミンだった」「寂しいのはあなただけじゃない」「空港でまたまた恋人と涙の別れ」「男かペットがいなくちゃダメな私」「女と日の丸と視聴率の相関関係」「三〇女が孤独を感じるとき」といった目次からもわかるように、女友だちに話しかけるように書かれた軽く、優しいノリのものだ。アメリカから帰国し、若い政治評論家としてメディアに露出していたころで、日本の男性社会へのいら立ちも率直に記されている。 「アメリカ議会では日本流のバカバカしい会議がないのが良かった。(略)ところが日本の企業では会議の場では何も決められない。本当は既に決まっているし、とっくに根回しが済んでいることを確認しあうだけの、儀式的な会議のなんと多いことか。でも、私たち女性は妙に正義感が強いので、このような巧妙な人間関係のテクニックとは相性が悪い」  90年代に若い女性が書いたテキストを追いかけながら、私は何度か噴き出したり、そうそうと共感したりと震えるような思いになる。ねぇ、高市さん、「女が入ると会議が長くなる」とほざく森喜朗さんに「あんたの会議はバカバカしい」とはやっぱり言えないものだったの? こういうまっとうないら立ちを文章にしてきた女性が、最も「わきまえる女」になっていく過程に、いったい何があったというの?  さらにこういう率直さは、国会議員になった後に書かれた「高市早苗ぶっとび永田町日記」にも残っている。高市氏は歯に衣着せずに永田町のダメなところをきちんと切っている。 「この一年間に永田町で一番多く耳にした言葉は次の二つ。『挨拶がない』『俺は聞いてないぞ』。委員会の審議日程が流れたり、大切な法案の採決がパーになったりする理由は大抵この二つだったりする」 「笑い話のようなことばかりだが、事実、永田町政治は『理屈』ではなく、『メンツ』で動いている」  さらに、夜の会食や女性がいるクラブなどで行われる男たちの根回しで物事が決まっていく永田町で、女の自分が不利であることも記し、サッチャーのこんな言葉を引用し共感を表明するのだ。 「私は最後まで党内基盤が弱かった。それは男性の世界の根回しに加えてもらえなかったからよ」  なにこの人……すごくまともな「一般人」の感覚で、すごくまともな「女の悔しさ」をストレートに出すフェミじゃないの? しかもそのまともさで、「総理大臣の資質」というものを論じ、当時の村山政権を真っ正面から批判している。明言しているわけではないが、高市氏自身が政治家として一番になること=総理になることを30代から目指しているのも伝わってくる内容なのだった。根回しから排除されてきたサッチャーが首相になれたように、パトリシア・シュローダーが80年代に大統領を目指したように、高市氏は政治家としてトップに行くことを最初から視野に入れていたのだ。  ……と、昔の高市氏の本を読んでいると、うっかり「がんばれ、早苗!」と言いたくなってしまう私がいるのだった。「総理になろうよ!!」と早苗の女友だちポジションに立って拍手したくもなってしまうのであった。まずい、まずい。正気に戻るために2011年に出版された『渡部昇一、「女子会」に挑む!』(WAC)も読んだ。櫻井よしこ氏、山谷えり子氏、高市早苗氏、小池百合子氏、丸川珠代氏・・・といった早々たる「わきまえ女」(帯には「なでしこ軍団」とある)たちと渡部昇一氏との対談本だ。  渡部氏との対談で、「総理になったら、まず何をしますか?」と聞かれた高市氏はこう答えている。 「最初に、政府歴史見解の見直しをします。新たな歴史見解を発表して、村山談話を無効にします」  東日本大震災のあった年の9月に出版されている本だ。震災後から、こういう歴史修正主義を堂々とうたう本や、韓国ヘイト、「慰安婦」運動への過剰な攻撃は度を越していったという実感が私にある。保守政治家から極右政治家に舵を切るように発言をより過激化させていく高市氏の横顔が、対談にはしっかりと刻まれている。夫婦が別の姓を名乗ったら家族が崩壊すると適当なことを言い、戦時性暴力の責任を問わないどころかなかったことにすることが、高市さんの「目指した政治」だったのだろうか。この国の女性たちが権力に近づこうとするならば、率先して選択的夫婦別姓を批判し、「慰安婦」被害者をおとしめる発言をいとわず、女性の権利を口にするフェミを冷笑するというマニュアルでもあるのだろうか。  今いる自民党の女性議員の顔を、一人ひとり思い浮かべてみる。わきまえなければ権力に近づくこともできなかった女性たち。夜の会議や根回しから排除されながらも、その立場を維持するための努力は、二世・三世の男性議員たちとは全く違うものがあったはずだ。それでも、それほどの努力をしても、彼女たちが自らの後ろを振りかえったとき、彼女たちの後ろを歩きたいと思う女性はどのくらいいるだろうか。というかそもそも、その道は後続の女性のために開かれていたことはあったのだろうか。  かつて高市氏が憧れ渡米したパトリシア・シュローダーはテレビカメラの前で涙を流した。そのことによって20年以上「女の政治家は感情的だから、ダメだ」と言われ続け、「あなたの涙のせいで、女の地位が悪くなる」と責められ続けたという。女であるというだけでその「涙」が事件になるのは、昔のアメリカも今の日本も変わらない。そういう政治の世界でトップを目指す女性たちが、女性の味方であることを忘れるのは「仕方ない」ことなのだろうか。それとも、アンチフェミニズムの顔で女性をたたくような女性政治家しか出せない自民党政治そのものが終わっている、ということなのか。 ※訂正 配信時の「32歳で衆議院議員に初当選、女性議員としては、当時憲政史上最年少だった」という一文を、「32歳で衆議院議員に若くして初当選」と訂正しました。高市氏の著書『高市早苗のぶっとび永田町日記』に「女性として憲政史上最年少当選」と記してありましたが、実際は1946年4月10に三木キヨ子氏が20代(当時)で当選していたため削除、修正します。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表
フェミニスト北原みのり自民党総裁選高市早苗
dot. 2021/09/09 08:00
パラリンピックににじむ経済格差 義足の価格は年収以上…「すべてが先進国基準で不公平」の声も
パラリンピックににじむ経済格差 義足の価格は年収以上…「すべてが先進国基準で不公平」の声も
アーチェリー男子コンパウンド個人に出場したマット・スタッツマン(米国)は、足で弓を持って矢を射る (c)朝日新聞社 ラオス唯一の代表選手ケン・テプティダ(右)と羽根裕之コーチ。男子100メートル(T13)予選で11秒72の自己ベストを記録した(撮影/編集部・深澤友紀)  東京パラリンピックで選手たちが躍動し、障害者スポーツがこれまで以上に注目を集めた。その一方で、費用や練習環境の問題で出場や競技をあきらめた選手も少なくない。AERA 2021年9月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  生まれつき両腕がなく、右足で弓を持ち、肩にベルトを装着して矢を射るアーチェリーの米国代表、マット・スタッツマン(38)は、パラリンピックについてこう話した。 「腕がなくても、ハイレベルな戦いはできる。ここには差別や偏見はない。『誰だって、何だってできるんだ』ということを伝えたい」  9月5日まで13日間開催された東京大会では、さまざまな障害のある選手たちが自らの障害特性と向き合い、創意工夫をしながら限界に挑んだ。無意識のバリアーを破り、一人ひとりの違いを認め、誰もが活躍できる共生社会実現に向けたヒントが詰まっていた。  一方、陰の部分は見えにくい。 「パラリンピックは格差ばかり。すべてが先進国基準で不公平」  そう指摘したのは、ラオス代表の陸上コーチ、羽根裕之さん(55)だ。千葉県君津市出身。中高時代に陸上に打ち込み、全国高校総体に出場した。37歳のとき、仕事中の事故で左腕を切断。自暴自棄になったが、パラ陸上と出合って再び走り始めると、三段跳びや走り幅跳びで日本記録を樹立した。 「目標を持つことで立ち直ることができた。この体験をロールモデルの少ない発展途上国で伝えられたら」と、2015年11月にNPO法人アジアの障害者活動を支援する会のスタッフとしてラオスに赴き、同国陸上界初のパラリンピアン誕生に向けて活動した。最初の3年は住居の提供を受けたが、以降はボランティアで指導する。 ■土俵にさえ立てない  今回ただ一人出場した弱視クラスのケン・テプティダ(21)は、この6年間で100メートルのタイムを2秒も縮めた。だが、一緒に練習してきた兄のゴン・テプティダ(26)は出場がかなわなかった。  パラリンピックの陸上に出場するには、各種目・クラスごとに設定されている標準記録を突破しなければならない。2人は練習で標準記録11秒50を上回りながら、新型コロナウイルス感染拡大の影響で最終選考会が中止となった。欧州や日本での大会に出場しようとしたものの、コロナ禍による渡航制限や渡航費の高騰などのためあきらめた。  国際パラリンピック委員会(IPC)と交渉し、健常者と一緒に走った大会でも記録が公認されることになった。だが、ラオスには電動計測機がない。手動による計測は認められなかった。最終的に、出場する選手がいない場合に各国(地域)男女1人ずつが出場できる特別枠でケンが出場することになった。羽根さんは言う。 「選考会が開かれていれば2人を出場させる自信はありました。標準記録を突破できず参加できないのならあきらめもつきますが、その土俵にも立てなかった。ラオスから見ていると、パラリンピックは不公平です」 ■義足の費用は年収以上  選手強化の面でも経済的格差を感じる場面が多いという。羽根さんはこう語る。 「新品のスパイクは約2万円で、公務員の初任給でも足りない。スポーツ用義足は安いものでも30万円して、年収でも追いつかない。海外に遠征するのも費用の工面が難しい。途上国にとって、パラスポーツを続けるのはとても大変です」  各競技の強豪国を見ると、経済格差がにじむ。国連によると、障害者の約80%が発展途上国に住んでいながら、車いすを使って実施される団体競技のバスケットボールやラグビーは先進国が名を連ねる。  一方、床に尻をつけてプレーするシッティングバレーボールは違う。男子ではボスニア・ヘルツェゴビナとイランが00年シドニー大会から5大会連続して決勝で金メダルを争ってきた。女子も今大会、アフリカ中部のルワンダなど他の団体競技では見ない国が出場した。 「シッティングバレーは特別な機材が必要ないので、競技用車いすや義足などがなかなかそろわない途上国も互角に戦える」  ルワンダのシッティングバレーチームの事前キャンプを沖縄で受け入れた際のつなぎ役となったNPO法人エンパワメント沖縄理事長の高嶺豊さん(73)はそう話す。  シッティングバレーは、戦争で負傷した兵士のリハビリのために1956年に考案された。実際、海外のチームは戦争や内戦絡みで下肢に障害を負った選手が多い。例えばボスニア・ヘルツェゴビナは、激しい民族紛争の影響で障害を負った人たちの社会復帰のため、国がシッティングバレーを支援する。男子のエース、サフェト・アリバシッチ(38)も12歳のときに地雷を踏んで左足かかとを失った。 ■疎外感を抱いた人も  発展途上国は活躍できる競技が限られる。ただ、その中でも大会に出場する意義はあるという。高嶺さんはこう話す。 「途上国では障害者に対する強い偏見や差別がある国もありますが、パラリンピックで国外のアスリートの様子を知り、彼ら自身が変わり社会を変えていく。障害者スポーツにはそういう効果もあります」 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2021年9月13日号より抜粋
AERA 2021/09/08 11:30
東京パラリンピックで日本勢の金メダル13個のうち6個が静岡県出身者だった理由
東京パラリンピックで日本勢の金メダル13個のうち6個が静岡県出身者だった理由
鈴木孝幸は日本競泳チームの主将。出場5種目すべてでメダルを獲得し、メダルなしに終わった前回大会の雪辱を果たした(c)朝日新聞社 陸上男子(車いすT52)の佐藤友祈は世界記録保持者として臨んだ400メートルと1500メートルで金メダル(c)朝日新聞社 自転車女子ロード(C1~3)の杉浦佳子はパラリンピック初出場で2冠(c)朝日新聞社 杉村英孝は日本ボッチャ界初の金メダルを獲得。個人(BC2)決勝で精密なコントロールを見せた(c)朝日新聞社  9月5日に閉幕する東京パラリンピックで、日本選手団は2016年リオデジャネイロ大会でゼロだった金メダルを13個獲得した。そのうち6個は静岡県出身の選手が占めた。理由は何かあるのだろうか。 *  *  *  金メダルに輝いた静岡県出身の選手は、自転車ロード2冠で日本人最年長の金メダリストとなった杉浦佳子(50)=掛川市出身=、ボッチャ個人の杉村英孝(39)=伊東市=、競泳男子100メートル自由形で3大会ぶりに頂点に立った鈴木孝幸(34)=浜松市出身=、陸上(車いす)2冠の佐藤友祈(31)=藤枝市出身=の4人だ。  ただ、現在も静岡県に住み、練習拠点としているのは杉村だけ。杉浦は東京都在住で、今年3月から福岡市に拠点を置くロードレースチーム「VC福岡」に所属している。鈴木はイギリス、佐藤は岡山県でトレーニングを積んできた。静岡県の練習環境が金メダルに直接結びついているわけではない。  では、ほかに理由があるのか。 「正直、なぜだかわからないんです」  静岡県スポーツ振興課課長の高松央(ひさし)さんは首をかしげる。 「パラリンピックを目指す選手にも、五輪と同じ年間最大120万円の助成を行って支援していますが、特別な施設があるわけでもなく、他の県に比べて恵まれた環境とは言えません。選手たちがご自分で競技環境を開拓して、ずっと努力を続けてきた成果ではないでしょうか」  障害者専用のスポーツ施設は、1974年に大阪市で初めて作られた。現在は都内2カ所のほか、横浜市、千葉市、仙台市など各地にあるが、静岡県内にはない。静岡県沼津市に住む車いすラグビー銅メダリストの若山英史(36)は、毎週のように横浜市の障害者スポーツ文化センター横浜ラポールに通っている。  静岡県出身で、長年パラスポーツを撮り続けてきたカメラマンの男性はこう推測する。 「静岡はスポーツに限らず、進学や就職で関東や関西に出ていく人が多い。一番いい競技環境を求めて県外に飛び出していくのはそうした県民性もあるのでは」  陸上の佐藤は12年ロンドン・パラリンピックを見て静岡県内で競技を始めたが、2年後に岡山県に拠点を移してパラリンピック3大会連続出場の松永仁志さん(48)に師事した。ただ、他県出身者も佐藤のように拠点を移す選手は少なくない。  競泳の鈴木も、静岡県出身者が活躍した理由について「正直分からない」と言う。 「私の場合は6歳の頃に水泳を始める段階で、障害者のスイミングスクールがあって、そこに通うことができたのが大きい。30年近く前に、そういう土壌があったのは大きいポイントだと思います」  通ったのは、浜松市内にある障害者のための水泳教室「ぺんぎん村」。生まれつき右足が付け根からなく、左足はひざまで、右腕はひじまでしかない鈴木は、そこで泳ぎを学んだ。 「静岡は障害者がスポーツに親しむ裾野が広いと思います」  そう語るのは、静岡県障害者スポーツ協会評議員や静岡パラ陸上協会理事長を務めている杉山金吾さんだ。静岡南部特別支援学校校長で、ボッチャの杉村が小学1年のときの担任だった。  裾野が広い背景には、パラアスリートの存在がある。その一人が、静岡県出身で東京パラリンピック日本選手団団長の河合純一さん(46)だ。1992年バルセロナ・パラリンピックから6大会連続で出場し、日本人最多の21個のメダルを獲得した。日本人で初めて国際パラリンピック委員会の殿堂入りも果たしている。この活躍で、地元メディアが障害者スポーツを報道する機会は多かった。  現在は、リオ・パラリンピックに出場した静岡県勢12人が「障害者スポーツ応援隊」の一員として県内の学校で講演や交流をしている。  また、県内では誰もが気軽に参加できる5千人規模の障害者スポーツ大会「わかふじスポーツ大会」が毎年開かれている。今年で22回目となる。それぞれの競技の運営は主に健常者の競技団体が担っていることもあり、健常者と障害者のスポーツの垣根が低いという。静岡県サッカー協会チャレンジド委員会代表の瀬戸脇正勝さんは言う。 「視覚障害や切断、知的障害など障害者サッカーも県サッカー協会の委員会の一つとして活動していて、各団体のネットワークも強い。健常者が審判や練習相手になり、障害者の専用の施設はなくても、天然芝や人工芝など恵まれた環境で練習や試合ができるので他県からもうらやましがられます」  裾野をさらに広げる取り組みも始まっている。静岡県は昨年9月、病気や事故で足を失った子どもたちがスポーツ義足を履いてランニングに挑戦するイベントを主催した。10人が参加。将来的には自分で日常用からスポーツ用の義足に付け替えて走れるようにと、交換の練習もした。  講師を務めた義足の陸上選手4人のうち、東京パラリンピック代表の山本篤(39)ら3人が静岡県出身。競技用義足を提供した義足エンジニアで、Xiborg代表取締役の遠藤謙さん(43)も静岡県出身だ。参加者の一人が4日後の運動会で走るため、遠藤さんは急きょ義足を貸し出し、山本がテレビ電話で走り方を教えたという。  遠藤さんはこう話す。 「足を切断した子どもたちにも走る楽しさを体感してもらいたいし、日常的に走れる環境をつくりたい」  ただ、こうした義足は高額でなかなか手に入らない。山本はこう語る。 「日常用の義足は保険か障害者手帳で助成を受けられますが、競技用の義足は数10万円か100万円ほどと高いので、義足で走っている子どもは少ない。でも、義務教育課程で体育がある。子どもたちに競技用義足を提供できる仕組みづくりを自治体などに働きかけていきたい」  東京パラリンピックでの静岡県出身者の活躍で、県内でのパラスポーツへの関心はより高まっているようだ。自転車の杉浦は9月3日、2個目の金メダルを取った後のインタビューで言った。 「パラスポーツをやりたいという方から(静岡県)障害者スポーツ協会に連絡がきていると聞いて、すごくうれしいです。自分を見てそう思ってくれる方がいたのであれば、自分は一番いい仕事ができたかな」 (編集部・深澤友紀) ※AERAオンライン限定記事
東京パラリンピック
AERA 2021/09/05 14:22
冬季大会メダリストの太田渉子がテコンドーに挑む理由 「すぐにできることより難しいことに挑戦するのが好き」
冬季大会メダリストの太田渉子がテコンドーに挑む理由 「すぐにできることより難しいことに挑戦するのが好き」
おおた・しょうこ/1989年、山形県尾花沢市出身。ソフトバンク所属。生まれつき左手の指が全てない。小学校3年生のときにスキーを始め、パラリンピックは16歳で2006年トリノ大会に初出場し、バイアスロンで銅。10年バンクーバー大会ではクロスカントリースキーで銀メダルを獲得した。14年ソチ大会後に引退。15年から趣味としてテコンドーを始め、19年世界選手権で銅メダル。障害クラスはK44(上肢障害) (写真/写真部・東川哲也)  東京パラリンピックは9月4日、テコンドーの女子58キロ超級(K44)があり、2014年ソチ、冬季大会のメダリスト・太田渉子(32)が出場する。AERA2019年12月2日号のインタビューを紹介する。 *  *  *  黒帯を締めた瞬間、それまでの柔らかな印象が一変した。パラテコンドーで女子唯一の強化指定選手・太田渉子は、半身になって構えると、射るようなまなざしでハイスピードな蹴り技を繰り出した。  得意技はカットと呼ばれる前蹴りだ。パラリンピックの銀と銅メダルを獲得したスキーで鍛えた足腰から繰り出す強い蹴りを武器に、2018年に本格的に競技を始めてすぐに頭角を現した。19年の世界選手権では世界ランキング1位の選手を破って3位になった。  とはいえ、パラテコンドーはスキーとは全く別の競技だ。太田も最初は膝を高く上げて蹴るという基本動作ができずに苦労したという。なぜ未知の競技を? 「新採用の競技で選手もいなかったので、自国開催のパラリンピックを日本選手として盛り上げたいと思ったことと、小さい頃から、すぐにできることより難しいことに挑戦するのが好きだったので」  例えば保育園の頃。コマ回し大会があったが、左手の指が全てない太田には、コマの裏側にひもをきつく巻く作業ができない。自宅に帰り、悔し涙を流しながら母と一緒に繰り返し練習し、本番では1位に。先生が作ったメダルを手にした。  現在取り組むのが後ろ回し蹴りだ。「三半規管が弱いのか、すぐに酔っちゃう」という太田は、日常の中でも回転動作を採り入れ、感覚を鍛えているという。 「いま以上に技を習得し、コートの中で自由自在に動きたい。できるようになった自分を想像すると楽しいんです」 (編集部・深澤友紀)      * ■パラテコンドー  足技を中心とした格闘技。頭部への攻撃禁止などを除くと、ルールは一般のテコンドーとほぼ同じで、八角形のコートで、2分3ラウンドを戦う。初採用となる東京パラリンピックでの種目は上肢障害の選手によるキョルギ(組手)。有効な蹴りは1回2点で、180度の回転が加わった後ろ蹴りは3点、360度の回転蹴りは4点となる。 ※AERA2019年12月2日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/09/04 09:00
頂点を狙うアーチェリーの重定知佳 「ウエシゲ」ペアは「歯車が合う」ワケ
頂点を狙うアーチェリーの重定知佳 「ウエシゲ」ペアは「歯車が合う」ワケ
しげさだ・ちか/1982年、北九州市出身。林テレンプ所属。中2のときに進行性の難病HTLV―1関連脊髄症と診断され、歩行が難しくなる。19歳のときに車いすテニスを始め、国内ランキング6位にもなったが30歳で引退。2015年にアーチェリーをはじめ、18年アジアパラ大会ミックス戦で銀メダル。19年のパラ世界選手権で東京パラリンピックの出場権を獲得。同年のアジア選手権では個人戦金メダル。リカーブ女子の世界ランキング5位(写真/江藤大作)  東京パラリンピックは9月4日、アーチェリーの混合リカーブがあり、重定知佳(38)が上山友裕(34)と組んで出場する。AERA2021年2月1日号のインタビューを紹介する(肩書、年齢は当時)。 *  *  *  北九州市の城山緑地アーチェリー場。左端のレーンが重定知佳の指定席だ。この場所で週6日、1日6~8時間、一人で黙々と弓に矢をつがえ、弦を引き絞り、矢を解き放つ。多いときは350本。その高い集中力が重定の持ち味だ。 「地味な作業の繰り返しです。多く射たないと感覚が鈍るから」  病気の影響で胸から下の体幹が弱いため、体の感覚を研ぎ澄ませ、弓と矢とわずかに残る体幹で絶妙なバランスを取る。手元の1ミリのずれが70メートル先で約10センチものずれになると言われるが、軽々と的の中央を射抜いていく。  趣味としてアーチェリーを始めた1年後、2016年全国障害者スポーツ大会で女子リカーブ30メートルを大会新記録で制した。リオ・パラリンピックで7位入賞を果たしたばかりの上山友裕(現・男子リカーブ世界ランク2位)から「来年の世界選手権も狙える」と激励され、上を目指すことに。19年春からは末武寛基コーチに教えを請い、苦手としていた1対1のマッチ戦でも力を発揮。国際大会でメダルを量産している。  特に上山との「ウエシゲ」ペアで挑むミックス戦は、20年2月の世界ランキングトーナメントで世界の頂点に立つなど、「最もメダルに近いペア」と評される。 「私が外してもカバーしてくれるし、上山くんの調子が悪くても、イライラすることなく、逆に『私に任せて』と思える。歯車が合うんです。個人戦とミックス戦で2人合わせて3個金を狙っています」 (編集部・深澤友紀)      * ■アーチェリー  的を狙って矢を放ち、得点を競う。一連の所作は優美だが、心身のわずかなぶれが勝敗を分ける難しい競技。五輪と同じ70m先の的を狙う「リカーブオープン」と、滑車のついた弓を使用して50m先の的を狙う「コンパウンドオープン」、そして四肢に麻痺などがあり、体幹が利かない選手が出場する「W1」(的までの距離は50m)の3種目がある。 ※AERA2021年2月1日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/09/04 08:00
車いすテニスの上地結衣「出し切って金メダルをとりたい」 磨いたバックハンドボレー
島沢優子 島沢優子
車いすテニスの上地結衣「出し切って金メダルをとりたい」 磨いたバックハンドボレー
かみじ・ゆい/1994年、兵庫県生まれ。先天性の潜在性二分脊椎症のため車いすを使用するように。水泳、車いすバスケットボールなどを経験した後、11歳から車いすテニスを開始。2014年に20歳と史上最年少でダブルスの年間グランドスラム達成。16年のリオ大会は、シングルスで銅メダルを獲得(写真/伊ケ崎忍)  東京パラリンピックは9月3日、車いすテニスの女子シングルス決勝があり、上地結衣(27)が出場する。相手はD・デフロート(オランダ)。AERA2019年4月15日号で力強く語ったインタビューを紹介する(肩書、年齢は当時)。 *  *  *  大坂なおみが優勝した1月の全豪オープンで、車いすの部女子シングルス準優勝。3年連続で決勝進出した上地結衣について「もっと評価されるべきだ」という投稿へのリツイートが2万件を超えたことが話題になった。 「恐れ多いけど、みなさんが車いすテニスを見てくれるようになった証し。東京では準備してきたことを全部出し切って金メダルをとりたい」と意気込む。  最大の壁が、全豪決勝でも2年連続で敗れたD・デフロート(オランダ)だ。身長143センチの上地より頭ひとつ高い170センチ台の体から男子並みの剛球を繰り出すライバルを封じる作戦を、上地は「相手の時間を奪う」と説明する。  磨いているのは深いドライブを打ち込んでからのバックハンドボレー。以前は2バウンドで拾ったボールを1バウンドで返す速攻を狙う。長いラリーで相手を揺さぶる自分のスタイルを変える。 「不安がないわけじゃない。でも、やらないとどの道負ける。やるしかない」  笑顔ではきはきと取材に応じ、海外でも人気者。日本人には珍しく自ら輪の中に入っていく一方、古風な面も。 「お世話になった人にお礼しなきゃとか上下関係を重んじるので、実は昭和生まれかと年齢詐称を疑われる」と笑う。  国枝慎吾ら先駆者への感謝も忘れない。 「遠征に誘ってもらったし、送迎の予約の仕方なども一から教えてもらった」  ビッグチャレンジは、きっと大きな恩返しになる。  (ライター・島沢優子)      * ■車いすテニス  2バウンドが認められている以外は通常のテニスとほぼ同じルール。足を使って車いすを操作したり、地面に足をつけるのは原則禁止(特例あり)。打つ際に両方の臀部を浮かせてはいけない。バルセロナ大会から正式競技で、「パラリンピックに関する意識調査」(電通)によると、東京大会で観戦したい競技の1位。 ※AERA2019年4月15日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/09/03 09:30
「受付嬢では参加が許されぬイベント」に憧れ起業家に 就職氷河期で「派遣」の道へ
「受付嬢では参加が許されぬイベント」に憧れ起業家に 就職氷河期で「派遣」の道へ
はしもと・まりこ/1981年生まれ、三重県鈴鹿市出身。39歳(撮影/写真部・東川哲也) 東京・渋谷の高層ビルに入る本社。受付の先には大きなフリースペースが広がり、いろんなところに腰掛けて仕事や雑談ができる(撮影/写真部・東川哲也)  かつての起業家が「意思ある投資家」として、次世代の起業家を育てる。そんな循環の中心にいる人々に迫る短期集中連載。第1シリーズの第3回は、企業の受付から起業家に転身した、ベンチャー企業RECEPTIONIST(レセプショニスト)のCEO・橋本真理子(39)だ。AERA 2021年9月6日号の記事の1回目。 *  *  *  東京・渋谷のランドマーク、セルリアンタワー11階。「日本を代表する総合インターネットグループへ GMO」と書かれた円筒型の受付カウンターの中には、常時3人が待機する。 「かっこいいなあ」  その一人、橋本真里子はテーブルの下に忍ばせたスマホの画面をこっそりのぞき込んだ。仕事中にスマホを見ていて良いわけがない。この道10年の彼女が知らないはずもないが、どうしても衝動を抑えられなかった。  橋本が見ていたのは、ベンチャー育成の一大イベント「IVS(インフィニティ・ベンチャーズ・サミット)」の目玉企画「ローンチパッド(発射台)」。予選を勝ち抜いた起業家の予備軍が、ベンチャー投資家(VC)の前でピッチ(ビジネスのプレゼンテーション)を行う。優秀者は出資を受けられる。  腕に覚えのある起業家たちが「我こそは」とピッチを繰り広げる。その感想を後に橋本は自分のブログにこう記している。 <受付嬢では参加が許されぬイベント。(中略)出ている人みんなかっこいい…いつか出たい…自分の言葉で自分たちのサービスを伝えるってすごいなーってずーーっと思っていました> ■近くて遠い起業家たち  それは橋本にとって近くて遠い世界だった。大学卒業から複数のIT企業で受付をしてきた橋本は、多くの業界関係者と顔見知りになった。ローンチパッドに登場する起業家も、何人かは知り合いだ。審査しているVCにも知己が少なくない。 「マリちゃん、週末空いてる? お客さんとのゴルフ、付き合ってくれないかな」 「取引先と会食なんだけど、俺たちだけだと間がもたなくて」  いつも笑顔で頭の回転が速い橋本は、経営者たちに重宝がられた。ゴルフや会食を共にすれば、おのずと業界の事情にも通じてくる。誰と誰が仲が良いか、あの会社はどんなことで困っているか。様々な情報が入ってくる。だが、それはそれ、これはこれ。プログラムが書けるわけでも財務が分かるわけでもない。ただ憧れるだけだった。  1981年、三重県鈴鹿市で3人きょうだいの末っ子に生まれた。父は旭化成の工場の研究者。社宅で育ち、「早く結婚してお母さんになる」と思っていた。高校生の時、母から「一度は東京に行きなさい」と勧められた。母は社宅暮らしが気詰まりだったようだ。それもあって武蔵野女子大学(現武蔵野大学)に進む。当時も「しばらくOLをして結婚」と考えていた。  だが大学を卒業した2004年は就職氷河期の真っただ中。「しばらくOL」が簡単ではなかった。友達は髪を黒く染めリクルートスーツを着て、たった一つの内定をもらうのに何十社も訪問した。個性が消え、みんな同じ顔になっていく。 (何のために?)  橋本は両親に言った。 「私には就活、無理みたい」  大学を卒業してから1年間、アルバイトをしながら考えた。 「働くってどういうことだろう」  二人の兄は大学を出て、商社と銀行に就職した。友達も皆、働いている。アルバイトでは収入も安定しない。焦りが募る。新卒でも難しい正社員。「第二新卒」という言葉も珍しかった当時、門戸はさらに狭くなる。  一方、正社員と違って売り手市場だったのが派遣社員。橋本が目をつけたのは企業の受付だった。接客のバイトをしていたので、これなら自分にもできそうだ。「働く場所が大企業」というのもいい。早速、新宿西口の派遣会社で登録を済ませた。 (敬称略)(ジャーナリスト・大西康之) ※AERA 2021年9月6日号より抜粋
AERA 2021/09/03 08:00
51歳の「水の女王」がパラ出場 「若い選手に何か学んで感じ取ってもらえたら」
51歳の「水の女王」がパラ出場 「若い選手に何か学んで感じ取ってもらえたら」
水泳・成田真由美(51)/4種目にエントリー。アンカーを務めた混合200メートルリレーで予選落ちしたが、「すごく悔しい」と闘志は衰えていない(c)朝日新聞社 トライアスロン・谷真海(39)/谷(前列右)は開会式で、卓球の岩渕幸洋(同左)とともに日本選手団の旗手を務めた。「大会の開催も自分の出場も全てが奇跡に感じる」(c)朝日新聞社  東京パラリンピック招致成功から8年。待ち望んだ大舞台に選手たちは挑んでいる。復帰したベテランや開催決定を機に競技を始めた選手。それぞれの思いがある。AERA 2021年9月6日号の記事を紹介する。 *  *  * 「TOKYO!!」  2013年9月、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、ジャック・ロゲ会長(当時)が20年夏季大会の東京開催を発表した。それから8年。パラアスリートたちはさまざまな思いを抱いて大会に挑んでいる。 「あきらめないで、よかった」  開幕1週間前の8月17日にあった日本選手団の結団式で、開会式の旗手・谷真海(39)は喜びをかみしめていた。  8年前のIOC総会で、谷は東京招致に向けた最終プレゼンテーションのトップバッターとしてスピーチに立った。  19歳のときに骨肉腫を発症し、右足のひざ下を失った自分が、パラ陸上と出合って自信を取り戻していったこと、東日本大震災の津波が故郷の宮城県気仙沼市を襲ったこと、そして被災地の子どもたちがスポーツを通して笑顔を取り戻していったこと。「スポーツの力」を情熱的に訴えたスピーチは、招致成功の大きな原動力になった。  その後、結婚と出産を経験。子どもが1歳を迎えた16年に競技復帰を決意し、トライアスロンを始めた。瞬発力を生かした走り幅跳びでパラリンピックに3回出場していたが、持久力が必要とされる競技のほうが年齢を重ねても続けていけると考えたことも転向の理由だった。  仕事と子育ての両立に加え、スイム、バイク(自転車)、ラン3種目の練習の時間を確保するのは簡単ではなかった。  それでも、子どもの頃から親しんでいた水泳と、右足のひざ下を切断してから10年以上続けてきた陸上の経験を武器に、翌年の17年には世界選手権で優勝。東京大会の金メダルも照準に入ってきた。 ■震災から10年の節目  そんな矢先の18年、谷の障害クラスが東京大会の実施種目から外れ、出場の道が閉ざされた。落胆し、練習が手につかない時期もあったという。約4カ月後に障害の軽いクラスとの混合で実施されることになったが、選考レースは厳しいものとなった。それでもあきらめなかった。  昨年、新型コロナウイルスの感染拡大で、東京大会が1年延期された。練習もままならない日々が続き、スポーツは不要不急のものとして厳しい目が向けられた。 「招致のスピーチで使った『スポーツの力』という言葉を使うのは、逆風の中ではばかられることもありました」  そんな中であらためてスポーツの力を信じさせてくれたのが五輪だったという。 「次は私たちパラリンピアンが受け継ぐ番」  1年延期で、東京大会は震災から10年の節目に開かれることになった。 「現地の方は一人ひとり置かれた状況も心境も違うし、無理やり復興と結びつけるのが正しいかわからない。でも、多くの人に10年の節目に心を向けてもらうのは無駄なことではないと思う」 「水の女王」と称される成田真由美(51)は、最後のパラリンピックに臨んでいる。  1996年アトランタ大会から4大会連続で出場。金15個を含む20個のメダルを獲得し、13の世界新記録を樹立した。開会式で聖火リレーを運ぶ大役を務めた際に「過去に金メダル15個」とアナウンスが流れ、 「ああ、そうだなって。メダルを取ったんだなって。すごくしみじみ振り返ることができましたね」 ■若い選手に見てほしい  中学の頃、横断性脊髄(せきずい)炎を発症し、下半身不随になった。中学時代のほとんどを病院で過ごした。高校時代に車いすスポーツに親しみ、23歳で水泳を始めた。08年北京大会後に現役を退いた後は、パラスポーツの魅力や心のバリアフリーを訴えてきた。  東京大会は、日本にバリアフリーを広めるチャンスになると期待し、大会組織委員会の理事になるなど裏方に回っていた。だが、パラ水泳で次の世代の選手たちが育っていなかった。自分が率先して泳ぐことで「自分もやってみよう」と思う選手が出てくることに期待し、14年11月に現役復帰を決意した。  2年前のAERAの取材に、強みを「負けず嫌い」と答えた。誰に負けたくないかと尋ねると、「他の選手じゃない、自分に」。46歳で迎えた16年リオデジャネイロ大会では女子50メートル背泳ぎで自己記録をマークするなど、年齢を重ねてさらに進化を続けてきた。  競技復帰時に願っていたとおり、ここ数年で多くの若い選手が育った。今大会の水泳代表27人の3分の2がパラ初出場だ。 「私の姿を若い選手が見て、何か学んで感じ取ってもらえたら、私もすごくうれしいな、とは思います」 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2021年9月6日号より抜粋
東京パラリンピック
AERA 2021/09/01 11:00
冬の女王・村岡桃佳が陸上女子100メートルへ 号泣したあの夜からの飛躍
島沢優子 島沢優子
冬の女王・村岡桃佳が陸上女子100メートルへ 号泣したあの夜からの飛躍
むらおか・ももか/1997年、埼玉県出身。トヨタ自動車所属。4歳のときに病気で下半身麻痺となり車いす生活となる。小学2年時に車いすスポーツの体験イベントで陸上に出合い、小学3年時からチェアスキーを始めた。パラリンピックの2014年ソチ冬季大会で5位。次の平昌冬季大会で金1銀2銅2と出場全種目でメダルを獲得した(写真/写真部・加藤夏子)  東京パラリンピックは9月1日、陸上の女子100メートル(T54)があり、2018年平昌冬季大会スキーでメダル5個を獲得した村岡桃佳(24)が出場する。冬の女王が語ったAERA2021年7月5日号のインタビューを紹介する(肩書、年齢は当時)。 *  *  *  パラリンピックの陸上女子代表に内定した村岡桃佳は5月、スイスで行われた国際大会の女子100メートル(車いすT54)で今季世界ランキング3位となる16秒56をマークした。 「最初は出場が目標だったが、上方修正して決勝進出を目指したい」  2018年平昌冬季大会女子アルペンスキーで金を含むメダル5個を獲得し、翌年に東京大会挑戦を決めた。子どものころ、スキーをする前に打ち込んでいた陸上で出場したいという野心と、冬の女王の重圧からスキーと少し距離を置きたい気持ちとが混在していた。  岡山に練習拠点を置くワールドアスリートクラブで陸上競技に取り組むことになった。東京を出発する前夜のこと。 「妹の前で行きたくないって号泣して、思い切り引かれました(笑)。極度の人見知りなので新しい環境が怖かった」  何とかたどり着いたのに、担当コーチから「100メートルを走れる体が何もできてない」と言われた。アップさえついていけず練習を途中リタイア。それでも頑張れたのは冬の女王の意地だろう。2カ月後には日本記録保持者になった。  1年延期となったため、この冬はスキーと陸上の両立で苦労した。その一方で、2シーズンぶりにスキーに乗って「陸上で鍛えた基礎体力が生かされている」と思わぬ副産物に気づく。離れていたスキーでも、進化を遂げていたのだ。  夏冬の二刀流挑戦で、心身ともに成長した。夏でも、その笑顔が見たい。 (ライター・島沢優子)      * ■陸上競技(車いす)  障害が軽い選手は正座の姿勢で体勢を低くし、空気抵抗を減らしてスピードを上げる。腹筋が機能しない選手は自力で上半身を起こすことができないため、重心を後ろにした着座姿勢で乗る。直径70センチ以内の後輪からなるレーサーという競技用車いすを用いる。重さは8~10キロ程度で、フレームはアルミニウムやチタン製。 ※AERA2021年7月5日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/09/01 11:00
頂点を狙う水泳の山口尚秀「2人につながることができれば」 名前は高橋尚子と松井秀喜から
頂点を狙う水泳の山口尚秀「2人につながることができれば」 名前は高橋尚子と松井秀喜から
やまぐち・なおひで/2000年、愛媛県今治市出身。四国ガス勤務、瀬戸内温泉スイミング所属。3歳の時、知的障害を伴う自閉症と診断される。1歳から水に親しみ、小4で水泳を始める。16年、高1のときに全国障害者スポーツ大会に出場。19年9月、世界パラ水泳で男子100メートル平泳ぎを1分4秒95の世界記録で制し、東京パラリンピックの出場内定を得る。その後、20年11月に1分4秒13、21年5月に1分4秒00と、2度世界記録を更新(写真/写真部・松永卓也)  東京パラリンピックは8月29日、水泳の男子100メートル平泳ぎ(SB14)があり、世界記録保持者の山口尚秀(20)が出場する。AERA2021年7月12日号で目標を語ったインタビューを紹介する(肩書、年齢は当時)。 *  *  *  身長187センチ、足のサイズは30センチ。足ひれのような大きい足から繰り出される強いキックが、伸びのあるストロークを生む。男子100メートル平泳ぎ(知的障害クラス)の世界記録保持者=1分4秒00=として初のパラリンピックに挑む山口尚秀は「東京パラでは1分3秒台で金メダルをとりたい」と狙いを定める。  2年前、18歳で初出場した世界パラ水泳で同100メートル平泳ぎの世界記録を出し、パラスポーツ界に彗星のごとく現れた。東京大会が1年延期された昨年は会見で「気持ちが遠くなった」と語ったこともあった。だが、プールが使えなかった時期も「いつ練習が再開してもいいように」と体調や生活のリズムを整え、今できることを大事にした。練習再開後は特に体重移動を意識し推進力がさらにアップ。コロナ禍で2度も自身の世界記録を更新した。  自国開催で金メダルを期待されて重圧もあるが、そんなときは「何のために東京パラで成果を残したいのかを考える」という。 「金メダルを獲得することで、障害者への見方を一新できればと思っている。障害のある人もない人も輝ける社会に近づけたい」 「尚秀」の名は、山口が生まれた2000年のシドニー五輪女子マラソンで金メダルに輝いた高橋尚子と、プロ野球のスーパースター松井秀喜からとったという。 「世界で活躍していたスポーツ選手ですので、自分も日本代表として2人につながることができればと思っています」 「山口尚秀」の名がパラリンピックの歴史に刻まれるのも、もうまもなくだ。 (編集部・深澤友紀)      *  ■水泳  五輪の競泳と同様、自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、個人メドレー、リレー、メドレーリレーの7種目で競う。ルールも同じだが、障害の程度に応じて特別なスタート方法やゴールタッチも認められている。「身体障害」「視覚障害」「知的障害」のクラスに大別される。知的障害の選手は気持ちのコントロールが難しい特性がある。レースで力を発揮できるよう、各自に合う方法を見つけ、本番に挑む。 ※AERA2021年7月12日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/08/29 09:00
松山英樹「メダル取って」に稲見萌寧は「私じゃなくて…」 ゴルフ五輪裏話
丸山茂樹 丸山茂樹
松山英樹「メダル取って」に稲見萌寧は「私じゃなくて…」 ゴルフ五輪裏話
丸山茂樹 英樹の責任感の強さにあっぱれ (GettyImages) 女子で日本勢として初のメダルとなる銀メダルに輝いた稲見萌寧 (c)朝日新聞社  ゴルファーの丸山茂樹さんが「東京五輪」について振り返る。 *  *  *  みなさんお久しぶりです。ゴルフの日本代表監督として参加した東京オリンピックも終わり、連載を再開させていただきます!  いやあ、暑かった。会場の霞ケ関CC(埼玉)は天気も非常によくて、照り返しと蒸し暑さが重なった感じでね。選手はほんとに苦しんだと思いますね。よく戦い抜いてくれました。  男子は松山英樹(29)が4位、星野陸也(25)が38位。女子は稲見萌寧さん(22)がゴルフの日本勢として初のメダルとなる銀メダル! 畑岡奈紗さん(22)が9位でした。  僕は男子の4日間(7月29日~8月1日)、2人のラウンドについて回りました。彼らが打つ先のポイントで見てたんですけど、折り返しのところで英樹が「ちょっとフラフラしてヤバいです」なんて話しかけてきたこともありました。  彼はコロナ明けでね。オリンピックのために日本に来るまで、ほとんど練習ができなかったそうです。練習ラウンドで久々に18ホールを回ったぐらいで。  英樹の練習量はすごい。「今日は早々に帰るかな」というときでも、夕方6時ギリギリまで打ってました。マスターズチャンピオンとして注目される中、全力でみんなの期待を背負ってプレーしてメダルをという責任感の強さには、僕も感激したというか、一生懸命頑張ってくれたことに感謝しましたね。あの姿勢は素晴らしいですよ。見習うべきところがありますね。  今年のマスターズで英樹と優勝争いをしたアメリカのザンダー・シャウフェレ(27)が単独トップで最終日を迎えました。英樹は1打差の単独2位。バックナインは、パットさえ入ってればザンダーを逆転して金メダルという内容でしたね。完璧なショットを連発してました。  ポイントはボギーを打った13番(パー4)だったかなと思います。ティーショットでバンカーに入れて、セカンドもバンカー。11番、12番とバーディーできたいい流れが止まって、ザンダーにひと安心させてしまったかなと。14番(パー5)でザンダーがミスしてボギー。英樹がバーディーをとって1打差に迫ったんですけど、15番(パー4)で英樹が1メートルのパーパットを外して、また2打差になった。13番から悪い流れが来てましたね。  英樹の中では決めれば銅メダルという18番(パー4)のバーディーパットが外れたときに、若干力尽きちゃったのかなという気がしましたね。銅メダルをかけて異例の7人でのプレーオフになりましたけど、あとから「プレーオフの体力が残ってませんでした」って言ってました。  最後に日本チームのみんなで集まったときに「丸山さん、メダル取れなくてすいませんでした」って、明るく言ってくれたのは救いだったかなという気がします。重苦しい雰囲気のままだったら僕もかける言葉がなかったんですけど、明るく言ってアメリカに帰ってくれたのが、翌週の試合の2位につながったような気がします。  最終日にスコアを10も伸ばして銀メダルをとったスロバキアの45歳、ロリー・サバティーニには驚かされました。僕を見かけては「日本のバッジをくれ」だの「ヒデキにサインを頼んでくれ」だの、ふざけたことばかり言ってきてました。「お前、注文多いな!」って。  ここでは書けないような言葉を「日本語で何て言うんだ?」って聞いてくるから「ふざけんな、って言うんだ」ってウソで教えてやったら、次の日から僕や英樹のところに来ては「フザケンナ」って。そんな感じでリラックスしたのがよかったのかな。最終日の61は大したもんですよ。  台湾の潘政琮(29)の銅メダルにもビックリです。あの時点で世界ランキング208位だった男が、前代未聞の7人プレーオフを勝ち抜いちゃいました。これはこれでオリンピックのゴルフの歴史に残ったような戦いで、非常によかったと思いますね。 ■プロからアマに 団体戦もやれば  星野はゴルフ競技の幕を開けるファーストショットを打ちました。それでなくても普段の数倍のプレッシャーを感じてるなってのは伝わってきてました。英樹がいるからまだ楽な立場だとこっちは思うんですけど、本人は想像以上に「これは重大だ」っていう代表のプレッシャーに苦しめられたのかなと。  だから3日間は思うようなゴルフができなかったみたいなんですけど、最終日は気持ちよくプレーができた。改めて日本代表として戦う素晴らしさを感じられたと思います。終わったらホッとして、誰よりも楽しそうにしてました。  最終日、会場から帰ろうとしたら稲見さんとバッタリ会ったんです。それで英樹が「俺の代わりにメダルとってね」って声をかけた。そのとき彼女は「私じゃなくて奈紗ちゃんですよ~」なんて遠慮がちに言ってましたけど、フタを開けてみるとすごかったなあ。メンタルの強さを改めて見せてくれました。  2大会連続でオリンピックのゴルフに関わって、プロが出る必要があるのかなと思いました。米PGAツアーを戦うプロたちにとって、オリンピックは最優先する大会じゃありません。今回も出場回避する人が相次ぎました。思い切ってアマチュア限定にしてみたら面白いんじゃないですか? 団体戦も採り入れて。これは盛り上がりますよ! 丸山茂樹(まるやま・しげき)/1969年9月12日、千葉県市川市生まれ。日本ツアー通算10賞。2000年から米ツアーに本格参戦し、3勝。02年に伊澤利光プロとのコンビでEMCゴルフワールドカップを制した。リオ五輪に続き東京五輪でもゴルフ日本代表監督を務めた。セガサミーホールディングス所属。 ※週刊朝日  2021年9月3日号
丸山茂樹東京五輪
週刊朝日 2021/08/29 07:00
夫婦でメダルを狙う柔道の廣瀬順子 「悠さんに防御を教えてもらったら勝てるように」
島沢優子 島沢優子
夫婦でメダルを狙う柔道の廣瀬順子 「悠さんに防御を教えてもらったら勝てるように」
ひろせ・じゅんこ/1990年、山口県山口市生まれ。伊藤忠丸紅鉄鋼所属。小学5年で柔道を始める。西京高校時代に全国高校総体出場。大学1年の時に膠原病を患い視界が狭くなって視覚障害者柔道へ転向。初出場したリオ女子57キロ級で銅メダル。158センチ * ひろせ・はるか/1979年、愛媛県松山市生まれ。伊藤忠丸紅鉄鋼所属。小学2年から柔道を始め、宇和島東高校時代に全国高校総体出場。緑内障を患い競技を離れるも視覚障害者柔道を再開。男子100キロ級で2008年北京パラリンピック5位、16年リオにも出場。173センチ(写真/門間新弥)  東京パラリンピックは8月28日、柔道の女子57キロ級があり、廣瀬順子(30)が出場する。夫は90キロ級に出場する悠(42)。AERA2019年9月23日号のインタビューを紹介する(肩書、年齢は当時)。 *  *  *  視覚障害者柔道で夫婦そろってメダル獲得を目指す廣瀬悠と順子。リオで先に銅メダルを取ったのは順子だったが、注目されるなど環境の変化もあり調子を落とした。「リオの後、初めて出た世界大会の1回戦は15秒で惨敗。3位決定戦も30秒で一本負けしてしまいショックでした。でも、そこから悠さんに防御を教えてもらったら勝てるようになりました」  その後出場した世界大会で金、銀、銀の快進撃。指導はもちろんのこと、ビデオで特徴を研究し仮想ライバルを演じてくれる悠の支えがあって世界ランキングはリオ時の7位から2位に上昇した。  一方、11歳年上の悠も「順子のおかげで躍進できた」と妻に感謝する。 「年齢を重ねると気持ちでは反応しているつもりでも体がついていかない。悩んでいるときにヒントになったのが、やられる前にやるという攻撃的な順子のスタイル。先に攻めることを始めたら成績が上がりました」  世界ランク25位前後だったのが最近は15位前後にアップしたという。防御型の悠が順子スタイルを取り入れ、攻撃型だった順子が悠の防御スキルをものにした。夫婦が互いのメンター役をきっちりこなし、双方の柔道人生を好転させた。  夫が「負けを受け止めてコツコツ努力できる鉄のメンタルと、練習でできない技をやってのけるところ」と妻の強みを挙げれば、妻は「楽しく柔道をしたほうが強くなると言い、それを実現している。尊敬しています」とはにかんだ。  (ライター・島沢優子)      *    ■視覚障害者柔道  矯正視力0.0025より低いB1(全盲)、視力が0.0025から0.1まで等の視覚障害をもつB2、B3の3クラスに分かれるが、大会はすべて一緒に戦う。体重別の階級は健常者の柔道と同じ。異なる部分は、両者が組み合った状態で試合を始めること、離れた場合に「待て」がかかることなど。 ※AERA2019年9月23日号に掲載
東京パラリンピック
AERA 2021/08/28 10:00
「ノーを受け付けない男」イーロン・マスク 妻に別れを決意させた言葉
「ノーを受け付けない男」イーロン・マスク 妻に別れを決意させた言葉
 電気自動車企業「テスラ」と宇宙開発企業「スペースX」という世間で最も注目を集め、新たな技術革新を続けるハイテク企業のCEOイーロン・マスクは、過去2人の女性と3度結婚し、いまは3番目の女性グライムスとの間で男の子をもうけている。映画「アイアンマン」の主人公さながらの財力と頭脳を兼ね備えたイーロンが愛した3人の女性について、『TECHNOKING イーロン・マスク──奇跡を呼び込む光速経営』の著者の竹内一正氏が2回に渡り読み解いていく。今回は最初の妻についてだ。 ■超多忙なオトコの恋愛事情  テスラとスペースXを率いるイーロン・マスクは超多忙な日々を送っている。  テスラの3万5000ドルのEV「モデル3」が量産立ち上げでもたつけば、カリフォルニア州フリーモント工場に飛んでいって製造ラインに入り、工場で寝泊まりしながら問題解決に奔走する。  スペースXが有人宇宙船「クルードラゴン」を打上げるとなるとロサンゼルス近くのホーソーンにあるスペースX本社の管制室から、フロリダ州のファルコン9の打上げの様子を大きな画面越しに注視し、次々と指示を出す。その時間の合間にはSNSで状況を世界に発信し、そのフォロアー数は約6000万人に上っている。  NASAを相手に月探査や火星探査計画の大型契約交渉をイーロンは行い、仮想通貨の変動を横目で睨み、人間の脳とコンピュータをつなぐ新技術「ニューラリンク」の開発報告をチェックし、テスラ株の空売りに対しては、SNSで防御策を講じていく。  これほど多忙な経営者に恋愛をする時間なんかないだろうと世間は思ってしまう。  だが、イーロンの周りには常に女性の姿があった。 ■一度惚れたら、押しまくる  イーロン・マスクの最初の妻はジャスティン・ウィルソン。イーロンと同じクイーン大学の1歳年下の学生で、小説家を目指していた。書店の本棚を指差し、「いつかここに私の本が並ぶの」と言い切る気の強い女性だった。  ふたりの物語は、イーロンの一方的な恋心から始まった。ジャスティンの茶色のロングヘアーの魅力だけでなく、小説家になりたいという野心的な性格にイーロンは強く惹かれた。  ところがジャスティンの方は、身だしなみが良くて科学者タイプのイーロンには、まったく興味はなかった。彼女が暮らす女子寮の窓の下にオートバイを止めて、薄明のもと、彼女の名前を切なく呼んでくれる男性、つまりロミオ的なタイプが好きだったからだ。  ロミオには程遠いイーロンだったが、愚直な押しの一手が功を奏してか、2人はデートを重ねるようになった。 「ノーを受け付けない男」。イーロンについて、ジャスティンは後にこう評した。一度こうと思ったら突撃するのはビジネスだけでなく、恋愛でも同様だった。 ■双子の次は、三つ子だった  イーロンが米ペンシルベニア大学に編入しても二人の恋愛は続いた。  ジャスティンはクイーンズ大学を出ると1年間日本で英語教育に携わった。その後カナダに戻り、バーテンダーをしたりしながら小説に取り組み、大学院へ進むか考えていた。  一方のイーロンは、スタンフォード大学院に入学したものの、2日で辞めると、オンライン・コンテンツの制作会社「Zip2」を創業。4年後に同社を、コンピュータ業界で急成長していた「コンパック」に売却し約25億円を手にしたイーロンは、インターネットの送金決済サービス「Xドットコム」を創業した。これが後にペイパルの母体となる。  2000年に2人は結婚した。その2年後に大手オークションサイト「eBay」がペイパルを買うと、イーロンは約190億円を手に入れる。  さて、eBayがペイパルを買った2002年に2人はLAに移り住み、最初の子供をもうけたが、わずか10カ月でこの子はこの世を去ってしまう。乳幼児突然死症候群だった。  その後、2004年に、イーロンとジャスティンの間には双子が誕生。さらに2006年には3つ子が誕生している。 ■亭主関白だった億万長者  億万長者になったイーロンとジャスティンは、子供にも恵まれ、誰もが羨む特権階級の生活を手に入れていた。  カリブ海の島で行われたグーグルの共同創業者でイーロンの友人のラリー・ペイジの結婚式に出席した時は、有名俳優に混じって歌手のボノまで参列していたし、ハリウッドのナイトクラブでテーブルに着くと、隣でレオナルド・ディカプリオがパーティをしていたということもあった。  だが、セレブな生活が、必ずしも心を満たすわけではなかった。  イーロンが生まれた南アフリカ共和国は男尊女卑の気風があり、ジャスティンは威圧的な態度を取られることが度々あった。ある時は、髪の毛をブロンドに染めるように言われた。もちろん彼女は断ったが、イーロンは何度も言い続けた。  従順な女性ではなく、ジャスティンの気が強く野心的なところに惹かれたイーロンだったくせに、結婚した妻を自分の思い通りにコントロールしたい亭主に変わっていた。  小説を書きたいというジャスティンのキャリア志向に水を差したこともあった。  あれこれ言われることに頭に来たジャスティンはある日、「私はあなたの妻なのよ、あなたの部下じゃないわ」と言い返した。しかし、イーロンはこう切り返した。「もし君が僕の部下だったら、クビにしている!」 ■仕事か? 家庭か? イーロン・マスクが選んだのは  ジャスティンは、小説家になりたいという自分のキャリアプランを犠牲にして子育てに振り回されている日々に不満を募らせていった。 一方の夫は仕事に明け暮れ、子育てには向き合わず、自宅に帰っても心は会社に置いてきた状態だった。  この頃、テスラはロードスターの出荷が遅れ、スペースX社のロケット「ファルコン1」は打上げ失敗が続いていたのだ。イーロンの肩には、数百人の社員とその家族の運命がのしかかり、対処すべき問題は山積していた。 「テスラかスペースXか、どちらかを手放すべきだ」  これが世間の論調だったが、イーロンはテスラもスペースXも手放さなかった。結局、イーロンとジャスティンは離婚へと突き進んでいくことになる。  ジャスティンが要求した慰謝料は、世間相場よりは贅沢だが、セレブとしてはそこそこのものだった。現金200万ドルに自宅の土地や建物、月々の生活費と養育費。そしてテスラのEVロードスターだった。5人の子供たちについては共同親権を2人が有している。  ところで、イーロンとジャスティンの離婚はすんなりとはいかなかった。そして、離婚調停がもめている最中にイーロンは別の若い女性との恋を始めようとしていた。2人目の女性については次回にお話ししよう。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/08/27 17:00
「ハコヅメ」救ったムロツヨシに業界内から称賛! 10年以上仕事が途切れぬ人気俳優の“人間力”
藤原三星 藤原三星
「ハコヅメ」救ったムロツヨシに業界内から称賛! 10年以上仕事が途切れぬ人気俳優の“人間力”
ムロツヨシ(C)朝日新聞社  今や押しも押されもせぬ人気俳優となったムロツヨシ(45)。そのキャリアをさかのぼると、なんと2011年から毎年連続ドラマにレギュラー出演しているという売れっ子ぶりだ。9月23日から公開される映画「マイ・ダディ」では満を持して初主演を飾っており、さらなる飛躍をみせそうだ。  だが、ムロツヨシはなぜここまで安定した人気を獲得することに成功したのだろうか。民放ドラマを手掛ける脚本家はこう分析する。 「当初はコメディーリリーフという存在でしたが、毎年連ドラにレギュラー出演することで番手もあがり、名前でドラマの人気が担保できるほどの存在になりました。初主演映画『マイ・ダディ』ではシングルファーザーを演じるようですが、ムロさんが得意とする“泣けて笑える芝居”がさく裂しているそうです。最近の出演作品を見ると、ムロさんに求められている芝居が笑いよりも泣きに変わりつつあります。もちろん、笑いの芝居は群を抜いてうまいのですが、実は同じぐらい泣きの芝居がうまいのがすごいところ。いま、泣きの芝居をやらせたら日本一と言っても過言ではないかもしれません。年齢も45歳になり、最近では父親役も板についてきたので、今後はシリアスな役がもっと増えるかもしれません」  両親の離婚を機に5歳年上の姉と親戚のもとで育ち、一浪して大学に入るも3週間で中退。以後、アルバイトをしながら役者を目指すという下積み生活が始まるも、自身が立ち上げた演劇ユニットはメンバーによる“クーデター”で退団させられるという苦すぎる経験を持っている。 「トーク番組や雑誌のインタビューで自身の幼少期の話や下積み時代を面白おかしく語っていますが、実際は相当苦しかったでしょう。ただ、その苦い経験が今のムロさんの役者としての振り幅を作っているのは確か。役者として世に出る足掛かりになったのは、2005年の『サマータイムマシン・ブルース』で、監督を務めた本広克行さんにハマり、以後『踊る大捜査線』シリーズを含む本広作品に多数出演することになりました。その後、今をときめく福田雄一監督との出会いが、彼を売れっ子役者に押し上げた転機となりました。当時、福田さんもまだブレーク前夜でしたが、同じく福田組の怪優といわれる佐藤二朗さんと福田作品を大いに盛り上げ、ムロさんと佐藤さんは両輪となって、なくてはならない存在になりました」(前出の脚本家) ■永野芽郁コロナ感染のピンチを救う  現在は、『ハコヅメ~たたかう!交番女子~』(日本テレビ系)に交番所長役で出演中。主演である永野芽郁が新型コロナに感染し、本編を2週にわたって延期するという緊急事態に見舞われたが、その窮地を救ったのがムロだったという。民放ドラマ制作スタッフはこう証言する。 「主演の永野芽郁さんがコロナで撮影から離脱するとなって、現場は騒然となったようですが、ムロさんが潤滑油となって現場をうまくまとめきったと評判です。2週にわたって『特別編』を放送して穴を埋めていましたが、ムロさんが得意とするコント調のやりとりを新撮シーンとして急ピッチで撮りおろし、ドラマファンからの評判も上々でした。そもそもムロさんは舞台上がりの人なので、このような急なトラブルには慣れてるというか、ショー・マスト・ゴー・オンの精神にあふれている人。裏方の気持ちも非常にくみ取ってくださるので、また仕事をしたくなる人が出てきて当然でしょう」  現場でのムロは、若い役者の前でも偉ぶらず、緊張をほぐしてくれるという。そして、いざカメラが回れば時に主演を食ってしまうほど圧倒的な芝居をする。 「いろんな現場でムロさんの話を聞きますけど、やはり優しさの塊みたいな人なんです。ムロさんが現場にいるから場が和むし、盛り上がったりもする。今回の『ハコヅメ』のコロナ騒動は同業者として身が引き締まる思いですが、ムロさんがいたから乗り切れたという側面は多分にあったと思いますね」(前出のスタッフ)  TVウオッチャーの中村裕一氏はムロツヨシの役者としての魅力をこのように分析する。 「人をくったようなその芸名から、初めは何をやるのかわからない飛び道具的な存在として注目を集めていたと思いますが、豊富な人生経験からにじみ出る確かな演技力は映画通やドラマ通からは早くから高い評価を受けていました。彼の魅力は、複雑な家庭事情やエピソードも笑い話に変えて話すことのできる“人間力”の強さ。良い人の役もいいですが、ハングリーさをむき出しにした泥臭い役や、静かなる狂気を秘めた役なども見てみたい。テレビドラマに出るようになり、だんだんアクが抜けて落ち着いてきている印象があるかもしれませんが、お茶の間のイメージが薄まっただけで、本質的なハングリーさは何も変わっていないはずです」  たしかな演技力と人間力を携えて、主演俳優にまで上り詰めたムロツヨシ。しばらくは連ドラの出演記録も更新し続けそうだ。(藤原三星)
ハコヅメマイ・ダディムロツヨシ永野芽郁
dot. 2021/08/25 11:30
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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

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