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アイスダンス村元・高橋「次の1シーズンに集中する」 決意と「毎日ヘトヘト」の理由
アイスダンス村元・高橋「次の1シーズンに集中する」 決意と「毎日ヘトヘト」の理由
高橋大輔(たかはし・だいすけ、右):1986年生まれ。フィギュアスケート男子シングル選手として活躍。2014年に引退し18年に復帰、20年にアイスダンスに/村元哉中(むらもと・かな):1993年生まれ。フィギュアスケート女子シングル選手として活躍、2014年からアイスダンスに[写真:蜷川実花、hair & make up 宇田川恵司(heliotrope) styling 吉田謙一(Secession/村元さん) 折原美奈子(Mi-knot Inc./高橋さん) costume nude:masahiko maruyama、DISTORTION3 prop styling 遠藤歩]  アイスダンスの村元哉中・高橋大輔ペアが競技続行を表明した。昨年12月の全日本選手権、今年1月の四大陸選手権、3月の世界選手権を経て、手応えを感じているという。AERA 2022年6月6日号から。 *  *  * ――「超進化」の2季目。シングルで日本男子初となる五輪メダルを獲得した高橋大輔(36)と平昌五輪代表の村元哉中(29)が組んだ“かなだい”チームは、北京五輪出場を逃したものの、1月の四大陸選手権で日本歴代最高の銀メダルに輝いた。そして、初めての世界選手権でその存在感を見せつけた。  大会後、2人が語ったのは「世界と戦えるポテンシャルを持っている」(村元)、「なかなかシングルでは感じられない気持ちよさ」(高橋)という充実感。だが、高橋は「この先のスケジュールは決まっていない」と語り、“かなだい”の新シーズンの行方は見えなかった。そして、その答えが出た。 ■気持ち変わらなかった 高橋:とりあえず2年、北京五輪のシーズンまでという目標を決めていました。次のことはある程度は自分の中で決めていたんですけど、そのままの流れで続けるのは嫌で。アイスショーの「スターズ・オン・アイス」が終わってから2週間ほど休んで、その間に考えました。僕も年齢的なこともあるので、軽い気持ちでこの競技を続けるのは簡単なことじゃない。2週間スケートから離れてみて、やっぱり気持ちが変わらなかった。それで、村元選手に「やります。続けます」と言いました。 村元:世界選手権が終わって、この“かなだい”というチームは世界と戦えると思えた2年間でした。1年目はコロナ禍もあって試合経験がない中でも、2年でここまでのことを成し遂げました。だからこそ来季、私はもうちょっと自分たちがどこまで行けるのか見てみたいなと思うぐらいの手応えがありました。だから、私は高橋選手には世界選手権の後に「あと1年やってみたい」と言って、答えを待っていました。大ちゃんの答えが聞けるまですごく長く感じたけど、やっと聞けてよかったです(笑)。 ――短いようで濃厚な2年だった。これまでを振り返って、それぞれが一番印象に残っている試合はどれだったのだろう。 村元:私は1年目の全日本選手権です。クリス(・リード)とカップルを解散してから2年くらいブランクがあって、高橋選手に声をかけてチームを結成してもらって、久しぶりに全日本に戻ってきた。それも大ちゃんと、です。大会では試合直前にケガをするハプニングはありましたし、コロナ禍ですごい大変な1年目だったと思うんですけど、あれが私たちの始まりだと思うので、一番印象的でした。 AERA 2022年6月6日号 ■懐かしさと燃える感覚 高橋:僕は2年目の全日本ですね。やっぱり悔しいというか、シーズンの中で一番悪い内容でした。一番大事な試合で一番ダメな演技をしてしまったというところに、自分の弱さを改めて感じました。コロナ対策の入国制限でマリーナ(・ズエワ)コーチも来ることができなかった。五輪選考がかかっていましたし、けっこうプレッシャーのかかる試合でした。その空気感の中で、自分たちだけで上げていかないといけない熱量は相当厳しいものがありました。 ――その全日本は2位に。北京五輪出場という2人が掲げていた目標は果たせなかった。 高橋:五輪は一つの大きな目標でしたけど、お互い五輪がすべてではなかった部分がありました。それぞれアイスダンスをやるにあたって、それぞれの思いがあったわけで、五輪に出られないのは悔しかったですけど、四大陸選手権と世界選手権の出場権をもらえた。特に哉中ちゃんは代表として名前が呼ばれた時は、「よし!」とガッツポーズをしていました(笑)。 村元:代表発表は、シングルもペアも五輪に選ばれた選手が世界選手権も出場するという流れでした。「ああ、これは無理かな」と思っていて、名前が呼ばれて、「よっしゃ」と(笑)。 高橋:もしいきなり五輪だったら、僕はかなり緊張していたと思う。四大陸選手権と世界選手権に出場できるということで、すぐに気持ちを切り替えることができました。NHK杯とワルシャワ杯で国際大会である程度の得点がもらえていて、「欲」が出ていた。その中で世界のトップチームと戦える。自分たちの現段階での世界の位置を確かめることができる、と。 村元:四大陸選手権はメダルの可能性があるチャンスだと思っていました。2年間で国際大会ではあまり戦っていないので、自分たちには世界ランキングポイントがあまりない。メダルを取ればポイントが上がる。そうすれば、世界選手権の滑走順も変わる。やっぱり、後半グループで滑る方がいいですからね。 ――満を持して臨んだ世界選手権。高橋はシングル時代の2013年以来、9年ぶり。村元は4年ぶり。“かなだい”としての世界選手権は16位だった。 村元:久しぶりで何とも言えない感覚でした。外国の選手もみんな覚えていてくれて、「久しぶり! 元気だった?」「大ちゃんと出るなんてすごい」と。でも、アスリート魂じゃないですけど、性格上、負けず嫌いなところが出てきて、懐かしい思いと燃える感覚もありました。 高橋大輔(撮影/小黒冴夏) ■スケートが一番好き 高橋:おもしろかったですね。僕はリズムダンスのツイズルでミスをしてしまって、あれで点数と順位をだいぶ落としました。でも、公式練習の仕方や衣装を着るタイミングなんかを見ていて、こういう雰囲気でやっているんだということを感じることができて、勉強になりました。シングルの時は最終グループの方が多かったので、前半グループで滑って、いろんなものを見せてもらえたと思います。 村元哉中(撮影/小黒冴夏) ――うまくいくこと、うまくいかなかったこと。2人はそれぞれ乗り越えてきた。その源泉は? 高橋:結局、スケートが一番好きだということだと思います。1度引退して、いろいろな仕事を経験して、やっぱり自分はパフォーマンスする側にいたいと思いました。スケートがあるからこそ、自分はいろんな人やものとつながっているんだなと思って、もう一回スケートを見つめ直したくて、競技に復帰しました。その結果、今はアイスダンスをやっているわけですけど、この経験は将来自分の役に立つと思ってやっています。 村元:私も2シーズン競技から離れた時はダメ人間でした(笑)。最初の1、2週間ぐらいは楽しいんですよ。練習もしなくていいし、好きなことができるし。でも、だんだんスケートがないと、私は何をしてるんだろうと思ってしまって……。このオフも「プリンスアイスワールド」を見る機会があったんですけど、一人のスケートファンとして感動しました。やっぱりスケートが好きなんだな、と。 ■集中して追い込む ――“かなだい”の未来は、どこまで続くのだろうか。 村元:あまり先のことを考えすぎると、今大切なことに集中できなくなる。私は昔からそんな感じです。これまでも一年一年やっていって、五輪につながればいいやと思っていました。もちろん、カップルを組む時は大きな目標があった方がいいんですけど、何が起こるかわからない。本当に一年一年だと思う。 高橋:とりあえず、次の1シーズン。次の五輪となると、4年ですよね。もう僕は40歳ですよ(笑)。五輪の時はまだ39歳ですけど、体的にもハードな部分がすごくあります。自分が40歳まで体をどこまで保てるかもわからないですし、先のことを考えると疲れてしまう。本当に毎日頭を使ってヘトヘトになるんです。シングルの時より頭を使うので、あんまり長く考えるよりは、1年集中して思い切り追い込んでいって、あとは流れでどこまで行けるか、ですね。 (朝日新聞スポーツ部・坂上武司)※AERA 2022年6月6日号
村元哉中高橋大輔
AERA 2022/06/06 18:00
死体洗いは1体1ドル ラジオマンが聞いた沖縄の“戦後の伝説”
延江浩 延江浩
死体洗いは1体1ドル ラジオマンが聞いた沖縄の“戦後の伝説”
延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)  TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。本土復帰50年を迎えた沖縄について。 *  *  *  戦後の伝説が事実だと知ったのは5月の沖縄だった。アメリカ兵の死体を洗う仕事があったのだ。  本土復帰50年特別番組「血や怒り悲しみでもなく人を抱く色として咲けハイビスカスよ」の取材だった。  短歌を通して現在の沖縄を考える企画で、沖縄出身のシンガー・ソングライター普天間かおりさんと梅雨入りしたばかりの現地を訪ねた。 「朝鮮動乱の頃です。死体を洗ってアメリカに送る仕事。1体で1ドルもらえた。教員の初任給が40ドルくらいで、僕は55ドル、60ドル近く。でも僕らよりも奄美大島が先に(本土に)復帰して、僕の2倍の大体100ドル、150ドル。彼らの2倍がフィリピーナ。その2倍の350ドル、400ドルが黒人、白人はその2倍。沖縄の人はだいぶ下だった」  話を訊いたのは歌人の平山良明さん。1934(昭和9)年、国頭(くにがみ)郡今帰仁村(なきじんそん)生まれの87歳。小柄で透き通るような声。第2次大戦で沖縄は地上戦の舞台になり、アメリカ軍の猛攻撃は「鉄の暴風」と呼ばれて県民の4人に1人が亡くなった。  平山さんは11歳で終戦を迎え、サンフランシスコ講和条約で日本は7年後に独立を果たすが、沖縄はアメリカ施政下に置かれたままになった。国際政治の「捨て石」となった風景は今も変わらない。  琉球大学の学生だった頃から短歌を詠んできた平山さんにマイクを向けても、ほぼ10分おきに飛ぶオスプレイの騒音で、声がかき消される。  インタビューをした普天間かおりさんは本土復帰時をリアルタイムで知らない。「本土と行き来するのにパスポートが必要だった」「通貨はドル」「クルマは右側を走っていた」。これは91歳になる祖母に聴いていた。  プロ歌手を目指し上京、「品川の女子高に編入してクラスで君が代を歌った時、泣いてしまいました。やっと日本人になることができたと思ったからかもしれない」と振り返る。「沖縄ではおじいやおばあが亡くなったとか、そういう話が必ず出る。でも本土の人は沖縄は海がきれいね。そればっかり」 平山良明さん(右)と普天間かおりさん(TOKYO FM提供)  復帰した72年に出した平山良明の第一歌集名は「あけもどろの島」。あけもどろとは太陽の光が射(さ)す明け方を表す。「沖縄は不思議な島だ」と平山さんが言う。「強い支配者が現れても、決して太陽の魂を売らなかった」  復帰後半年も経たないうちにB52が次々に飛来、北爆に使われた沖縄はベトナムの人たちに「悪魔の島」と呼ばれた。 「人間の血を吸い尽くしたる土地にして黒い尾翼の構図となれり」 「黒い尾翼はB52。尖(とが)った尾翼を見上げていた。よくも共産党に入らないで頑張ってきたものだ」と平山さんは回想する。 「断たれたるトカゲの尻尾のように生くる沖縄島の歴史をいたむ」は、本土と分断され、トカゲの尻尾のように本島の人たちは生きたという歌。平山さんは自らの思いを詠み続けた。「歌が心を浄化してくれる。やはり許さないと。真実であっても許さんといかんさ。しかし、忘れてはいけない」  短歌で綴る沖縄の旅は終わらない。僕たちは平山さんより2世代下の歌人、屋良健一郎さんを訪ねた。(次号に続く) 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。小説現代新人賞、アジア太平洋放送連合賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞。新刊「松本隆 言葉の教室」(マガジンハウス)が好評発売中※週刊朝日  2022年6月10日号
延江浩
週刊朝日 2022/06/05 16:00
木梨憲武「僕の役目は“成美相談所”です」 妻・安田成美の支えがつむぐ「自由奔放」な家族と「絵」
永井貴子 永井貴子
木梨憲武「僕の役目は“成美相談所”です」 妻・安田成美の支えがつむぐ「自由奔放」な家族と「絵」
都内のアトリエでインタビューに応じる木梨さん  (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志)  本業であるタレント業に加え、ラジオ番組のパーソナリティー、映画俳優、そしてミュージシャン――。「とんねるず」の木梨憲武さん(60)は、還暦を迎えてもその勢いが衰えることはない。さらに、美術作家としての顔も持つ木梨さん。「木梨憲武展 Timing―瞬間の光り―」の全国美術館ツアーのフィナーレを飾る東京会場での展覧会が始まった。活動の場を広げ続ける木梨さんに、AERAdot.は単独インタビューをおこなった。制作への思いとともに、妻で女優の安田成美さんとの会話、3人の子どもへの木梨家の教育方針と父親としての顔までを、木梨さんのアトリエで話を聞いた。 *  *  *  都心部ながら住宅街としても知られる瀟洒(しょうしゃ)な街並みの一角。  ビルの細い階段をのぼりアトリエに足を踏み入れると、壁や床に無造作に並べられたキャンバス画とオブジェの作品群が飛び込んでくる。  インタビューをしたのは、展覧会の東京での開催まであと2週間ほどに迫ったタイミングだった。  壁に立てかけられた描きかけのキャンパスや、棚に並ぶカラフルにペイントされた、だるまの一群。これも制作途中の作品なのかと木梨さんにたずねると、 「うーん、だるまは、どこに展示するか迷っているけれどね。置く予定です」  と悩まし気な様子。開催に向けて、レイアウトをぐるぐると思いめぐらせる様子が伝わってくる。 Flower 2018年 (C)NORITAKE KINASHI (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) ■「じじい」だから健康には気をつかうね  木梨さんが最初に個展を開いたのは1994年。番組のロケをきっかけに絵筆を執った。  相方の石橋貴明さん(60)とともに、とんねるずでの活動を軸にテレビや映画俳優、さらには音楽アルバムまでヒットさせる異才ぶり。第一線で活躍しながら、同時に30年近く絵やオブジェなどアート作品の制作を続けている。  今年3月に還暦を迎えた木梨さんは、こう笑う。 「いやもうじじいだから。昔と違って細かい作品をつくるのは、だめだね」  八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をする木梨さんの朝は、とにかく早い。 制作中の作品を前に(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) 「午前3時に起きたらさすがに、『やべっ』となっちゃうけれど、4時前には布団から抜け出します。いまの季節、夏に向けて日の出もちょうどいい具合に早くなるでしょう。明るくなるのを待って、6時ごろには竹ぼうきで自宅の周りをはくの。5年くらい前から掃除するのにハマっちゃって」  木梨さんがパーソナリティーを務めるラジオ番組「土曜朝6時 木梨の会。」(TBSラジオ)の日も朝5時のスタジオ入りだ。  仕事はできる限り日中に集中させる。朝が早い分、寝るのも早い。誰かとお酒を飲むときも夕方5時半スタートが基本だという。 「夜遅くまでお酒の場にいると楽しいと朝までいっちゃうから、あえて早く切り上げるようにしてるの。もうじじいだから、健康には気をつけていますよ」  繰り返し「じじい」を口にする木梨さん。そのアクティブさは、年齢を感じさせない。 窓 2018年 (C)NORITAKE KINASHI  インタビューの前にアトリエで流れていたテンポの良い音楽は、6月発売の音楽アルバムの収録曲だった。 「音楽でもやりたいことは、たくさんある」 ■吉田美和とのコラボで「ノリカム」実現?  今年4月、自身のラジオ番組に、DREAMS COME TRUEの中村正人さんをゲストに呼んだ。その際、自身のインスタグラムに中村さんとのオフショット写真を上げ、こんな“野望”を発信した。 <将来の夢シリーズ!ノリカム→NORIとカムトゥルースタートします!> <中村っちOK!あとは吉田美和を口説けばあるどー!!>  壮大な新プロジェクトへの意欲を見せているが、「ノリカム」の進み具合を当の本人にたずねると、ゆっくりこう答えた。 「いまは、吉田(美和)さんの返事待ちかな。吉田さんは伝説の人だから、邪魔しないように、ね」  アトリエの壁の中央、いちばん良い位置には、「抽象画」が飾られている。実はこれ、現在26歳の長男が4歳のころに、キャンバスに描いた絵なのだという。もう20年以上も前だ。 「何を描いたかは、あえて聞いていません。でも、当時『ブーブー』と言っていたから、車でも描いたつもりでしょうね。子どもは、狙うことなく大人が見てハッとするような大胆なモノを作ってしまう。すごく刺激になるんです」 2017年の舞台「クライムズ・オブ・ザ・ハート」に出演したときの安田成美さん  木梨さんと俳優の安田成美さん夫婦は、2男1女に恵まれた。  父親として、子どもたちに絵を教えているのだろうか。 「いや、したことないですね。ただ昔は、僕も家で描いていたからキャンバスや絵の具、筆など子どもが好きに手に取れる場所に何でもあったから、好き勝手に筆を持っていたみたい。自宅には、子どもらが描いた絵や立体作品なんかが飾ってありますよ。アトリエに子どもが来て、自由に描いていたこともあったしね」  英才教育といった子育てとはまた違う、子どもの裁量を大切していることが伝わる。 「上にあるかな?」  木梨さんがおもむろにそうつぶやくと、アトリエの上のフロアからスタッフが2枚の油絵を持ってきた。次男が昔、学校の課題で描いた両親の絵だという。木梨さんと成美さんが柔らかな表情でほほ笑んでいる。木梨家の温かな空気が伝わってくるような絵だ。  木梨さんは多忙を極める一方で、成美さんも俳優として活躍している。「共働き」の木梨家で3人の子育てを、どう乗り切ったのだろうか。 フェアリーズ ー街ー 2019年 (C)NORITAKE KINASHI ■反抗期も子どもと一緒にケンカしちゃう 「ほぼすべて成美さんです。3人分のお弁当を作り、勉強から子どもからの進路相談から何もかも、成美さんがやってくれた。子どもが成美さんに何か話しているその横で僕が、うんうんって頷いている。僕の役目は、成美さんが迷った時の『成美相談所』、そんな感じですよ」  それぞれの道を自由に、歩む三人の子どもたち。反抗期はなかったのか。 「あまり記憶にないですね。反抗されても、子どもと一緒になってケンカしちゃうだけだったかな。俺自身が4番目の子どもみたいなもので、精神年齢は小学3年生くらい。子どもたちは俺のところに寄ってこないもん。それに、子どもらは成美さんには逆らっちゃいけないってわかっているしね」  木梨さんの作品は、抽象画やデザイン画が多いが、人物画はほとんどない。いつか、自分も小学3年生の目線になって、自分と成美さんを「パパ」と「ママ」として俯瞰した肖像画を描いてみるのもいいね、と木梨さんは話す。 「REACH OUT」の新作のミニチュア版を手にする木梨さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志) 「港区の児童作品展の審査員をしているんだけど、その年齢の絵って発想力がすごい。すごく自由。あこがれるのは小学3年生の『狙ってない発想力』だね」  型にとらわれない木梨さん。自身の展示には、手をモチーフにした「REACH OUT」シリーズを板金で組み立てる巨大オブジェも登場する。現在、組み立てている最中だ。いまは、2メートルぐらいの高さだが、最終的には3メートルを超える高さにしたいと話す。  この「REACH OUT」は、もう20年以上続けている作品のシリーズだ。REACH OUTとは、文字通り「外に向かって手を伸ばす」という意味から、「触れる」「連絡する」「訴える」など様々な意味を持つ言葉だ。  昨今、「触れる」ことができない世の中における「REACH OUT」の作品は、どのような意味を持つのか。 「外に手を伸ばす、手をつなぐ、その両方の意味が込められています。困った人には、助けるための手を差し伸べ、いつか手を伸ばし返す。実際には手を触れることができなくとも、人と人が手をつなぐ大切さは変わらないですから」 ■「まさか、出さないよね」と、安田成美さん  コロナ禍の2020年、巡回中だった全国美術館ツアーはいったん延期。あれから2年を経たいま、タイトルの「Timing(タイミング)」に込めたメッセージに変化はあったのだろうか。 「このコロナ禍に世界中で混乱が起きました。触れ合うことが良くないことに変わるなど、あたり前だと思っていた価値観さえ変わりました。でも2年が経ち、ようやくコロナ禍にも切り返しが見えてきた。この22年はいろいろなことで方向転換の時期じゃないのかな。俺はなるべく物事を良くとらえるようにしている。『新しいタイミングが来たんだよ』というメッセージを込めたい」 Walking footsteps 歩み 2018年  (C)NORITAKE KINASHI  展覧会のコンセプトや展示方法などを決めるのは木梨さん本人。しかし、作品へのアドバイスを含めて影響力を持つのは、妻の成美さんだ。  成美さんは、女子美術大学付属高校の出身。美術方面の知識の下地がある。 「成美さんがアトリエの階段をトントントンとのぼってきて、『まさか、これいまのまま(木梨憲武展に)出さないよね』って。俺も、『いっ、いや、もちろん出さないよ。うん』て、慌てて返事したり(笑)。自宅に作品を持ち帰ることもありますが、ドキドキして反応を期待していても、スーッと作品の前を通り過ぎることもあります。その反応も面白いんですけどね」  そう笑みをこぼす。 アトリエの奥には、レイアウトを迷っているという「だるま」作品が並ぶ(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃、スタイリスト/大久保篤志)  還暦を迎えた木梨さん。これから、どこに目標を置いているのか。 「とくに絵で賞を取りたいといったものはないですね。今度はアジアで個展を開いてみたいかな。音楽もどんどんやりたい。悩んだときは、日本のジェームス・ブラウンともいうべき北島三郎さんに相談するんです。北島さんは、デビュー前の若い頃、それこそ新宿や繁華街を『流し』で歩き、3曲100円で歌っていた時代があるそうです。流しの時代のひとりのお客さまも、みな大切なお客さまだ、と。僕も美術展や音楽、舞台のひとりのお客さんもテレビ画面の向こうのたくさんのお客さんも、みんな同じです。一人ひとり、僕の活動に目を向けてくれるお客さんを思いながら、活動を続けたいですね」 (AERA dot.編集部・永井貴子) 3116 2015年  (C)NORITAKE KINASHI セーヌ川 1994年 (C)NORITAKE KINASHI ※「木梨憲武展 Timing-瞬間の光り-」(東京会場)会期:2022年6月4日(土)~6月26日(日) ※会期中無休会場:上野の森美術館(東京都台東区)開館時間:9時半~17時半(金土日は19時まで) ※入場は閉館の30分前まで。公式HP https://www.kinashiten.com/
とんねるず吉田美和安田成美木梨憲武
dot. 2022/06/04 11:30
終わりなき障害児育児、仕事との両立の難しさ 立ちはだかる「小1」「中1」「18歳」の壁
終わりなき障害児育児、仕事との両立の難しさ 立ちはだかる「小1」「中1」「18歳」の壁
発達障害は多種多様。必要な支援を発信するため、友美さん(左)は学校、教育委員会、福祉や医療機関を駆け回り、幸太くんが過ごしやすい環境を整えている(撮影/山本倫子)  育児と仕事の両立支援制度は整ってきたが、それらは健常児を想定したもの。障害児は一定の年齢になったからといってケアが不要になるわけではなく、働く親たちは、もがき続けている。AERA 2022年5月30日号の記事から紹介する。 *  *  *  半日近く流しっぱなしのシャワー。目が飛び出るほど高い水道代。  都内の企業で働きながら、重い知的障害を伴う自閉症の長女(14)を育てる女性(49)は、新型コロナウイルス感染症の流行で小学校が休校になった時期、心が折れそうになった。娘は流れる水の感覚が大好きで、しぶきを眺めていると心が落ち着く。止めれば自傷行為に走る。在宅勤務中は、娘が浴室にこもるのを黙認せざるを得なかった。  長女が中学3年になった今も、登下校の付き添いは必須だ。家、学校、放課後等デイサービス、それぞれの送迎を担当する人を8人確保し、毎月シフトを組み、毎日引き継ぎの連絡を入れて送迎を依頼している。送迎にかかる費用は、毎月十数万円に上る。  娘が3歳の頃から預け先を探したが、保育園も幼稚園も軒並み断られた。出張も残業もできない事情を伝えると、問い合わせ窓口の部署に配属してもらえた。女性はこう話す。 「知的障害児を育てる親にとって仕事との両立は死活問題。健常児の子育てとは異なる思いもよらない出費がある。私の死後も続く子の生涯の暮らしを守るため貯金もしておきたい。何としてでも働き続けなければと思っています」 ■一定の年齢になっても、登下校や留守番はできない  国や企業の仕事と育児の両立支援制度は充実してきた。だが、健常児育児と違い、障害や医療的ケアのある子どもの育児には終わりがない。育児・介護休業法に定められた短時間勤務制度や子の看護休暇などは「3歳未満まで」「就学前まで」など期間が区切られているが、障害児は成長しても、一人で登下校や留守番ができない場合も多い。  2021年11~12月に新聞・報道関係者でつくる「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」が「障害児・疾患児育児と仕事の両立に関するアンケート」(回答数260人)を実施した。両立で困っていることとして、半分以上の人が「自分や配偶者が倒れたら家庭が回らなくなる」と回答。回答を男女別に見ると、男性の3分の2は配偶者が就労しておらず、2割弱はパートタイム。一方、障害のある子を持つ女性は配偶者の9割以上がフルタイムだった。また、障害が重く、見守りや介助が必要な子どもを育てている家庭ほど、母親のフルタイム率が低い状況がみられた。 AERA 2022年5月30日号より  障害児を育てる母親には、女性、母親、ケアラーとしての「三重の壁」があると指摘するのは、佛教大学社会福祉学部教授の田中智子さんだ。 「障害のある子の親は、『ケアラートラック』を歩み、ケアと仕事の双方に不全感を長きにわたって抱く。日本では、障害のある子の親を親役割に固定化する『社会的な親役割期待』が強い。意識を変えていくことが大切です」  厚生労働省の集計では、手助けや見守りが必要な児童を持つ母親の就業率は上昇傾向にはあるが、それらを必要としない母親の就業率と比べて低い。実際、障害児の親の就労継続を危うくする「難所」はいくつも存在する。まず、「小1の壁」。 ■放デイの開所時間は、親の就労を前提としてない  都内の報道機関で働く木瀬真紀さん(38)の長男は小児がんの「網膜芽細胞腫」で、生後すぐ受けた抗がん剤治療と手術の影響で弱視になった。今春、小学生になったが、事前に近所の大規模校を見学すると、児童数が多く、休み時間に廊下に人があふれたら知り合いがどこにいるのかわからず、息子がしんどいだろうと感じた。一方、遠距離の小規模校は児童が少なく、先生の目が届きやすい。そこで小規模校へ入学させることに。片道25分かかり、教育委員会からは安全上、毎日登下校時の親の送迎が必須と言われている。さらに、週1~2回、バスと電車を乗り継ぎ、「弱視通級指導」に通う。同業で共働きの夫と交代で半休を取りながら、通級への付き添いもこなす。 「子の過ごしやすさを取った分、親が付き添う負担は増えた。第一線で働けないジレンマは、普通の子育てより少し大きい感じですね」(木瀬さん)  2016年に障害者差別解消法が施行され、「合理的配慮」を国や自治体の義務とした。だが実態は地域や学校によって対応に差があり、障害児育児と仕事の両立は難しいのが現状だ。 AERA 2022年5月30日号より  都内の制作会社でフルタイムで働いていた友美さん(44)の長男の幸太くん(11)は、4歳で知的障害はない自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠陥・多動性障害(ADHD)だと診断された。  癇癪(かんしゃく)もあった。夜は寝ず、朝は起きない。登園できる服を着せ「寝せたまま」保育園に連れていった。年中から幸太くんに加配の保育士がついた。だが、年長の夏休みから登園しぶりが強まり、登園が困難に。職場で期限付きのプロジェクトを統括していた友美さんは、「これ以上、仕事の継続は難しい」と判断。保育園は年長の夏で途中退園し、15年続けてきた仕事を辞めた。 特性を生かせる場も探す。プログラミングが得意な幸太くんは居場所カフェの「スクラッチの会」に馴染み、友だちと趣味でつながる/撮影協力:ぼっとう&よはく(撮影/山本倫子)  幸太くんが小1の6月頃から教室で過ごせなくなった時、教育支援センターで学校外の居場所がないか相談し、通所の手続きをした。学校の先生とのパイプ役を友美さんが担い、細々と学校とつながり続けたことで、幸太くんは徐々に学校に行ける日が増えていった。 「私が対処する時間を持てなかったら、子どもが支援を受けられず困り続けたと思う。母親が仕事で忙しいと学校の合理的配慮をもらえないなら、障害児の家族が困り続けてしまう。実質的に学内外の教育や支援と家庭とを『つなぐ存在』が欲しいです」(友美さん)  預け先がなくなる「中1の壁」や「18の壁」もある。  シングルマザーの女性(44)は、都内でダウン症がある息子(7)と二人暮らし。現在は制限付きながら、フルタイムで働いている。父母は他界し日常的に頼れる親族はいない。週2回残業のため、ベビーシッターを頼んでいる。  障害のある中高生は、当面の居場所として放課後等デイサービスを使う場合もあるが、夏休みなどの長期休暇は午後4時までなどと開所時間が短く、フルタイムとの両立が厳しい。ベビーシッターも、通常想定されているのは小学6年生までだ。女性は言う。 「息子は小学生になったばかりなのに、今の心配事は、息子が中高生以降になった時の居場所の確保なんです」 ■成人期の居場所少なく、フルタイムでは働けない  高校卒業後の「放課後」の居場所問題はさらに深刻だ。都内に住む男性(45)は非常勤の公務員で、看護師の妻と共働き。双子の息子たち(19)は2人とも障害児。今春、学習障害のある長男は大学生になった。次男は軽度の知的障害と身体障害があり、週に5日就労継続支援B型に通う。施設で過ごすのは午後3時半まで。男性は言う。 「次男の通う就労施設が、青年・成人期の余暇活動を週1回開いてくれる。施設の『持ち出し』だと聞きます。どこの法人もやりたがらないそうです」  障害児保育や特別支援教育に詳しい鎌倉女子大学児童学部教授の小林保子さんはこう指摘する。 「成人期を迎えた障害のある方が家庭外で過ごすアフター5の居場所がないのは、余暇の場所が福祉制度でカバーされていないから。就労後も余暇を楽しめるよう福祉サービスとして事業所利用が延長できるようにしたり、安全な余暇の居場所を作ったり、制度化が必要です。余暇のあり方は、本人のQOL(生活の質)に一番影響しますし、家族全体のQOLにもつながります」 (ノンフィクションライター・古川雅子) ※AERA 2022年5月30日号
AERA 2022/05/29 08:00
「男女雇用機会均等法」世代が語る“壁” 女性活躍社会の実現は無理なのか
「男女雇用機会均等法」世代が語る“壁” 女性活躍社会の実現は無理なのか
「均等法元年」の大手百貨店の入社式  男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年。この年に新卒で入社した女性は、今年58歳前後。そろそろ「定年」を迎える年代になる。そんな均等法世代の女性たちに、建前上は「平等」だった社会人生活を振り返ってもらうと……。 *  *  * 「安倍さんが首相時代に女性活躍を打ち出したでしょ。あれがすべてを象徴していると思う。要するに、女性が活躍できていなかったから、あんなことを言いだしたのよ」  そう語るのは都内の食品メーカーで中間管理職を務めるキヨミさん(仮名=58)。1浪して大学に入学しているので、入社は87年。“均等法2期生”に当たる世代だ。時代はバブル真っただ中で、総合職として入社したキヨミさんは残業もいとわず働き、よく遊び、恋愛もしたという。 「やっぱり同期の男性社員に負けてなるものかっていう意識はあった。一般職の女性社員は定時になると着飾って夜の街に出ていったけど、私たち総合職の女性社員はみんな残業。仕事が終わったら先輩社員たちと飲みに行って、帰りはいつもシンデレラタイムだった。体はきつかったけど、やりがいもあって、必死に働いたなぁ。当時付き合っていたカレシに“仕事と俺とどっちが大切なんだ”なんて聞かれたときは、心の中では“仕事に決まってるじゃない”なんて思ってたわよ」  入社4年目には希望どおり広報関連の部署に異動。仕事を任されることも増えていく。早くも「主任」やら「チーフ」などに抜擢される同期社員が現れたのは20代後半のころ。 「大学の同級生たちの中には結婚して退社したという人も出てきていたけど、私は仕事がしたかった。同期に負けずに昇進もしたかった。でも、昇進していくのは男性社員ばかり。私のほうが働いているのになんて歯ぎしりするような思いをした」  キヨミさんは33歳で結婚、翌年に出産。育児休暇を取り、半年後に職場復帰した。 「妊娠がわかって最初に考えたのが、仕事をどうしようということでした。でも生まれてみるとやはり子供が大切になる。半年休んで子育てしたら、このまま育児に専念してもいいなと思ったくらい。でも時短勤務が認められる勤務形態で復帰しました。男性同様に働けなくなったわけで、そのときはもう出世なんて頭の隅にもありませんでした」  内閣府男女共同参画局の2018年のレポートでは、キヨミさんの出産時は、妊娠前に退職する事例が約33%、第1子出産退職が約39%、出産後も就業を継続する割合は約24%。それが最新の10~14年データでは、それぞれ24%、34%、38%になっている。出産後も仕事を継続する割合は高くなったが、第1子出産を機に退職する割合はほぼ変わらず高いままだ。 「雇用機会は均等だったかもしれないけど、継続勤務機会は均等ではなかったということ。女性活躍社会と言ったって、そこが変わらない限り実現は難しいと思う」  そう話すキヨミさんが係長に昇進したのは50代になってから。子供が高校に入学し、子育てから解放された後だった。定年後のことは深く考えてはいないが、再雇用制度を利用して勤め続けるつもりだという。  子育てという女性の就業継続を困難にする“壁”を越えたのは中部地方の設備メーカーで取締役を務めているキョウコさん(仮名=61)だ。学生時代に中国に留学し中国語を習得し、就職後は上海支社に赴任した。20代から30代にかけてのころは失敗や挫折の連続だったが、上司に励まされてグローバル企業との契約を勝ち取るなどして会社に貢献した。ハードワークを続けてきたキョウコさんだが、働きながらしっかり子育ても終えた。 「上海では女性が働くのは当然で、当社ではトップマネジャーの4割が女性です。それができるのは女性が働く環境が整っているから。育児は両親や夫がサポートしてくれる文化があるし、家事はワーカーさんを手軽にアプリで雇うことができる。お金は多少かかりますが、退職して子育て後に非正規で働く場合よりも、働いていたほうが生涯収入はずっと多い。日本で働いている友人たちの話を聞くと、こうした環境が整っていない日本の女性はかわいそうだと思います」 1985年、求人票をチェックする女子大生 ■転職は不自由でセクハラも日常  キョウコさんは、定年後には日本の女性を支援する子ども食堂のようなことをやりたいと計画を立て、資金まで準備したがコロナ禍で延期。監査役として会社に残ることを選択した。それでも女性活躍のための活動は継続する予定で、「女性も定年まで働けるため、私にできることをこれからも続けていきたい」と言う。  とはいえ、均等法世代の女性が働き続けるための課題は子育てだけではない。来年中に定年を迎える、上場企業に勤めるナホコさん(仮名=59)は、40代のころにキャリアを生かして転職を考えたが実現できなかった。 「出世がしたいわけではなく、もっとキャリアを生かせる仕事をと考えて転職市場にアクセスしてみたのですが、女性の転職、しかも40代となるとほとんどありませんでした。担当してくれたリクルーターの方も、女性の転職案件はほぼないと言っていました。そんななかでも1社だけ紹介してもらい、面接まで行ったのですが、これなら今のままのほうがいいと考えて諦めました」  ナホコさんが入社した当時は女性社員の数そのものが少なかった。 「最初の10年くらいは職場に女性の先輩がいなくて、モデルになる女性もいなくて苦労しました。私は抵抗なかったですが、お茶くみもしました。職場で男性社員たちが平気で猥談をしている姿も見ました。今はお茶も給湯器ですし、猥談はもってのほか。女性の転職もだいぶ門戸が開けてきたと思います」  定年後は収入の不安があるので引退せず、雇用延長して働くつもりだとナホコさんは話す。 「制度としては70歳でも働ける会社なので、65歳以降も体力的に可能ならバイトみたいなスタイルでペースダウンしてでも働きたいです。まさか自分が定年まで働き続けるなんて、若いころは思ってさえもいませんでしたけどね(笑)」  花も嵐も踏み越えて定年まで働く女性たち。タフさでは間違いなく男性を上回っているようだ。(本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2022年5月27日号
週刊朝日 2022/05/20 11:30
「鉄鎖の女性」が浮かび上がらせた現代中国の闇 誘拐と人身売買の悲惨な現実
「鉄鎖の女性」が浮かび上がらせた現代中国の闇 誘拐と人身売買の悲惨な現実
国営の中央テレビが放映した保護されてベッドに身を置く女性  中国の農村で首を鎖につながれた女性が発見された。北京五輪の開催直前に発覚したその事件が中国社会に与えた衝撃は大きい。AERA 2022年5月23日号の記事から紹介する。 *  *  * 「一歩まちがえれば、鎖につながれていたのは自分だったかもしれない」  同情と憤りと共に、中国の女性たちからそんな声が噴き出し、SNS上にあふれた。  中国東部の江蘇省徐州市豊県で撮影された動画がネットに拡散し始めたのは、1月下旬のことだった。  動画には、農村にある粗末な小屋で、女性が閉じ込められている姿が映っていた。  真冬の寒々しく汚い場所で、女性は薄着のまま首に鎖を巻かれていた。歯はほとんど抜け落ち、話しかけられても相手とうまく意思疎通ができないようにも見える。女性は保護され、病院に収容された。  中国の人びとは、この動画に大きなショックを受けた。女性が“夫”とされる男との間に8人の子どもを持ったあと、こうした境遇に置かれていたことも、衝撃に拍車をかけた。  50代の“夫”は、動画アプリ「TikTok(ティックトック)」の中国国内版「抖音(トウイン)」で、子だくさんの父親として自らをアピールしていた。地元ではちょっとした有名人で、企業の宣伝にも起用されたことがある。  動画は、そうして有名になった家庭の様子をSNSで公開しようと、この家を訪ねたとみられる男性が撮影したという。抖音に投稿されて広がり、誘拐や人身売買、性的暴行の被害者ではないか、という疑いの声が一斉にわき上がった。 「鉄鎖の女性」。女性はそう呼ばれるようになった。 ■「一人っ子政策」の影  中国では1980年代、女性の誘拐と人身売買が深刻な社会問題になった。 「一人っ子政策」の影響で男女のバランスが崩れ、女性より男性の数が多くなった農村部で、連れ去られた女性が貧困層の男性と結婚を強いられる事例などが伝えられてきた。  事件の現場となった徐州とその周辺は、そんな誘拐の被害に遭った女性が少なくないと指摘されてきた地域でもあった。 小屋の様子  地元当局は1月28日、誘拐や人身売買を否定する調査結果を公表した。発表文には、女性には精神疾患があり、たびたび理由もなく子どもや老人を殴っていたというくだりもあった。  こうした説明は「虐待を正当化するのか」という反発を招き、内容にも疑義が相次いだ。  地元当局はその後、法律違反の疑いで“夫”を調べていると姿勢を一変させた。また、8人の子どもはDNA鑑定によって、女性と“夫”の実子であることが確認されたという。  2月10日には事件に関する4回目の発表があり、監禁の疑いで“夫”を拘束したことが明らかにされた。DNA鑑定の結果、女性は雲南省出身であることが判明し、女性を誘拐して売った容疑で、40代の女と60代の男も拘束された。  だが、世論はこの内容にも納得しなかった。鎖でつながれていた女性と、雲南省出身の女性とされる写真が、別人のものではないかといった指摘が一向にやまなかった。 ■何度も売り飛ばされる  ごまかしは許さないと市民らが目を光らせるなか、国営の中国中央テレビは2月17日、江蘇省が事件の調査に乗り出すと報じた。それまで調査にあたってきた県と市が一貫性のない説明を続け、県・市のレベルでは、真相を求める世論を沈静化させられないという判断があった模様だ。  江蘇省が2月23日に発表した調査結果によると、女性は44歳で、人身売買の被害に繰り返し遭っていたことが判明したという。豊県トップの共産党委員会書記の更迭など、17人の処分もあわせて公表された。  彼女はどのような経緯をたどって「鉄鎖の女性」にされてしまったのだろうか。発表では、おおむね次のような事情が明らかになった。  雲南省の出身地とされる場所は豊県と約2千キロ離れている。10代で結婚し、2年ほどで離婚。1998年はじめに江蘇省に連れて行かれ、5千元(現在のレートで約9万7千円)で売られた。女性を妻にしたいと考えた男が買い手だったという。  数カ月して行方不明になり、その後、河南省の食堂にいた女性を経営者夫婦が見つけ、1カ月後に近くの工事現場で仕事をしていた2人に売った。さらに別の人物を介して98年6月、女性は“夫”の父親に売り渡された。 首を鎖につながれていた状態(中国メディアのSNSから。画像の一部を加工しています)  女性は99年7月に長男を出産し、2011年から20年にかけて7人の子どもを産んだ。12年に第3子を出産して以降、精神疾患が悪化したという。今回の動画がきっかけとなり、“夫”は虐待の疑いで逮捕された。 「鉄鎖の女性」は、中国にはびこる誘拐と人身売買の闇を改めてクローズアップさせ、政府も対応を迫られている。 ■政府も対応に追われる  全国人民代表大会(全人代、中国の国会に相当)では3月、李克強首相が政府活動報告で「女性・児童の人身売買を厳重に取り締まり、女性・児童の合法的な権利・利益を断固として守る」との方針を示した。公安省は3~12月に、女性や子どもの誘拐、人身売買を集中的に取り締まるという。 「3年以下の懲役」と定められた人身売買の買い手に対する罰則は、軽すぎるのではないかという議論も起きている。売った側と同じく、買った側も最高刑を死刑にすべきだとの意見が聞かれる。  女性権益保障法の改正作業も進んでいる。「地方政府の職員らが業務の過程で女性の誘拐・人身売買の疑いがあることを発見した際には、速やかに公安機関に報告しなければならない」といった内容のほか、学校でのセクハラ防止、結婚・出産を理由にした女性従業員の昇進制限の禁止──などが盛り込まれる見通しだ。 「鉄鎖の女性」の事件は、21世紀のいま、経済発展をとげた中国でこんなことが起きうるのかという驚きの一方で、自分の身に降りかかっていても不思議ではなかったという思いを呼び起こした。  中国が威信をかけて2月に開催した北京冬季五輪と時期を同じくして、人権問題に焦点が当たる事態となった。 ■女性との差はわずか  筆者の印象では、五輪以上に社会の関心を集めたと言っても過言ではない。友人知人を含む中国の市民たちが、この事件に関してSNSに書き込んだ内容の真剣さと投稿量には、目を見張るものがあった。  五輪で国民的スターになった女子フリースタイルスキーの谷愛凌(アイリーン・グー)選手と対比させる投稿も目についた。米サンフランシスコで生まれ育ち、中国代表になった谷選手は三つのメダルを獲得した。 スキー選手でモデルとしても活躍する谷愛凌さん。中国のSNSでは鎖でつながれた女性と比べる投稿が少なくなかった 「谷愛凌を照らし、鉄鎖の女性を照らさないのなら、それは偽物の太陽だ」 「谷愛凌と鉄鎖の女性はほぼ同時に注目され、激しい落差を浮き彫りにした。一人は万能で、一人は犬のような生活」 「谷愛凌のような優秀な人間にはなれないけれど、私、娘、孫娘と鉄鎖の女性の差はほんのわずかだ」  いまも残る出産で女児より男児を好む傾向、男性の結婚難、女性の誘拐……。「一人っ子政策」などがもたらした社会の歪(ゆが)みは大きい。  その象徴として、鎖につながれた女性の姿は人びとの記憶に深く刻まれた。女性が誘拐され、売買される対象であることへの強い憤りも広く共有された。  中国共産党は昨年、結党100周年を迎え、みなが衣食住に困らず、まずまずの暮らしができる「小康社会」を実現したと宣言した。だがその足元には、「鉄鎖の女性」によって白日の下にさらされた農村の悲惨な現実が横たわっている。(朝日新聞瀋陽支局長・金順姫)※AERA 2022年5月23日号
中国
AERA 2022/05/20 11:00
性暴力を「ここだけの話」にしない 被害者が声を上げやすい社会をつくるために
性暴力を「ここだけの話」にしない 被害者が声を上げやすい社会をつくるために
「『性暴力』は人間破壊」などと書かれたカードを持って街頭に立つフラワーデモの参加者たち/21年11月  教師による生徒への性暴力が後を絶たない。文部科学省によると、2020年度に「性犯罪・性暴力等」を理由に公立学校の教師200人が処分された。性暴力の訴えは学校側に黙殺され、被害を受けても声を上げることすらできないこともある。被害者が声を上げやすい社会をつくるためにはどうすればいいのか。AERA 2022年5月16日号から。 *  *  *  4月2日、東京都内の小学校に勤める40代の教師が、10年前に当時10代の女性に性的暴行を加えた疑いで逮捕された。この男性教師の逮捕は今年に入ってから3回目。いずれも、子どもを狙った性犯罪の容疑だ。これまでに勤務していた小学校で担任をしていた複数の女児の着替える様子を盗撮したなどとして、児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで捜査が進んでいる。  文部科学省によると、2000年度に「性犯罪・性暴力等」を理由に処分された公立学校の教師は200人(男性196人、女性4人)。11~19年度に「わいせつ行為等」で処分された人数を加えると、10年間では2182人になる。この中には私立学校の教師は含まれず、氷山の一角の数字だ。  こうした状況から子どもたちを守ろうと、21年5月、教員による児童生徒への性暴力を禁止する新法が国会で成立した。教員による児童生徒や18歳未満に対する性交やわいせつ行為について、同意の有無を問わず「児童生徒性暴力」と定義し、その禁止を明記。懲戒免職になって教員免許を失っても、失効後3年たってから申請すれば自動的に再交付されて教壇に戻れる現状にも歯止めをかけた。  新法ができたことは、「同じような被害で苦しむ子どもが出ないように」という願いを込めて、性暴力被害者やその家族などが声を上げてきた努力の成果で、第一歩となるものだ。しかし、被害者が泣き寝入りしたり、学校側がかたくなに事実を認めず、処分が行われなかったりしたケースには適用されない。私がかつて取材した公立小学校で起きた事件も適用外の可能性が高い。 AERA 2022年5月16日号より  市長と一体となって事件を否定していた学校側だが、実は校長や教頭は問題を認識していた。  PTSDに苦しむ子どもの医療費として、被害者家族が「日本スポーツ振興センター」の給付金を申請した際、「これからお話しすることは、ここだけの話にしていただきたいのですが、これまでご迷惑をおかけしたので、給付金については私たちがお支払いしたい」と個人的に30万円程度を渡すと打診してきたのだ。家族が「わけの分からないお金はいらないので、きちんと(学校が)事故報告書を書いて、スポーツ振興センターに申請書類を上げてほしい」と求めたが、学校側は申請書をセンターに上げなかった。一連の対応を貫くのは保身以外の何物でもない。 ■放置や隠蔽は違反、文科省は“保身”に釘  新法が今年4月から施行されるのを前に、文科省は3月18日、基本的な指針を示した。その中では、「教育職員等による児童生徒性暴力等の事実があると思われるときの措置」として、「法の目的や基本理念も踏まえ、被害児童生徒等を徹底して守り通すことに留意して行われなければならず、悪しき仲間意識や組織防衛心理から事なかれ主義に陥り、必要な対応を行わなかったり、躊躇したりするようなことがあってはならない」と明記された。  学校の管理職や教育委員会に対しても、「必要な対応を行わず、放置したり隠ぺいしたりする場合には、この法の義務違反や、信用失墜行為として地方公務員法による懲戒処分の対象となり得る」と釘を刺している。 ■被害者が声を上げやすい社会をつくるために  相次ぐ性暴力への無罪判決への抗議から始まったフラワーデモが4月11日、4年目に入った。この日も中学時代の教師から受けた性暴力について訴える被害者の姿があった。  今回、学校現場で実際に起きた事件を被害者の母親からの視点でまとめた『黙殺される教師の「性暴力」』を執筆しながら、「もし自分がこの事件の学校や保護者、地域住民としてその渦中にいたら、どこまで子どもたちの訴えに敏感でいられただろうか。自分の中にも『黙殺』が潜んでいるのではないか」と問いかけ続けた。  メディアもかつて、子どもへの性暴力を「いたずら」と表記していた時代があり、中には痴漢などの性犯罪を助長する特集を組むところもあった。今年に入ってからも、新聞社が性的に描いた女子高校生のイラストを使った全面広告を掲載し、国連女性機関(UNウィメン)から「あたかも男性が未成年の女性を性的に搾取することを奨励するかのような危険もはらむ」(日本事務所所長)と問題視される出来事が起きた。教育と同様に、メディアが性差別的な社会を再生産してきた面は否めない。  一部の保守系政治家も学校での性教育の実践を問題視し、子どもたちが身を守る知識を身につける機会を奪ってきた。  教育現場の体質を改めると共に、性暴力・性差別を支えてきたメディアや政治などの長年のあり方を見直し、子どもや性犯罪被害者の訴えを受け止め、被害者が声を上げやすい社会をつくっていくことが必須だ。(朝日新聞記者・南彰) ※AERA 2022年5月16日号より抜粋
AERA 2022/05/13 18:00
小島よしおが「勉強は嫌い」という小3女子にすすめる「苦手な野菜と同じ」克服法とは
小島よしお 小島よしお
小島よしおが「勉強は嫌い」という小3女子にすすめる「苦手な野菜と同じ」克服法とは
小島よしおさん「ボクといっしょに考えよう」(撮影/松永卓也=写真映像部) 「勉強が好きになる方法を教えてください」と相談を送ってきてくれたのは小学3年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も大人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。「勉強は野菜と一緒」という小島さんの見解とは? *  *  * 【相談15】勉強は嫌いです。かけ算は得意なので好きです。たくさん勉強してもテストの点数があまりよくありません。家でもイヤイヤ勉強をしているので頭に入っていないと思います。よしおさんはとても頭がいいですが、小学生の頃は習い事は何をしていましたか? 勉強はどの程度していましたか? 勉強が好きになる方法を教えてください。(ゆあ・小学3年生・女子) 【よしおの答え】 ゆあちゃんは勉強が嫌いなのか~。だけど、そのなかでも「かけ算は好き」という好きなポイントを見つけられていて素晴らしいね! それに、イヤイヤでも家で勉強に向き合っていてえらいな~、と思ったよ!  よしおが小学生の頃は、たっくさん習い事をやっていたんだ。柔道、書道、水泳、野球、学習塾、通信教育……。だけど、長く続けられたのは野球くらい。全部、自分が「やりたい!」って言って始めたんだけどね(笑)。  ちなみに大人になってからも、太鼓やカポエイラ、ポールダンスなんかも習っていたことがあったよ。誰かがやっているのを見て影響を受けることが多くて、チャンスが来たらすぐにとびつく性格なんだ。次から次へと興味が移っていくから、ほとんど長続きはしないんだけど(苦笑)。  小学生の頃は、授業はしっかり受けていたからテストの点が特別悪かったという記憶はないかなあ。というのも、よしおは目立ちたがり屋だったから授業中は積極的に手をあげたり先生の手伝いなんかをしたりしていたよ。そうすると褒められるからもっと楽しくなって、ますます授業が好きになっていったんだよね。 「勉強が好きになる方法を知りたい」という女の子に、小島さんは「勉強は野菜と一緒」との回答。その真意とは?(※写真はイメージです/GettyImages)  ゆあちゃんはいま、どんなふうに勉強しているのかな? 机に向かって問題集を解いたり、宿題をやったりしているのかな?  よしおが小学生の頃は、漫画で勉強をするのが楽しかったなあ。学習漫画って言うのかな? ことわざとか、日本の歴史とかの漫画を読んでいたよ。ゆあちゃんの学校の図書室や、地域の図書館にもあると思うんだけど、漫画だとストーリーがあってどんどん読み進められるし、絵もあるから覚えやすいんだよね。  家では、お父さんがよくクイズを出してくれて、家族でクイズ大会をやっていたなあ。世界地図を見ながら「アメリカはどこでしょう?」とか「中国の人口は何人でしょう?」とかだったかな。クイズ形式だと楽しくできるし、覚えもよかったなあ。 ■勉強方法はひとつじゃない  ゆあちゃんは勉強のどんなところが嫌いなんだろう? よしおが思うに、勉強の好き嫌いって野菜の好き嫌いに似ている気がするんだ。どちらも、一度「嫌い」って思うと、見るのも嫌になっちゃうかもしれない。「食わず嫌い」っていう言葉もあるように、それまで一度も食べたこと(勉強したこと)がなくても、嫌いだと思い込んでしまうこともあるよね。  野菜は、調理方法によって苦手を克服できることがある。たとえば、ピーマンは切ることで苦みが出るから、切らずに丸焼きにすると苦みを感じずに食べられるんだ。にんじんが苦手な子も、細かくしてハンバーグに混ぜ込めば食べられたりするよね。  勉強のやり方も、野菜の調理方法みたいに、実はたくさんあるんじゃないかな? よしおが小学生のときにやっていた漫画での勉強やクイズ大会も、勉強方法のひとつだよね。  知り合いの娘さんは、『鬼滅の刃』で漢字を覚えたって聞いたな。歴史だったら、大河ドラマも日本の歴史を学べるよね。そんなふうに、楽しみながらできる勉強方法もいろいろあるから、ゆあちゃんもいっぱい試してみたらどうだろう。  ただ、小学生から高校生くらいまでは、勉強する範囲や、やらなければいけない宿題が決められているから、楽しい勉強方法だけでやっていたらカバーしきれないところも出てくるかもしれないね。  そんなときおすすめなのが、口に出して覚える方法。よく聞く方法かもしれないけど、ゆあちゃんに合った勉強方法だと思うんだ。ゆあちゃんはかけ算が得意なんだよね? かけ算の九九って、問題と答えの組み合わせを口に出して覚えるよね。  だから、歴史の年号と出来事とか、本の作者と作品名とか、何かセットにして覚えられるものを何度も口に出して、呪文みたいに覚えるっていう方法で攻めるのはどうだろう? 得意な勉強方法をいろんな教科に置き換えていくんだ。  ちなみによしおも、ネタとかは口に出して覚えることが多いよ。ライブ前に、歩きながらぶつぶつ口に出して覚えるんだ。まだ駆け出しの頃、「そんなの関係ねえ」とか「おっぱっぴー!」とか、ぶつぶつつぶやきながら下北沢(お笑いの劇場がたくさんある街だよ!)を歩いていたよ。いま思うと完全にあやしい人だよね(笑)。 ■勉強は人生を豊かにしてくれるもの  もしこの方法が成功したら、得意なことやできることが増えて、勉強が好きになるかもしれないね。そんなふうになったらいいなあ、って思うよ。  よしおはいまでも昔の人の偉人伝とかを漫画で読むんだけど、ぜひゆあちゃんにも読んでほしいのが、伊能忠敬の伝記。江戸時代の天文学者・地理学者で、初めて実際に距離を測って日本地図を作った人なんだけど、とにかく勉強熱心だったんだ。ただ、伊能忠敬は商人でもあって、当時は家業を栄えさせることが一番の目的だったから、それ以外の学びは遊びと一緒だと言われていたんだ。  そんななか、伊能忠敬はまず家業に専念して財産を作り、後継ぎに任せたんだ。それから、大好きな勉強に専念した。すでに50歳を超えていたんだけど、そこから日本地図を作り始めたんだ。こんなふうに、勉強が好きで好きで仕方なくて、ものすごいことを成し遂げた人の話から刺激を受けることもあるかもしれないよね。  そもそも勉強ってどんなものだと思う? 実は勉強って学生時代だけじゃなくて、大人になってからも続くもので、人生を豊かにしてくれるんだ。さっきも話したように、いまはしなきゃいけない勉強が決められているし、テストでは点数がつけられてしまうから、嫌いって思ってしまう気持ちもわかる。 「自分が得意な勉強方法を他の教科にも応用してみよう!」(撮影/松永卓也=写真映像部)  だけど、人間関係と同じで、「嫌い」って言っちゃうともっと嫌いになっちゃうし、嫌いって言われた勉強のほうも、ゆあちゃんから離れていってしまうんじゃないかな。勉強って、味方につけたらすっごく心強い存在になると思う! これまで知らなかったことを知るようになるって、本当にワクワクすることだし、毎日が楽しくなったり、将来の夢につながったりすることもあるよ。「嫌い」って言うのを一回やめてみて、いろんな方法を試して勉強と仲良くなってみるのはどうかな?  最後に、ゆあちゃんにギャグを贈るね。「かいかいかいかい、かいかい解決~~!!」。お尻をかきながら、言うギャグだよ。問題が解けたときに言うのもよし、問題が解ける前に言うことで解答を導くのもよし! ゆあちゃんにぴったりの勉強方法が見つかりますように! ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しております。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
小島よしお
AERA with Kids+ 2022/05/13 16:00
ある日突然「インド」に放り込まれた「女子高生」が思い知らされた“日本の現実” 
ある日突然「インド」に放り込まれた「女子高生」が思い知らされた“日本の現実” 
巨大広告が並ぶ都市的な空間と雑多な街並みが混在するデリー(写真:著者提供) タピオカとプリクラと部活と放課後のおしゃべり……日本でキラキラの女子高生ライフを送るはずだった未来は、突然のインド行きでもろくも崩れ去った。父親の転勤でいきなりインドに放り込まれたJKは、これまで何の興味もなかったインドでの暮らしに、ことごとく常識をくつがえされていく。日本のJKによる、おかしくて真面目なインド滞在記『JK、インドで常識ぶっ壊される』より一部を抜粋する。(表記は書籍と異なる部分があります) *  *  * ■期待と不安を胸の中に秘めて  寝返りを打とうとして、身体が窮屈に固定されていることに気づく。そうだ、飛行機に乗ってるんだった。  泣き枯らして重たいまぶたを開けてみると、きわめて人工的な照明がこれまた人工的な白い壁や天井に広がってできあがった、無機質な空間にいた。  あーあ、せっかくタダなんだからもう一本映画見ようと思ってたのに。  暗い機内、自分の頭上だけを照らすライト。そんなMVのワンシーンのような雰囲気に酔って、友だちからの手紙読んでたら泣けてきちゃって、そんでそのまま寝ちゃったんだ……。いつの間にかまわりの乗客ももう起きてるし。もったいないことをしたとひとり嘆いていると、着陸体勢に入るというアナウンスが響いた。 「まもなく、インディラ・ガンディー・国際空港に到着いたします」  濁点が多くゴツゴツとしたその名前が、固い重しのごとく胸に乗っかる。それによってぎゅっと凝縮された、不安と、緊張と、ほんのわずかな期待。さまざまなものが混ざり合った感情は、もうポジティブなのかネガティブなのかわからないほどに渦を巻いていた。  人生の節目。門出。呼び方は幾通りもあれど、ひとには誰にも環境ががらっと変わる時期がある。子どもや学生なら入学・卒業、年齢を重ねていけば結婚や出産、そして就職、転職、昇進、退職などがそれに当てはまる「イベント」だろう。そういうとき、大抵おめでとう、とまわりに言われる。節目や門出はおめでたいものだ。 搭乗した飛行機の車窓から見えた景色(写真:著者提供)  飛行機に乗って国をまたいでいるまさにこの瞬間が、自分にとってのその「節目」なんだろうな、とぼんやり感じた。海外に引っ越すんだから、新生活が始まるんだから、門出にちがいない。十四歳で迎える人生の区切り、のはず。そのはずなのに、おめでたい気持ちがいまいちしない。  あと一年でつかめる「JK」という輝かしい称号を捨てて。居心地の良い友だちや部活動の輪を抜けて。  自分は一体、どこへ向かっているんだろう。  この無機質な空間に閉じ込められた八時間が終わる。そうしたら、自分がいるのは生まれ育った日本でも、どこの土地や海の上かわからない雲の合間でもない。  そこはもう、インドだ。 ■不意に浮かんできた「カースト」  飛行機の振動がおさまり、シートベルト着用サインが消えると、それを合図にまわりが一斉に立ち上がって荷物棚からかばんを下ろし始めた。自分も置いていかれないようにと必死におとなたちのまねをしながら頭の上に手を伸ばすものの、なかなかスーツケースをつかめそうにない。  見かねたCAさんが、代わりに取ってくれた。ドスンと音を立てて床に置かれたスーツケースを見ると、わたしの荷物だけHEAVYと書かれたラベルがついている。まるで、日本への未練をパンパンに詰め込んできたみたいだ。CAさんも一瞬、その重さにひるんだようだった。  ターミナルビル内に入っても目につくのはインド人(と思われる)空港スタッフばかりだ。  ここでは、乗客に比べてスタッフの割合が日本の空港よりも圧倒的に高く、日本の十倍もある人口の差は、この国に足を一歩踏み入れた瞬間から明らかだった。おそろいの制服を身にまとったスタッフが数人で群れて清掃をしていたり、電動カートにまたがっていたり、はたまた床に座り込んだりしている。  なんで座ってるの? と突っ込みたくなる気持ちを抑えながらよく見てみると、むらさきの制服を着た彼らとは別に、ワイシャツを着て首からIDを下げたスタッフもいる。制服のスタッフたちは、みなうつむきがちで床のあたりばかりに視線があるのに対して、ワイシャツのスタッフたちは、胸を張り英語で外国人の客と会話をしている。 インドの街にいる野良犬たち(写真:著者提供)  その明らかな差に、「カースト」ということばが不意に浮かんだ。自分が住むことになる前から、インドといえばと言われて浮かべていた、数少ないもののひとつだ。「インドのカースト制度は……」と社会科の授業で先生たちはいつも否定的なトーンで話していた。いや、ちがう、と危ない響きをまとったそのことばをかき消そうとする。  日本だって、「空港職員」と「清掃員」は別じゃん。そんなすぐに目に見えるものじゃないはず。だけど、制服を着た彼らが、ワイシャツの彼らと比べてみな肌の色が暗いように感じるのは、気のせいだろうか……。  異なる国、異なる文化。一面に真っ白いLEDが広がる日本の空港の近未来的な雰囲気とはちがう、鈍い鉄さび色のカーペットの上を進んでいく。国の玄関である空港の様子がちがうのも当然だよね、と自分に言い聞かせながら。  空港から一歩踏み出すと、むわっと熱い肌触りと砂っぽく乾いたにおいに包まれた。あたりの喧騒が、山吹色の空に響く。十時間ぶりに吸う外気は、五感のどれをとっても知らないものだった。  ほっと息つく間もなく車に乗り込んで、仮住まいの家へと向かう。空港からしばらくの道のりは整備されており、格段におどろく光景もなかった。な~んだ、思ったよりインドも荒れてないんじゃん。  ただ、沿道の青い芝生には、空から降ってきたかのような野良犬たちが横たわっていた。首輪やリードにつながれず、ただ自由に転がっている犬たちの、安らいだ様子にほほえましくなる。この程度なら、インドも全然いけそうかも。  ほかに目を引いたのは、ところどころに立つ電光掲示板に映る広告の、モデルの目力くらいだ。いまや日本だったら「古すぎ~」と揶揄されてしまいそうな、目の上下を漆黒のラインで縁取ったアイメーク。それによって、瞳よりそのまわりの白目が際立っているため、ギョロッとした目つきの印象を受ける。  眉毛は、細くつり上がっていて、ピンと気を張り詰めているような迫力と貫禄を漂わせる。自信ありげに口角を上げた唇には、ビビッドピンクの口紅が光っていた。これがインドでの「理想の女性像」なのだとしたら、どうやらここでは生気に満ちた力強い女性が好まれるみたいだ。俗に言う“清純派”とは真逆の分類。ここでは、日本の「かわいい」は「弱い」になってしまいそうだ。 日本では見たこともない乗り物もあった(写真:著者提供)  わたしの、毎朝こだわって巻いていた前髪も、薄づきになるように研究したナチュラルメークも、ここでは通用しないのだろうか。そんな戸惑いを抱えながら、ハイウエー沿いのホテル群を眺めていた。  だが、ある地点から急に、視界が馴染みのない景色に覆われていった。すいすいと広い道路を走っていたはずの車たちがぎゅっと集まり、もう車線はないに等しい。どこからともなくごちゃごちゃとしはじめた道路の様子は、まさに混沌(こんとん)ということばを体現していた。  大勢の労働者が乗り込んだトラック。ヘルメットもなしに家族四人がまたがったバイク。緑と黄色のおもちゃのような見た目をした三輪の乗り物。ときどき見かける真っ黒の外車。それらの間を器用に泳いでいくさびた自転車。ほんの一瞬、道路の脇に、足のない老人が地面をはっていくのが目に映った。  その混沌のなか、家族三人分のスーツケースが山積みになったバンの後部座席に座るわたし。もう「この程度」なんて言っていられない。やっぱり、すごいところに来てしまった。 ■車窓をノックする貧しい少年  未知の土地への不安と緊張でピンと張りつめたわたしの心臓に、突然電流が走る。車窓をたたく音がした。反射的にそちらに目を向けて、すぐ、また反射的に目をそらした。心臓に流れた電流は一気にボルト数を上げた。  砂ぼこりにまみれた前髪の束の向こうに一瞬のぞいた、ふたつの瞳。視線をグレーの座席シートに移しても、いましがた目を合わせた少年の姿が脳裏に焼け付くように浮かんだ。色あせたボロボロの洋服。そこから生える枝のように細くやせこけた腕で、窓をたたいている。  こんな姿の子どもはいままで見たことがないはずなのに、彼がどんな境遇にいるのか察することができた。そして、彼と自分とのあいだには、窓一枚よりもずっと大きな隔たりがあるのだろうということも。  車はまだ動きださない。彼はまだそこにいる。わたしはまだ目を伏せている。ガラス一枚の向こうに感じる気配と、伸びた爪が鳴らす悲壮な音に、心に走った電流は痛みに変わる。  やがて信号が変わった。車は、クラクションと排ガスの渦にまたのみ込まれる。少年を置いて。  折れそうな腕を伸ばす彼も、空港のあのギラギラした免税品売り場も、おなじこの国の一部だなんて。  そうだ、自分はここで生きていくんだ。  十四歳の夏、こうしてわたしはインドに放り込まれた。 ◎熊谷はるか(くまがい・はるか)2003年生まれ。高校入学を目前に控えた中学3年生で、父親の転勤によりインドに引っ越す。インドで暮らした日々を書籍化すべく「第16回出版甲子園」に応募、大会史上初となる高校生でのグランプリ受賞。2021年6月、高校3年生で帰国。『JK、インドで常識ぶっ壊される』でデビュー。
JKインド書籍熊谷はるか
dot. 2022/05/10 17:00
元宝塚男役トップスター「凰稀かなめ」が語る恋愛と結婚 「キスシーンは先輩にやり方を教えてもらいました」
上田耕司 上田耕司
元宝塚男役トップスター「凰稀かなめ」が語る恋愛と結婚 「キスシーンは先輩にやり方を教えてもらいました」
女優の凰稀かなめ(おうき・かなめ)さん(撮影/上田耕司) 宝塚歌劇団の宙組男役トップスターだった女優の凰稀かなめ(おうき・かなめ)さん(39)。2015年の宝塚退団後も、映画「マスカレード・ナイト」やドラマ「ドクターX~外科医・大門未知子~」に出演するなど、活躍の幅を広げている。15年間在籍した宝塚歌劇団での知られざるエピソードや「3度辞めようと思った」という心境、そして恋愛や結婚観に至るまで、90分にわたり語ってくれた。 *  *  * かなめさんは2000年に宝塚音楽学校を卒業し、86期生として宝塚歌劇団に入団した。2015年に退団するまで雪組、星組、宙組の男役として活躍し、トップスターに上り詰めた。  かなめさんは3人姉妹の末っ子。宝塚音楽学校に進むことになったのは、両親の勧めだったという。 「母が昔からミュージカルやお芝居が好きで、近所の小劇場の公演によく行っていたんです。ある日、母とテレビを見ていたら、宝塚の月組トップスターだった天海祐希さんの退団(1995年)のニュースが流れていたんです。そこで母から『宝塚見に行ってみる?』と誘われて、行ったのが最初でした」  当時はまだ12~13歳。東京・有楽町にあった「東京宝塚劇場」で観劇した。 「1階の後ろの席で、舞台は小さくしか見えなかったんですが、華やかですごい! と感動しました。私には遠い世界だと思いましたが、後日、母親から『宝塚の試験を受けてみれば?』と言われたんです。宝塚を目指す人たちは小さい頃からお稽古しているのは知っていたので、私は『無理だと思うよ』と答えつつも、それから毎日、お稽古に通い始めました。まあ『受からなかったらしょうがない』と思っていたので、気負いがなかったのがよかったのか、楽しく受験ができました。でも(音楽学校に)入ってからが大変だったんですけどね」  宝塚音楽学校での指導は厳しい。初舞台前には、レオタードでそろってツマ先を上げるラインダンスの稽古をみっちりとつけられた。 ナチュラルな表情が魅力の凰稀かなめさん(写真=事務所提供) 「1カ月半くらい、それだけを稽古するんです。同期45人でとにかく足上げの練習だけをずっとさせられました。1人でも失敗したら、連帯責任でやり直し。宝塚では、息切れしている姿を絶対にお客さんに見せないんです」  指導者からは「どんなに苦しくてもつらくても悲しいことが起こっても、笑顔でいなさい」と流儀を教え込まれたという。  初めてセリフをもらったのは雪組のとき。01年2月―4月、宝塚大劇場での新人公演「猛(たけ)き黄金の国」で、「ええ女子(おなご)じゃの」という一言だけのセリフを演じた。 「本当は台本にはなかったんですが、演出家の先生が『ええ女子じゃの』というセリフを入れてみようと言い出して。みんなが順番に言わされた結果、先生から『はい、じゃあ君』とセリフをもらいました」  音楽学校を卒業した生徒は男役と娘役に分かれる。かなめさんは最初から男役だった。「身長が173センチあるので、男役しか無理でしたね」と笑うが、宝塚の華はなんと言っても男役。「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」「ロミオとジュリエット」など、名作に次々と出演していった。  ここで、気になること聞いてみた。娘役とのキスシーンでは、最後の決定的な瞬間は客席からは見えない。本当にキスはしているんですか? 「アハハ、ちょっと勢い余って、唇がぶつかっちゃうことはありますけど、基本はしないです。口紅の色も違いますし。ただ、先輩にやり方を教えてもらったことはあります。若い頃は、キスシーンを同期に見てもらったことも。演じる上では、キスに至るまでのドキドキ感が一番大切だと思っています。たとえば、見つめ合っている瞬間の目線の位置、目を落として相手の唇を見た瞬間、そのときの手の位置、そういうしぐさを全て研究していました」  そんなかなめさんに転機が訪れたのは、雪組に所属してちょうど10年がたった頃だった。このとき初めて「宝塚をやめたい」と思ったという。 「その頃は演出家の先生たちから、何をやっても『違う、違う』しか言われなくて、何が違うんだろうってずっと思い悩んでいました。私には番手もなかったし、ソロで歌ったこともなかった。何をしても、ダメだと言われたし、10年続けてもそこまで言われるということは、たぶん向いてないんだろうなと思い、もう辞めることに決めたんです」 宝塚歌劇団では男役を15年務めた。今年2月には、松竹少女歌劇部(当時)のスターとして活躍した水の江瀧子の半生を描いたドラマティックレビュー「TARKIE THE STORY」で主演を演じた。  辞めたいという意志を雪組のプロデューサー伝えたが、最初は突き返された。受理されたのは、3回目の申し出のときだった。「やっと辞められる」「もう辞めるんだ」と思ったが、そのタイミングで組替えの話が舞い込んでくる。09年4月のことだった。 「星組から声がかかったんです。1期上の柚希礼音(ゆずき れおん)さんが星組のトップになるから、その2番手として呼ばれたのだと言われました。すごくうれしかったし、自分の殻を破るきっかけになると思いました。それで、辞めることを白紙にしました」  星組では、初の2番手に抜擢された。主演が未経験ながら2番手となったことで、最初は星組に受け入れられるか不安だったというが、すぐに溶け込めたという。 「星組の組長(当時)で男役の英真(えま)なおきさんが面白い方ですし、みんな明るくて生き生きしていた。下級生が失敗しても、笑ってくれる上級生が山ほどいるような温かい雰囲気でした」  仲間内では、かなめさんの本名である「リカ」と呼ばれ、親しくなっていった。  当時の星組は、男役トップスター柚希礼音さん、娘役トップスター夢咲(ゆめさき)ねねさん、男役2番手のかなめさんの3人のトライアングルが噛み合い、舞台の評判も上々だった。そんな矢先に再び、組替えの発表があった。 「星組に1年10カ月いて、これからというとき、今度は宙組の2番手として行かないかと言われました。その時は、『嫌だ、行きたくない』と言って、もめにもめました。『トップにならなくてもいいから、ここにいたい』『まだやらなくちゃいけないことがある』と主張しました」  だが、その思いは通らず、11年2月付けで、宙組に組替え。結果、かなめさんはその才能をいかんなく発揮して、翌年7月、宙組トップスターに就任した。  トップスターとなったかなめさんには、数百人ものファンが公演や稽古場での入り待ち、出待ちをするようになった。ファンは、かなめさんが出てきた一瞬で、手紙を渡すのが恒例になっていた。 「暑い日も寒い日も雨の日も、待っているファンの方たちがいて、もちろんうれしいんですが、私は申し訳ない気持ちがすごく強くなってしまって。朝に入り待ちして、そのままお仕事に行かれて、帰りに出待ちにまた来てくださっている方もいました」 5月15日には、東京・南青山「ブルーノート 東京」でのライブが控える(写真=事務所提供)  そんな熱心なファンに惜しまれながら、2015年2月、「白夜の誓い/PHOENIX 宝塚!!」東京公演千秋楽をもって、宝塚を退団した。音楽学校時代から合わせると、17年間の宝塚生活だった。 「悔いはなかったですね。まだ早いと言われたりもしましたけど、宝塚歌劇100周年のトップも務めて終えることができました。いろいろな人に祝福され、惜しまれて辞めたいと思っていたので、いいタイミングだったと思います」  退団後は、舞台やドラマ、映画と幅を広げて活躍している。  昨年12月に亡くなった神田沙也加さんともミュージカル「1789―バスティーユの恋人たち」で共演した。 「沙也加さんは、すごく役に没頭する人でした。純粋で一直線に考える人。私に作品の演出に関する感情をぶつけてきたこともあって、共感できるところが多かったですね。舞台が終わってからも、私の舞台を見に来てくれたし、私も沙也加さんの舞台を見に行ったりと、交流がありました。時々はメールもしていましたから、一時は考え込んでしまいましたね」 昨年は米倉涼子主演の人気ドラマ「ドクターX~外科医・大門未知子~」(テレビ朝日系)にも出演した。 「私は大門未知子の大ファンで、全シーズンを録画して、何回も見ているので、どんな手術をしたかも全部覚えています。米倉さんと2人でお芝居するシーンがあったんですけど、とても楽しかったですね」  最後に、自身の恋愛観についても聞いてみた。多忙な日々のなかで、共演者と恋に落ちたりすることはあるのだろうか。 「全くないです。夫婦役や恋人役を演じていても、実際にそういう関係になるのは、私は好きじゃないんです。演者として、その男性だけを見ているようでは芝居は伝わらないですし、どこかで冷静でなければいけないと思っています。もうすぐ40歳になりますけど、だから、いまだに独身なんでしょうね。事務所の社長からも、ファンの方からも心配されています(笑)。結婚は、良いご縁があったらとしたいと思いますけどね。気遣いのできる人がいいです。私は舞台で演じているときは周りが見えないくらい没頭してしまうので、それを理解してくれる人がいいですね」  元宝塚トップスターだけが持つカリスマ性を武器に、より多くの人を魅了する役者になっていきそうだ。(AERA dot.編集部・上田耕司)
凰稀かなめ宝塚
dot. 2022/05/08 11:30
女子大学、「男女平等」の時代になぜ存在? 津田塾大学長が語る「役割」とは
女子大学、「男女平等」の時代になぜ存在? 津田塾大学長が語る「役割」とは
現代の日本における女子大学の役割とは?(※写真はイメージです/GettyImages)  日本に75校存在する女子大学は、男女平等をめざす時代の流れに逆行するかに見える。その「草分け」の大学はどう考えるか。『大学ランキング2023』(朝日新聞出版)では、学長に率直な問いを投げた。 *  *  *  男女格差の是正のため、さまざまな組織で性別の偏りをなくす動きが進んでいる。その中で、学生が女性のみの女子大学が果たす役割とは何だろうか。 「日本のジェンダーギャップ指数は156カ国中120位(「ジェンダーギャップ指数2021」)と低迷しており、国会中継を見ても登場するのは男性ばかり。少女たちはその光景を当たり前に感じ、社会の主役は男性だと思い込みがちです」  こう話すのは、津田塾大の高橋裕子学長だ。日本には女性の社会進出の遅れという問題があるからこそ、女子大学が必要なのだと力強く語る。 「女子大学に入ると、主役は常に自分たち。教職員全員が時間とエネルギーをかけてサポートしますから、彼女たちは自分がセンターに置かれる価値ある存在なのだということを体感します。selfesteem(自尊感情)を高め、将来の方向を見定める。そのための4年間を提供するのは、女子大学の重要な役割だと考えています」  どのようなときに女子学生は自らの価値を体感するのだろうか。高橋学長が例に挙げたのが、学内イベントの運営だ。 「授業やサークルでの発表はもちろん、大学祭やオープンキャンパスといったイベントの企画立案やスポンサー探し、会場設営や看板持ちといった力仕事まで、どんなことでも女子学生が中心。これが共学の場合だと、自然と男性に依存してしまう部分も出てくるでしょう。あらゆる場面で主役として扱われる経験は、自分には多大な価値や可能性があるのだという気づきをもたらしてくれます」  さらに女子大学の強みとして、多様なロールモデルと出会えることを挙げる。 「独身でキャリアを展開する人、大学教員になりたてでありながら子育ても両立させる人……多様なライフスタイルで活躍する女性と出会えるのは、大変大きな魅力です」 津田塾大学学長・高橋裕子。専門は日米のジェンダー史。津田塾大学芸学部英文学科卒業。カンザス大大学院修了後、桜美林大国際学部講師、津田塾大学芸学部英文学科助教授などを経て、04 年同教授、16 年から学長(写真/本人提供)  学部の4年間を津田塾大で、それ以外は共学校で過ごした高橋学長自身も、その魅力を実感したという。 「大学院では、履修した授業のほぼすべてが男性の先生でした。それほどまでに女性の先生は少なかったのです。それに対して学部時代に受けた授業は、7割程度が女性の先生だったと思います。女子大学は女性教員の割合が高いのです。先生によっては、自身のキャリアと私的な生活のバランスのとり方について、女子学生とシェアすることも多いかと思います。そうした語り合いができる環境があるのも女子大学の魅力だと思います」 ■「自分の人生をリードすること」現代に必要な女子大学での教え  高橋学長は、卒業後もその特別な環境での経験が自分を支えていた、と語る。 「私が大学を卒業したのは1980年。女性は就職しても男性の補助的な仕事しか任されず、20代後半で結婚するという風潮が強い時代でした。それでも周りに流されずに自分の決めた道を貫いてこられたのは、学問への熱意とやりがいのある仕事を持ち、自分らしく輝く女性の先生方に出会えたからだと思います」  大学卒業後、日本とアメリカで合計9年間の大学院生活を送り、32歳で大学講師に。35歳で出産した後は育児や親の介護で多忙な日々を送りながらも学問への熱意を絶やさず、研究者としてのキャリアを築いてきた。 「学生時代、子どもを育てながら研究している先生を間近で見てきましたし、自分が研究者になってからも、そのような働き方をしている同僚の先生を見てきました。今の学生たちにとっても、本学の教員や卒業生の姿は、将来を思い描く上で励みになっていることでしょう。ここで過ごした4年間は、女性だからと控えめになることなく生き抜く活力になっていると実感しています」  津田塾大には、多様な分野で学び続け、自身の道を見つける卒業生も多い。 「大学院進学や留学を経て研究者になる人、医師や弁護士になった人、農業で起業した人もいます。慶應義塾大理工学部教授で日本航空宇宙学会会長も務める松尾亜紀子さんのように、理系分野の最前線で活躍する人もいます。在学中には、学びの楽しさを発見し、自分の可能性をどんどん広げてほしいと思っています」 (左上)2021年、日本の全大学のうち、女性が学長を務める大学は13%。01年の7.4% から少し上がったものの、依然として少ない状況。(右上)アメリカの女性学長は、2001年の約21%から、16年には約30%に推移(American Council onEducation「College Presidents, by Gender」から)。(下)日本の女子大学で女性が学長を務めるのは29%。津田塾大、お茶の水女子大、東京家政学院大、日本女子大など22校だった(22年3月時点)  近年はリーダーシップ教育が注目され、女子大学も女性リーダーの育成に力を注ぐ。高橋学長はリーダーシップについて、人の上に立つ役割のみを指すわけではないと、その本質を語る。 「本当に大切なのは、自分の人生を自分でリードできるようになることです。現代の女子大学には、学生の個性を尊重し、独自の人生を展開するための自立心を育むことが求められているのです」 ■日米の女子大学の違い 社会正義への意識の差  そんな高橋学長が「本学の誇り」とすることがある。津田梅子を初代とする11人の学長のうち、10人が女性であることだ。関東大震災や太平洋戦争などのさまざまな時代の困難に女性が主体となって立ち向かい、乗り越えてきた。 「120年余りの歴史を女性がつないできたストーリーは本学の誇り。折に触れて学生に話し、『次は皆さんの番ですよ』と伝えています」  津田梅子の研究をライフワークとしながら、日米の女性史研究を行っている高橋学長。アメリカの名門女子大であるウェルズリー大やバーナード大、津田梅子が留学したブリンマー大などについても研究に取り組んできたが、日米の女子大学の違いを感じることも多かった。 「アメリカの女子大学で感じたのは、Social Justice(社会正義)やEquity(公平性)に対する意識の高さ。教員も学生も、男女格差や人種差別、移民問題や環境問題などの社会的課題に立ち向かい、解決していかなければという使命感を持っています。日本の女子大学も、今後はもっと社会に対して積極的にアプローチする姿勢が求められていくと思います。また、女子大学の学長の女性比率はアメリカが約9割で日本は約3割。大学運営における女性の参画にも差が見られます」 ■「女子大学でよかった」 卒業式を迎え、学生は  近年は中学・高校の段階から女子校離れが進んでいると言われ、学生を集めるために共学化に踏み切る大学も出てきている。こうした現状について高橋学長は、次のように考察する。 「共学がよくて女子大学はだめという二者択一論ではなく、学生一人ひとりの個性にどちらの環境がフィットするかという観点で大学を選んでほしいと思います」  津田塾大の新入生に志望動機を尋ねると、定評のある英語教育や国際交流プログラム、少人数教育や確かな就職力といった答えが多く、女子大学だから選んだという学生は少数派だという。しかし卒業式を迎えると、「女子大学で学んでよかった」という声がよく聞かれるそうだ。 「女子大学ってどうなんだろう?と思っている女子高校生の皆さんには、ぜひオープンキャンパスなどで在学生のリアルな声を聞いていただきたいですね」 【津田塾大の歴史】1900 年、女性の地位向上のため開校された女子英学塾を祖とする。創設者の津田梅子はアメリカの女子大学・ブリンマー大に留学経験があり、創立以来、英語教育にも定評がある。 高橋裕子(たかはし・ゆうこ)津田塾大学学長。専門は日米のジェンダー史。津田塾大学芸学部英文学科卒業。カンザス大大学院修了後、桜美林大国際学部講師、津田塾大学芸学部英文学科助教授などを経て、04年同教授、16年から学長。 (文/林 菜穂子) ※『大学ランキング2023』から抜粋
大学ランキング
dot. 2022/05/08 11:00
5年でフジ退社の「久慈暁子」に向けられる業界人の厳しい目
藤原三星 藤原三星
5年でフジ退社の「久慈暁子」に向けられる業界人の厳しい目
元フジテレビアナウンサーの久慈暁子  4月30日をもってフジテレビを退社した久慈暁子(27)。「めざましどようび」のメインキャスターや「さんまのお笑い向上委員会」のアシスタントを務めるなど、次世代のフジテレビを担う看板アナウンサーになれる逸材であったが、わずか5年で自らその座を明け渡すことを選んだ。  1月に退社が公表された際、「向上委員会」で共演した鬼越トマホークから「お前がやめてもフジテレビには1ミリもダメージねぇからな!」と言われ、久慈が思わず号泣するという“事件”もあった。鬼越トマホークはケンカ芸が持ち味で、彼らのケンカを止めに入った人に鋭いことをズバッと言うというのがお約束。久慈アナもアシスタントを務めており、それぐらいはわかっていたはずだが……。この涙はいったい何を意味するのか。女子アナに詳しい放送作家はこう分析する。 「5年間という短い期間とはいえ、彼女にも人には言えない退社の理由がいろいろあったはずです。昨年4月にはフジの女子アナ8人が美容院代を無料にしてもらう代わりに自身のSNSに写真を掲載したというステマ疑惑が持ち上がり、久慈アナはそのメンバーでもありました。結局、ステマではないが就業規則には抵触すると認定され厳重注意を受けました。度重なる聞き取り調査もあったようで、息苦しさも感じたのでしょう。その年の11月から、勤続10年以上、満50歳以上を対象にした早期退職制度の募集が始まり、フジテレビ社内で退職ムードが蔓延していた時期とも重なります。さまざまな事情があって退職を決めたはずですが、あまりに芯を食いすぎたツッコミを入れられて、思い返すことがあったのでしょう」  2013年、青山学院大学に入学するため岩手県から上京した直後にスカウトされ芸能界入りした久慈。フジ入社前は、non-noの専属モデルとして活動していたことでも有名だ。 「2017年にフジテレビと日テレの内定を勝ち取り、フジテレビを選んだという逸材。実母も結婚前は岩手県でアナウンサーを務めていたので、まさにサラブレッドです。入社4カ月で看板アナの登竜門と言われている“パンシリーズ”の10代目に起用され、『クジパン』がスタート。9代目がフジの看板アナである永島優美の『ユミパン』であり、それから3年たってパンシリーズが復活したときに入社したわけですから、いかに彼女が“持ってる”かということです。以降、パンシリーズは制作されておらず、最後の看板アナ候補生が久慈だったわけです」(前出の放送作家) ■フリーアナとしては厳しい  たった5年でフジの女子アナという花形職業に見切りをつけ、第二の人生を歩み始めた久慈暁子。退社後は、大学時代に所属していた事務所への復帰が決まっている。今後はフリーアナウンサーとなるのか、女優へ転身するのかなどは明かされていない。とはいえ、「いずれにしても簡単ではない」と語るのは民放バラエティー番組のプロデューサーだ。 「5年で見切りをつけるのはいささか早かった気がします。民放3局の内定を取ってフジテレビに入社した加藤綾子さんですら8年間は在籍しました。久慈さんは優秀だったとは思いますが、フジテレビでの代表番組を築きあげられないまま退社しました。民放各局が制作費を大幅にカットしているなか、わざわざギャラの高そうな久慈さんをキャスティングするかは微妙です。しばらくは『アナウンサー特集』などの企画でバラエティーに呼ばれて結果を出せば、タレントしての未来も拓けると思いますが……。それよりもモデル時代のキャリアを生かして、CMや女優業へと進んだほうが可能性があると思います。ただし、田中みな実さんのように振り切ったキャラになることができれば……という条件つきではありますが」  SNSなどを見ても、「アナウンサーよりタレントのほうが向いている」という意見が多い。元局アナという看板にこだわる必要はないのかもしれない。TVウオッチャーの中村裕一氏は、久慈の今後をこう分析する。 「かつてはアナウンサーの転職というと、フリーアナくらいしか選択肢はありませんでした。しかし今のテレビ業界を見渡せば、フリーアナは完全に飽和状態。局アナ時代は華やかな扱いを受けて活躍していた人も、クイズ番組などで『その他大勢の一人』として埋没してしまっているのが現状です。しかしながら、先ごろ研究者に転身した元日本テレビの桝太一さんや、トヨタ自動車に転職した元テレビ朝日の富川悠太さんのように、『局アナ』という肩書に執着せず、まったく新しい生き方を目指す人もいます。同じく『向上委員会』出身で、明石家さんまさんをはじめとするさまざまな芸人から手荒くイジられたことを上手に生かして吉本興業に転職した久代萌美さんのように、しなやかさと戦略性があると強い。自分は他の誰とも異なる存在であるというセルフプロデュース力を武器にすることができれば、久慈さんにも勝機が見えてくるかもしれません」  果たして、元フジテレビの看板アナ候補が群雄割拠の芸能界でどこまで通用するか。久慈がひとつのロールモデルとなるかもしれない。(藤原三星)
アナウンサーフジテレビ久慈暁子
dot. 2022/05/06 11:30
10歳から新聞配達をして「ハーバード大」に合格したパックンが語る、日本の大学入試のいびつさ
10歳から新聞配達をして「ハーバード大」に合格したパックンが語る、日本の大学入試のいびつさ
パトリック・ハーランさん  一部の大学の男女比が偏っているのは筆記試験だけで審査しているからだ――お笑いコンビ「パックンマックン」のパトリック・ハーランさんはそう喝破する。非都市部の貧しい家庭で新聞配達の仕事と学業を両立させながらハーバード大に合格した過去をもつパックン。学生の「多様性」をめぐる視点から、日本の入試のいびつさを指摘した。 *  *  *  ――ハーバード大やスタンフォード大などの海外大の男女比率がほぼ5対5なのに対して、東大の男女比率は8対2という状況が続いています。昨年、女子学生が少ない東大の工学部に「女子枠」を設けるべきかどうかを論じた記事について、次のようにコメントしていますが、その意図を教えてください。 “【提案】より公平な大学生男女比に近づけるために、クオータ制も女子枠も必要ない。大学入学審査を「試験ベース」から「試験込み」に変えるだけでもだいぶ是正できるはず。「男性生徒は試験が得意だが、女性生徒は学校の成績がいい」。この現象は多くの国で確認されているが、日本も例外ではなさそう。高校の成績や部活、クラブ、ボランティアでの活動、さらに論文と面接を審査対象にいれれば、ジェンダーブラインドな審査でも女性生徒は対等に戦えるのだ”(朝日新聞デジタル「コメントプラス」2021年12月30日)  2018年のニューサウスウェールズ大(オーストラリア)の研究では、「女性は男性よりも6.3%成績が良い」と分析されています。さらに、STEM科目(科学、技術、工学、数学)において、クラスの上位10%は男性と女性が半々になるとも考えられています。つまり、学校の成績では、理系の科目であっても男女に差はないのです。  大学生が論文を書くためには、知識だけでなく、ディスカッションを通じて自分の意見を練ることが必要です。これは普段から真面目に学習を続ける態勢が整っている、学校の成績が良い学生こそそれができそうでしょう。筆記試験の点数を重視する日本の入試制度は、そこを見落としているのではないかなと思います。 東大は学部生のうち女性の占める割合が2割程度  アメリカの大学入試では筆記試験だけでなくエッセー(小論文)が課されます。書くだけではありません。卒業論文を提出した後は、先生からの内容に関する指摘に対してその場で応答する「ディフェンス」をしなくてはならない。これは社会でも必要とされる能力です。  ――22年の東大入試では、一般入試の合格者のうち女性は19.8%でした。しかし高校の成績が考慮される学校推薦型選抜の合格者も含めると20.8%で、2割を超えました。  日本も総合的な審査の入試を増やすべきです。エッセー、面接を課しているオックスフォード大、スタンフォード大、ハーバード大など海外のトップ大は女性比率が5割前後なのに対し、東大の女性比率は2割程度です。  就職の際には、企業はその人の生き方や背景、総合的なスキルを見て採用します。大学もそのような入試の仕方をすればいいのではないでしょうか。もちろん基準は大学によって違っていい。  東京大学憲章には「市民的エリート」という言葉が使われていますね。市民的エリートは、試験でいい点数が取れる人だけを指すわけではないはずです。ダイバーシティーを重視しても、優秀な人は集まりますよ。 ■同じような人が集まっても刺激が少ない  ――学生の多様性に配慮しているのもアメリカの大学の特徴といわれます。  ハーバード大は、頭のいい人が集まる都市部の学生ばかりではなく、多様な州の学生を意図的に入れています。さまざまな学生同士の議論による刺激が、ノーベル賞受賞者の講義よりもいい学びのきっかけになると考えているのです。同じような階層、人種の人が集まっても刺激が少ないと思いませんか?  しかし今、ハーバード大は逆境に置かれています。アジア系の学生が、試験で白人学生よりいいスコアを取ったのに合格できなかったと訴訟を起こし、裁判が続いています。アメリカ在住者のうちアジア系は5.7%。ハーバードの在学生のうちアジア系は13.7%と多いのですが、アジア系の入学者数を不当に制限していると訴えているのです。 ハーランさんの母校・ハーバード大  ――日本では昨年、一部の都立高校で、女子のほうが男子よりも合格最低点が高くなっていることが問題になりました。男女の定員を1対1に固定していることで不公平が起きていると指摘されました。  クオータ制は差別を受けている社会的弱者を助けるためにあるものです。割合を固定することで男子が助けられているのであれば、本来の目的に反することだと思います。女子のほうが高校で良い成績を取っているのに入れないということが、日本の大学でも起きているのではないかと思います。  ――ハーランさんが受験したとき、ハーバード大の入試ではどのような審査があったのですか?  高校の成績は良かったので特別な勉強はせず、授業で学んだことを生かしてテストに臨みました。願書のエッセーは作家サマセット・モームの『人間の絆』についてと、「初めて海に行ったときのこと」をテーマに書きました。 ■家計を支える新聞配達の仕事も評価された  スポーツのほかに、演劇部、模擬国連など10ぐらいの部活やクラブを掛け持ちしていました。板飛び込み部やスペイン語部では部長に選ばれリーダー役に就いていました。  ボランティアもやっていました。一番長くやっていたのはホームレスの人に炊き出しをするスープキッチン。今は乾物などを配るフードバンクが多いのかもしれませんが、当時はスパゲティなど温かいものを出していて、列の整理や配膳、片づけなどをやっていました。  いろいろな大学に落ちながら、ハーバード大に補欠で入りました。おそらく成績、部活、ボランティアなどの総合点で合格できたでしょう。コロラド州の、そんなに裕福ではないところの出身であることも考慮されていたと思います。恵まれた家庭ではあったんですよ。7歳の時に両親が離婚して母親しかいなかったとはいえ、愛されて生きてきた。でも家計は貧しく、食事は1食89セント(100円弱)。そのため10歳ごろから新聞配達の仕事をしていました。毎朝3時間配達をして、学校で勉強して、課外活動に取り組んでいました。この努力は高く評価されたと思います。  こうしたことは試験の点数では伝わらない。日本は高校時代の受賞歴を見ることはありますが、育った環境を見ることはないですね。  アメリカの学校の教室では、黒人よりも白人のほうが先生から指されやすいといわれています。白人のほうが勉強ができると思われているのです。「お金持ちの白人は3塁で生まれて、ホームに入っただけでホームランを打ったと感じている」と言われることもあります。白人の貧困層だと2塁、女性の貧困層だと1塁、有色人種の貧困層だとホームからのスタートです。同じホームにたどり着いたとしても走った距離が全く違います。多様な学生を入学させている大学は、長い距離を走ってきた学生を高く評価しているわけです。  ――日本の大学の男女比率はどうして変わらないのでしょう?  やる気の問題だと思います。東大は「20年までに学生の女性比率を30%に引き上げる」と言いました。でも達成できなかった。「そもそも東大は男性の大学というイメージがあるから女性が願書を出さない」とも言われます。そうだったとしても、東大の卒業生たちを各都道府県の高校に行かせて、女性を説得すればいいじゃないですか。「東大はあなたを求めているんです」と。  入試にも面接と小論文を導入すればいい。でも変えていない。韓国のソウル大の学生は4割以上が女性ですが、2000年代に日本でいう総合型選抜の枠を増やすまでは2割程度でした。香港大、シンガポール国立大も約5割が女性です。女性が大学に少ないのはアジアの問題ではないんですよ。やる気の問題だけだと思います。 (白石圭)
パックン大学入試
dot. 2022/05/02 11:30
親族の風評がやまぬ秋篠宮ご夫妻と続く「愛子天皇論」 迷走する令和皇室
永井貴子 永井貴子
親族の風評がやまぬ秋篠宮ご夫妻と続く「愛子天皇論」 迷走する令和皇室
4月21日、伊勢神宮外宮に参拝した秋篠宮ご夫妻  26日、秋篠宮ご夫妻が東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇陵と大正天皇陵を参拝した。三重県伊勢市の伊勢神宮、奈良県の神武天皇山陵への参拝と同様に、秋篠宮さまが皇位継承順位第1位の皇嗣になったことを示す「立皇嗣の礼」を終えたことを報告した。これで2020年11月に行われた立皇嗣の礼の関連行事を終えたことになる。だが、この重要な節目にもかかわらず秋篠宮ご夫妻の周辺が騒がしい。皇室を支持する保守層からも愛子さまと「天皇論」を結びつけ期待する声が漏れ、令和の皇室の迷走が続く。 *  *  *  4月21日早朝。  モーニングと白いロングドレス姿の秋篠宮さまと紀子さまが伊勢神宮の外宮へと進んだ。直前まで降り注いでいた雨はやみ、あたりは静寂に包まれた。  おふたりの奉仕を支えるのは、秋篠宮さまの妹で伊勢神宮の祭主を務める黒田清子さんだ。  ご夫妻は、天照大御神の食事を司る豊受大神を祭る外宮(げくう)を参拝したのち、皇祖神である天照大神を祀る「内宮(ないくう)」に拝礼した。  翌日は奈良県の神武天皇陵、そして午後は、ご夫妻の意向で京都の泉涌寺(せんにゅうじ)にある孝明天皇陵、京都伏見の明治天皇陵を参拝した。26日には東京・八王子の武蔵陵墓地にある昭和天皇陵と大正天皇陵などを参拝。  いずれも秋篠宮さまが皇位継承順位第1位の皇嗣になったことを示す「立皇嗣の礼」を終えたことを報告し、20年11月に行われた一連の行事のいわば最終章である。 「立皇嗣の礼」に関わる一連行事の重要性はいうまでもない。いまの天皇陛下から皇嗣である秋篠宮さま、そして長男の悠仁さまへと受け継がれる皇位の在り方を、明確にするものだ。  特に三重・奈良・京都訪問は、祭祀を大切にする秋篠宮家の姿勢がにじむものだった。秋篠宮さまの伊勢への参拝は今回で16回、紀子さまは9回目となった。 やまぬ周辺の雑音  ご夫妻の意向で参拝した孝明天皇稜は、泉涌寺内にある。  皇室の菩提寺(ぼだいじ)として知られる泉涌寺には、後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の天皇と皇后、妃の陵も造営されている。「御寺泉涌寺を護る会」の総裁を務める秋篠宮さまが、孝明天皇陵、明治天皇陵の参拝に臨んだのも自然な流れだ。   平成の時代から皇室の伝統と文化を熱心に継承し、公務や祭祀を立派に務めあげるご夫妻だが、周辺が何かと騒がしい。  静岡福祉大学名誉教授で皇室制度を研究する小田部雄次氏は、こう嘆く。 「立皇嗣の礼の行事の締めくくりのタイミングで、秋篠宮家が親族の雑音に巻き込まれる結果となったのは残念です」  ご夫妻のせいではないが、長女の眞子さんの夫の小室さんがNY州の司法試験に落ちて騒がれた。また紀子さまの親族の結婚相手が、神宮と神武、昭和以前4代天皇陵への参拝という神聖な儀式が続くなかで、邪推を招きかねないタイミングでのビジネス行為をマスコミに騒がれる結果になった。 「昭和の時代から皇室を見てきた身としては、一般の人の敬愛が薄れ、皇室離れにつながりかねない状況が続いている状況が心配です。秋篠宮ご夫妻は、親族の考えや行動について口をはさむことはなさらないが、大事な節目の時期は、周辺もしっかりとコントロールしていただきたかったとの思いはあります」(小田部氏) 「愛子天皇」人気と現実  皇室そして天皇という地位は、人気商売ではない。  皇位の継承は典範に定められ、人気のある皇族だから天皇に即位することもない。しかし、秋篠宮さまに継ぐ、皇位継承者である悠仁さま(15)と愛子さま(20)が何かにつけて比較される傾向にある。  悠仁さまの存在感が増すのは、皇族としての成年を迎える18歳からではあるが、先日20歳の成年を迎えた愛子さまの人気ぶりは、成人の記者会見の盛り上がりに象徴されている。サーフボードからご家族で落ちたお話や、「どこでも寝られる」といったエピソードを交えて、笑いもまじる明るい雰囲気で会見を終えた。  先の小田部氏は、こうも言う。 「僕は今の皇室のご子孫が皇位を継承するのがいいと思っています。女系も容認していますが、男系を否定するわけでもありません。ただし、皇室の先行きを考えると愛子さまにも皇位継承権を持たせた方が幅は広がるように思います」  巷でも愛子さま人気の時流に乗って、上皇ご夫妻と同じ世代の皇室ファンにも、そうした考えを持つ人は増えているようだ。  先日、上皇ご夫妻の引越しに伴う葉山ご滞在のため、高輪の仙洞仮御所にたくさんの人が見送りのために集まった。上皇ご夫妻と同世代と思われる人も多く、杖を突き、また家族に支えられながらご出発を待つ人も少なくない。  上皇さまと同じ年だという88歳の男性は、「皇室を維持するためには、愛子さまが天皇でも良いのでは」と話した。また別の男性も、「愛子さまの成年の会見の印象を挙げて、天皇という言葉を口にした」   元宮内庁職員の山下晋司は、こう肩を落とす。 「愛子内親王殿下の評価が高まっているのは喜ばしいことです。だからといってメディアなどが『愛子天皇論』といった見出しを掲げて、国民にその可能性があるように思わせるのは、よい状態ではありません」  悠仁さまが誕生する前に小泉内閣で、女性、女系天皇論が議論されたときは、愛子さまは幼稚園入学前あった。山下氏が続ける。  「その時期から将来の天皇として成長されているならばともかく、悠仁親王殿下がお生まれになったことで状況は変わりました。現在も、皇室典範で皇位は男系男子と定められています。その環境で20歳まで成長されてきた愛子内親王殿下が、天皇になることはないといっていいでしょう」  山下氏は、男系男子維持のためという視点ではない、と話す。皇室のメンバーは、生まれながらに住居や生き方が決まっており、選挙の投票権や国民健康保険の適用など一般の国民よりも制約も多い。  仮に、20歳を過ぎたこれから皇室典範が改正されて女性天皇の即位が可能になったとする。それは、結婚も含めて人生の選択肢が変わるという話だ。 「ここまで成長された後に制度を変えて天皇になっていただく――。それは、皇室の方々は人権が制約されているとはいっても、あまりに酷な話。決して起きてはならないことです」 残る愛子さまの成年行事  コロナ禍で皇室の行事も予定通り進まないなか、愛子さまの成年に伴う行事も遅れている。  宮中三殿への参拝と皇居・宮殿で正装のローブ・デコルテに勲章と髪飾りのティアラなどの宝冠を身につけ、首相ら三権の長から祝賀のあいさつを受ける祝賀行事などは、滞りなく終わった。一方で、新型コロナ感染防止に配慮して、大学の授業も全てオンラインで受講するなど大変なことも多い。  そうしたなか、誕生日の記者会見は3カ月遅れで行われた。  そして、成年を迎えた皇族は、伊勢神宮と神武天皇陵、大正天皇の多摩陵と昭和天皇の武蔵陵等へ成年の報告を行うため参拝をする。だが、コロナ禍で先行きが見えないこともあり、まだ行われてない。  愛子さまが成年行事に伴う神宮や天皇陵への参拝を終えていないことで、令和皇室の在り方を心配する声もある。  伊勢と神武天皇陵は、遠方だが武蔵陵は東京。しかも、悠仁さまは、お茶の水女子大学附属中学校を卒業した翌日には八王子市に向かい、武蔵陵墓地で曽祖父母である昭和天皇と香淳皇后の陵を参拝し、中学卒業の報告をしている。  愛子さまは2014年に学習院中等科入学に伴い初めて武蔵陵を参拝した。それ以来、参拝の機会は実現できていない。  また皇后となった雅子さまも祭祀については、体調を考慮して御所で祈りをささげる遥拝(ようはい)が主となっている。そうした状況もあり、愛子さまの伊勢神宮参拝がいつ行われるのかについて、関心も高まっている。  一方で、古代祭祀を専門とする日本史学者として知られる藤森馨・国士館大学教授は、「そう焦る話しでもない」と考える。というのも、そもそも皇室が伊勢神宮を直に訪れての参拝を始めたのは、明治以降の伝統であるというのだ。 「明治2年に明治天皇が伊勢神宮を参拝したのが最初で、実はそれまでの天皇は誰も参拝に行っていないのです。伊勢が特別な場所であったため、祟りが起きると天皇が参拝に行くことを止める公家もいた。そのため、天皇や皇族方は離れた場所で祈る遥拝を行っていました。御不例のときは、天皇は神祇官に付与して祭祀をおこなわせていたのです」(藤森教授) あと2年で悠仁さま成年に   愛子さまの成年に伴う参拝が遅れている点について、かつて掌典職をつとめた人物はこう話す。 「成年のご報告については、誕生日の祝賀行事が行われた昨年12月5日の朝には、宮中三殿を参拝なさっています。三殿とは、天照大神をまつる賢所(かしこどころ)、皇室の祖先をまつる皇霊殿(こうれいでん)、さらに国内の神々をまつる神殿です。そこで成年の報告をなさっていますので、コロナ禍でできることはなさっているとも見えます。ただし、八王子の武蔵陵墓地はそう距離がありません。海外へ出る際や卒業などの節目で、曾祖父母の陵のある武蔵陵墓地へのご報告をなさるのは、天皇家の内親王としてなされたほうがよろしいかもしれません」  愛子さまの伊勢神宮と天皇陵の参拝は、コロナ禍が落ち着いたのちに行われると見られる。 「26日に、秋篠宮同妃両殿下の昭和天皇陵ご参拝が終わりました。そして同じ日の夕方、上皇上皇后両陛下が葉山から赤坂御用地の仙洞御所にお入りになりました。これで御代替わりに伴う一連の行事等がひと段落したわけです」(前出山下氏)  コロナ禍で皇室も人の目に触れない形での活動が主流になり、それが2年以上続いている。  秋篠宮ご夫妻の伊勢神宮と天皇陵への参拝は、祭祀を守り続ける皇室のあるべき姿を久しぶりに発信する機会となった。 「眞子さんの結婚問題に端を発した秋篠宮家への批判は、いまだおさまったとは言えません。しかし、悠仁親王殿下が18歳の成年を迎えるまであと2年4カ月ほどです。将来の天皇である悠仁親王殿下が宮中行事や式典などにお出ましになって、存在感が増してくれば、令和の皇室をとりまく空気もまた変わってくるのではないでしょうか」(同) (AERAdot.編集部・永井貴子)
皇室秋篠宮
dot. 2022/04/27 08:00
尾崎豊没後30年、「僕が僕であるために」で“落ちた” 生前を知らない10、20代もなぜ熱狂するのか 
太田裕子 太田裕子
尾崎豊没後30年、「僕が僕であるために」で“落ちた” 生前を知らない10、20代もなぜ熱狂するのか 
ライブを再現した展示では実際に使用したギターや衣装が並ぶ  1992年4月25日、シンガー・ソングライターの尾崎豊が26歳でこの世を去り、30年がたった。没後30年の節目に「OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展」が東京、静岡(~4月25日まで)、福岡(4月29日~)で開催されている。そこには、生粋の尾崎ファンだけでなく生前の尾崎を知らない10代、20代の姿もあった。なぜ、時代を超えて尾崎は愛されるのか――ファンの声を聞いた。 *  *  *  会場では、実際に尾崎が愛用した楽器や創作ノート、学習机をはじめ、セットリストやプライベートの写真など貴重な資料が多数展示され、老若男女問わず多くのファンが生きていた時の「尾崎豊」を体感していた。なかには涙を流しながら会場をあとにするファンの姿もあった。  1982年、青山学院高等部2年生の時にオーディションに合格し、アーティストへの道に進んだ尾崎豊。リアルタイムのファンは尾崎と同年代も多いが、その同年代の子ども世代も親の影響からファンになっているようだ。栃木県から友達3人で訪れた27歳の男性もその一人だ。 「小学校4年生の時からファンです。きっかけはやっぱ、親っすね。お母さんが尾崎ファンでした。最初に聴いた曲は『僕が僕であるために』で、今の歌手にはいない、自分が思っていることを正直に伝えているなと思いました。衝撃というか、放心というか、言葉で言い表せないです。飾らないところが好きですね。売れるようなフレーズじゃなくて、自分が思っていることをストレートに歌ってくれているのが尾崎だな、って。話していたら恥ずかしくなってきたな(笑)。今、27歳で尾崎さんが亡くなった年齢を超えました。やっぱり、生で見たかったなぁ……っていうのはありますよね」(27歳・男性)  彼のように「親世代の影響」で尾崎の曲と出合った若者は少なくない。 「親父の友達から尾崎を教えてもらいました。最初に聴いた曲は『卒業』で、一番好きな曲は……一曲に絞れないんですが『十七歳の地図』と『I LOVEYOU』と『シェリー』ですね。親父も尾崎の曲は聴いていたみたいですけど、僕より聞いていないです(笑)。高校生の時に、僕も尾崎の歌詞みたいに反抗していて(笑)、僕の心の中にある言葉が尾崎の歌詞の中にあった。自分が尾崎のファンになってから、ガールフレンドにもすすめて聞かせています。“いいね”って言ってくれます」(20歳・男性)  今は過去のライブ映像もYouTubeで簡単に見られる時代のため、親世代からの影響でなく自然と魅了された若い世代もいた。 「高校2年生の時にYouTubeでいろいろな曲を聴いていて、たまたま“おすすめ”にあった尾崎のライブ映像を見ました。その時に聞いた『僕が僕であるために』で落ちました(笑)。ライブの映像が本当にかっこよくて、私も音楽をやっているので、音楽での伝え方とかを色々と考えることもあって、そういう時に、尾崎はむちゃくちゃストレートで、それでいて歌詞の言葉ひとつひとつがありきたりじゃない、唯一無二なところを感じて、そこからファンです。あとは、お父さんやお母さんからも尾崎の話を聞いていました。お父さんやお母さんの話を聞いていると、その時に熱狂していたのと違うから、もっと早く生まれていればよかったなぁって、本当に思いました。周りの友達にも尾崎を薦めるんですけど、“あぁ~『I LOVE YOU』は知ってるよ”と言われる程度。だから私は、カラオケに行くと尾崎を絶対に歌います!(笑)」(19歳・女性) 「中学1年生の時に『15の夜』を聞いて好きになりました。それからずっとファンです。どうやって尾崎を聞くようになったんだろう……たぶんYouTubeだったと思います。『15の夜』を初めて聞いた時は、自分にスッと入ってくる感じがしました。当時の自分が何かに反抗心があったとかではないんですが、歌詞が体の中に入っていった。そこから尾崎の曲を聴いていって、当時、映画『ホットロード』の主題歌が『OH MY LITTLE GIRL』で、そのあと『ILOVEYOU』聞いて……と有名な曲から聞いていきました。それぞれの歌詞がすごくて、天才だったんだろうなと思う。中学1年生の時に他に好きな曲や好きなアーティストがいたと思うんですけど、尾崎を聞いてから他に何が好きだったか覚えていない(笑)。人生が変わった。一番好きな曲は選べないけど、強いて言うなら『Forget-me-not』。歌詞がとにかく好きで、初めて聞いた時に涙が止まらなくなりました。生きているうちに会いたかった。お墓にはお参りに行きたいとは思っています」(20歳・女性) 1992年4月30日に東京・護国寺で行われた追悼式には全国から3万7000人のファンが訪れたと報じられた  没後30年たった今も、「10代の代弁者」といわれた尾崎の言葉は若者を魅了し続けているようだ。それは30年以上前に「若者」だった親世代も同じだ。 「当時は、静かな曲が好きで、尾崎はちょっと違うなと思ってスルーしていた。それがある時、“自分が思っていることと同じことを歌うんだ!”と思って、急にファンになりました。高校1年生の時でしたね。新潟県民会館でのライブにも行きました。一度、ライブ中に尾崎が倒れて、そのまま横になりながら歌ったことがありました。起き上がることができず運ばれて、このまま終わりか……と思っていたら、アンコールでステージに出てきたことがありました。そのライブを見た時に、何かギリギリのところまでやっていたんだなというのを感じました。命日には護国寺にはお墓参りに行きたいですね」(53歳・女性) 「ファンになったきっかけは、高校生の頃だったんですけれども、たまたま、『ILOVEYOU』がJR東海のCMの曲になっていたんですよ。そのCMを見て、曲がよくてハマっちゃったという感じです。ライブは行きたかったんですけど、当時は高校生で行かれなかった。卒業したらライブに行くぞと決めていてところ、亡くなってしまったんですよね。尾崎が亡くなったという知らせは、遊びに行っていた友達の家で聞きました。友達が“尾崎、亡くなったんだって!”と言うので、プロゴルファーのジャンボ尾崎さんだと思った(笑)。だから、“あぁ~そうなんだ”って流したら、“違うって、尾崎豊!!”と。ツアーもアルバムも決まっていて“え!?なんで?”って、ショックでした。翌朝のワイドショーで尾崎のことをやるので、全部、録画して見まくりました」(49歳・女性) 「高校生の時に『ドーナツ・ショップ』をFMのラジオで聞いてファンになりました。当時通っていた高校が校則がものすごい厳しい女子高だったんです。だから、尾崎の歌にものすごい救われた(笑)。ライブは1度だけ行きましたが、尾崎が活動休止中でフィルムコンサートでした。尾崎はその場にいないのに、映像が流れたら“ギャァー!”という歓声が上がって、やっぱり尾崎ってすごい存在なんだなって改めて思いました。尾崎が亡くなったときは、教員として働いていて、告別式の日は、教室の掃除をしながら涙を流しました。学生だったら告別式にとんで行かれるけど、社会人だから行かれないと……。尾崎の歌は普遍的ですよね。今も通じる言葉がそこにはある。それこそロシアのウクライナ侵攻を見ながら『COOKIE』という曲を聴くと、クッキーを焼いてくれという言葉だけれども、読み解くと感慨深いものがある。あふれる才能ですよね」(52歳・女性)  リアルタイムのファンは30年以上前のことを鮮明に目を輝かせて話してくれるのが印象的だった。同世代には鮮烈に、そして今の若者を魅了するのは「普遍的だから」と話してくれたのは音楽評論家の森朋之さん。 「今の若者にも人気があるのは、ひと言でいえば普遍的だから。尾崎がデビューした時は80年代で、その背景には管理教育があって、親に対して思うこと、教師に対して思うこと、社会に対して思うことがベースにあった。その構図みたいなものは今も何ら変わらない。今も理不尽な校則とかありますし、むしろ、今の方が、その管理教育が厳しい側面もあるのかもしれない。だから、そういうことに敏感な若者には尾崎の曲が刺さるのではないかと思います。特に学校現場が変わっていないんでしょうね。さらに今の若者はSNSが普及して友達同士の同調圧力みたいなものもあるのかもしれないですね」  また、若い世代のファンが好きな曲にあげる『僕が僕であるために』にもうなずけるところがあると言う。 「昔も今も自分のアイデンティティーはどこだろうみたいなことを思っている人が多いから、若い世代に『僕が僕であるために』が人気なのは、“そこだよな”と思うところがあります。尾崎の歌詞は反抗的と捉えられますが、実は内省的な歌なんですよね。『卒業』の歌詞も校舎の窓ガラスを割るとかの言葉が出てきますが、最終的ゴールは、自分を何度卒業できるかですからね。10代であれだけの楽曲を書いていて天才ですよね」(森さん)  実は、森さんは中学生時代に尾崎豊のライブに行ったことがあるという。 「私が中学生の時に『卒業』が発売されTROPIC OF GRADUATION(回帰線)ツアーがあり、岡山市民会館でのライブを見に行きました。ライブはお客さんの熱狂がすごかったですね。女の子なんかずっと泣いている。今のライブで、あそこまでの感じのものは見たことがないです。今の若い世代がファンになるのも、今のアーティストに尾崎豊に代わるものがないからなのではとも思います」(森さん)  まさに唯一無二という言葉しか浮かばない尾崎豊。30年たった今もなお人々をその楽曲で魅了し続けている。(AERAdot.編集部/太田裕子)
尾崎豊没後30年
dot. 2022/04/25 10:00
悠仁さま、女性記者に気さくに対応 「ジェンダー平等」を先取りした天皇陛下の言葉とは
矢部万紀子 矢部万紀子
悠仁さま、女性記者に気さくに対応 「ジェンダー平等」を先取りした天皇陛下の言葉とは
お茶大付属中の入学式に臨む悠仁さまとご両親/お茶の水女子大学付属中学校の入学式に臨む秋篠宮ご夫妻と悠仁さま/2019年4月8日  秋篠宮家の長男・悠仁さまが学習院以外高校に入学した。皇族として戦後初となる学習院以外の共学高校への進学は未来の結婚相手の理想像に影響するのか。AERA2022年4月25日号から。 *  *  *  かつて「男女共学」を話題にした方がいる。天皇陛下だ。  1980年2月、20歳の誕生日を迎えるにあたっての記者会見で、浩宮さま(現在の天皇陛下)は、こう述べている。 <ぼくの場合、幼稚園とそれから初等科は男女共学だったんですけれども、それからあと中学、高校はまったく男だけの中で育って、(略)大学に入って、また共学になって一種の新鮮さっていうものをちょっと感じている段階なんですけれども>  なぜ、こういう話になったのかというと、「宮様の理想とする女性というのは、どんなタイプなのか」と記者が聞いたのだ。先ほどの答えに続けて、女子学生とのつきあいに最近は少しずつ慣れてきたと述べた浩宮さま。最後にこう述べた。<ですから、まあ、理想像っていうのは徐々に徐々にできてくるんじゃないかなと思います>  以後、浩宮さまは会見のたびに「理想の女性像」を尋ねられる。82年、大学卒業に際しての会見では、こう答えた。 <明るくて、健康的で、スポーツが好きな人がいいです。付け加えれば、料理が上手な人がいいですね>  初々しいと形容したいような女性像。だが、ある時から変わっていく。きっかけは83年、英国・オックスフォード大への留学だった。1学期を終えた際にはロンドンで会見を開いた。そこでオックスフォードの女子学生について聞かれ、こう述べた。 <自分の意見をはっきりいいます。それに、服装が日本に比べて非常に地味だと思います>  84年には一時帰国、その時の会見でも、英国やヨーロッパの女性が「非常に自分の意見をはっきりいう」と述べる。85年2月、25歳を前にしての会見では、日本とイギリスの女子学生を比較して、<こちらの女性は自己主張がはっきりしています。(略)話をしていて面白いのは英国の女性ですね>。  同年10月、帰国を前にした会見では、「結婚相手の理想像」をこう述べる。 初の外国訪問でブータンの学校を訪問/初の外国訪問で秋篠宮ご夫妻とブータンへ。ティンプーの学校を訪問。ボール渡し競技に参加した/19年8月20日 <スポーツは何かできた方がよいと思います。また、ある程度つつましく、一方、聞かれた際には自分の考えをいえる人がよいと思います。語学もできた方がよいと思います>  帰国途中、米国では「お妃の理想像」を問われ、こう述べた。 <プリンセスとしては、控えめであることは必要だと思いますが、自分自身の意見をしっかり持っていることが貴重だと思います。また外国語はできた方がいいと思います> ■“気さく”がデフォルト  これは完全に雅子さまへの道だ。言い換えるなら、女性の自己主張を評価するようになったことで、雅子さまへの道が開けた。ジェンダー平等の先取りが、令和へとつながった。  浩宮さまが繰り返し理想の女性について聞かれたのは、「将来天皇になる人の結婚は、国民的関心事」だということが前提だ。悠仁さまも20歳を過ぎれば、「理想の女性」を何度も聞かれることになるのだろうか。皇室を取り巻く環境は大きく変わっている。皇室に嫁ぐ女性のことを思うと、悠仁さまの苦難の道を思ってしまう。 中学卒業式に臨む悠仁さまと秋篠宮ご夫妻/お茶の水女子大付属中学校の卒業式に臨む秋篠宮ご夫妻と悠仁さま/22年3月17日  とはいえ、悠仁さまは高校生になったばかり。入学式当日は1人で記者団の前に立ち、「学業に励みながら、興味を持っていることや関心を持っていることを、さらに深めていきたいと思います」など、明日からの抱負を述べた。  その後に女性記者が聞いたのが、「新しい制服はいかがですか?」。ところが、筑付には制服がない。悠仁さまの答えは「スーツ、スーツなんですけど」。  これを受け、「悠仁さま高校生活スタート “ハプニング”にも気さくに」と報じたのは、FNNプライムオンライン。そう悠仁さまは、女性への対応も“気さく”がデフォ。共学育ちのなせる技。  ぜひこのまま、気さくな高校生活を。密かに応援している。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2022年4月25日号より抜粋
悠仁さま皇室
AERA 2022/04/20 11:00
決断の理由を胸を張って言えるリーダーに 大阪府四條畷市長・東修平
決断の理由を胸を張って言えるリーダーに 大阪府四條畷市長・東修平
職員に顔色をうかがわれたくないからと、同じ表情を心がける。感情的にならないよう気持ちを「整えている」という(写真=楠本 涼)  大阪府四條畷市長、東修平。2017年、東修平は28歳で大阪府の四條畷市長となる。全国最年少、無名の新人が現職の市長を破っての当選だった。大学で原子力の研究をしていたが、東日本大震災の際に、行政に的確な指示を出す人間がいることの重要性を感じ、官僚になった。地方から日本を良くしていきたい。その思いから、反発も覚悟の上で公平を徹底し、「市民のため」を貫く。 *  *  *  新型コロナウイルスで私たちが思い知ったのは、自治体間の“差”ではなかったか。それはつまり首長のリーダーシップの差でもあった。メディアではキャッチフレーズを連発し、国に噛み付く首長が注目されるが、その一方で先の見えない中でも国の法制度の中で柔軟に考え、選択肢を用意し、独自の対策を実行に移していた首長は何人もいた。  大阪府四條畷(しじょうなわて)市長の東修平(あずましゅうへい)(33)もその一人だ。四條畷市では昨年8月から市民は500円でいつでもPCR検査を受けられる体制を整え、1回目の緊急事態宣言時には児童扶養手当対象世帯に市独自で5万円を給付するなど対策を次々と打った。  昨年の衆院選後に浮上した18歳以下の子ども1人に10万円を給付する案は当初、給付の時期や一括か分割か、クーポンか現金かと政府内でも迷走した。四條畷市ではあらゆるパターンを想定し準備を進め、11月下旬に始まった議会では「現金一括」が可能になっても対応できる「幅のある」予算案を通していた。結果、全国約1700自治体の中で最速で給付を完了した。  あらゆるケースを想定すると事務作業は膨大になるが、東は担当職員から、早く現金で欲しいという住民の切実な声を聞いていた。一方で様々なルートを駆使して、政府方針と違う形になっても、国庫支出金が支払われないなどのペナルティーはないだろうと読んだ。 「多少リスクがあっても、首長判断でいけると。担当課は最後まで諦めずに準備してくれました」  東は2017年1月、28歳で全国最年少の市長となった。政治家になるのに必要と言われる地盤、看板(知名度)、カバン(お金)のどれもなし。相手は長年地元で市議も務めてきた、大阪維新の会が支援する現職市長だった。かたや東は四條畷出身とはいえ地元では無名。手伝った選挙プランナーの松田馨も当初「100回やって1回勝てるか」と予想し、「まずは市議から」と勧めた。 「しかし東さんは政治家としてステップアップするつもりはなく、行政のトップとして地元の課題を解決したい意思が固かった」(松田) 1月の成人式で東は、「私も27歳の時に市長選に出ることを多くの人から反対された。自分がやりたいことを思い切り、誰に何と言われようともやってほしい」と挨拶した(写真=楠本涼) ■「2回目の人生生きとる?」 信頼得るために感情整える  出馬に当たり東は、過去10年分の市議会議事録などあらゆる資料に目を通し、市政の人間関係から四條畷が抱える課題までを徹底的に分析した。当時の四條畷は5年で子どもが15%も減るという子育て世代には魅力のない町になっていた。  松田が驚いたのはもうひとつ、選挙の戦い方だった。ミニ集会を開くことはアドバイスしたが、東はどの集会でも時間制限なしで質問を受けた。全ての質問にわかりやすく応じる様子に、最初踏ん反り返って座っていた年配の男性たちも前のめりになっていった。 「ここまで準備している候補者は、私が手伝った250の選挙でも初めて。集会で話せたのは1千人足らずでも、直接話した人はこういう人が市長になるべきだと感じ、口コミで支持が広がったのだと思います」(松田)  時間があれば本を開くという東の書棚の半分は、チャーチルや大隈重信など歴史上の名だたる指導者に関するものや政治思想、中国の古典が占める。残りは行政のトップとして、マネジメントや組織作りに腐心してきたことが窺えるビジネス書だ。  一段だけ毛色の違う棚には作家、辻村深月の著書が並んでいた。東は書店でのサイン会に並ぶほど辻村作品のファンだ。「出てくる子どもが俯瞰(ふかん)した視点で世の中を見ているところが自分とどこか似ているから」という。  母、和子(68)から見た東は、一度も声を荒らげたりすることのない子だった。幼稚園の時には泣きながら帰ってきて、「先生に『子どもは風の子』と言われたけど、僕、お母さんの子だよね?」と聞く様子に、「こんなに純粋で大丈夫か」と母は心配した。小学校で始めた野球は、「(コーチなどの)乱暴な言葉に耐えられない」とやめた。  それがいつからか周囲に、「東くんは2回目の人生を生きとる?」とからかわれるようになった。いじめがあっても双方に静かに声をかけ、その場を収めるなど大人びたところがあったからだ。その様子を教師から聞いた和子は「その冷静さはどこから来るん?」と思ったが、東は小学4年生でクラス委員になってから常に「みんながどうしたら楽しく過ごせるのか」を考えていたという。 「最初はせっかく同じクラスになったんだから、みんなが楽しい方がいいやんぐらいの気持ちでした。中学校でもリーダーをやるうちに、自分が感情的になると誰も付いてきてくれないことが何度かあって落ち込んで。感情をどうコントロールすればいいのか考えるようになりました」(東)  そのスタイルは今も変わっていない。市役所で職員たちが顔色を窺い、考えを先回りすることを東は嫌う。だから同じ表情を心がけている。東が唯一、組織のマネジメントで迷った時に相談するという、ユニリーバ・ジャパン・ホールディングス人事総務本部長の島田由香は、東に目指すリーダーの資質を聞いたことがある。 「絶対的に信頼されるためには異常値がない、ブレないことだと話していました。そのために一つひとつのことに嬉しいとか嫌だとか感じないように感情を整えるようにしていると」  東は中学時代に読んだ雑誌「Newton」で核融合炉を知り、未来のエネルギー問題の解決に繋がると希望を抱いて京都大学では物理学を専攻、大学院では原子力の研究をするつもりだった。  だが、大学院進学直前の11年3月、東日本大震災が起きた。研究室の仲間とテレビにかじりついた。非常用電源を喪失したら何が起きるのか、次の展開は誰もが理解していた。的確な指示が出せない政府。行政にもっと適性のある人材がいたら……研究室の本棚にあった国家公務員受験用の参考書を手に取った。1次試験まで2カ月を切っていたが、合格した。 市役所の市長室のデスクには書類一枚ない。職員の説明資料などはその場で頭に入れるので、常にデスクも部屋も整理整頓されている。記憶力、理解力は誰もが一目置く(写真=楠本 涼) ■外務省で見えた組織の疲弊 地方から日本を良くしたい  大学院時代、東は1千社以上の働き方改革のコンサルティングを手がけたワーク・ライフバランスでインターンを経験している。社長の小室淑恵が日課とする毎朝5時台のウォーキングにある日突然現れ、なぜ働き方改革が必要なのかについて小室を質問攻めにした。官僚として社会貢献をしたい気持ちは固まっていたが、社会のために働くとは具体的にどういうことなのか、社会起業家から学ぼうと考えていた。小室も東が官僚になるからこそ、「実態としての幸福とはどういうことか知っておいて欲しい」と思い、毎日息を切らせながら数カ月間質問に答え続けた。  インターンの契約期間終了前に辞めるという東に、最後の日、小室はこう伝えたという。 「途中で辞めることは社会に出たら許されないけど、私はあなたが大きな目的のために生き急いでいる感じにはシンパシーを抱いている。私も似たような部分があるから」  東自身にはこの「生き急いでいる感」の自覚はないというが、外務省に入ってしばらくして帰省した際、和子に「自分がやりたい仕事は50代にならないとできないんだよね」と漏らしている。配属された経済連携課は、経済問題が絡む全外交案件に関わってくる部署で、当時はTPP(環太平洋パートナーシップ)協定の交渉最中だったこともあり、「とんでもない量の資料作り」を担当していた。最先端の交渉状況を知ることができる仕事にはやりがいを感じていた。  一方で、同期の半分が1年で何らかの心身の不調を訴えるという過酷な業務量に加えて、「何のための」と疑問を感じるような雑務も多かった。人事部署に異動した際には組織自体の疲弊も感じた。そんな時、今でも東があんなリーダーになりたいと敬愛していた上司が突然死した。49歳だった。 「国家的な視点で国に貢献したいと思って外務省に入っても、年次が上がるほど目の輝きがどんどん現実的になっていくのが見えてしまって。それでも僕は理想を掲げていたかった。当時安倍政権に代わり、地方創生というテーマが出てきて、地方から日本を良くしていくことに貢献したいと思うようになったんです」 趣味は運動と読書。朝起きて30分自転車を漕ぎながら本を読む。毎年年末に読み返したい本を10冊だけ残して処分するほどの読書家(写真=楠本涼) ■前のめりな改革に反発も 「市民が」を主語に考える  当選前から市の課題を分析し尽くしていた東は、改革を前のめりで進めた。1月20日に初登庁して25日に人事案を発表、2月1日に新人事を決行。ほぼ60代が占めていたという部長クラスを総とっかえした。新人事の象徴とされた37歳の女性の人事課長への抜擢には市役所内に衝撃が走った。 「20年後も現役世代である人間が人事制度や採用を考えるべきだと思いました。部長たちがほぼ同級生というような環境では、悪気はなくても慣性の力でこれまでのやり方でいいよねと進んでいく。そうした状況を変えるには即断即行しかなかった」  東の初当選時の公約の一つである副市長の公募で採用された林有理が10月に就任した時、市役所内には東に対して「恐れ」のような空気が蔓延(まんえん)していたという。次々と改革を打ち出す市長に「すごい」と一目は置くものの、思考スピードについていけない。部長たちの会議で東がしびれを切らして出ていっても、職員たちは沈黙したまま待った。リクルートで住宅情報誌編集長も務めた林は唯一、東に対して苦言も含めて本音の議論ができたが、その林でさえ、朝登庁していきなり振られた新たなアイデアに戸惑うことも多かった。 「市長から課題はあるけど2年ぐらいでできるよねと言われる案件には、『いや、今の状況では4年はかかります』というものも少なくなかった。だから最初はなぜこれほど急ぐのか、正直腹が立つこともあった。職員の士気もシステムも整ってないのに、と」  それでも林が一緒に働いた4年をかけがえのない体験だったと言うのは、東が徹底して市民に向き合っていた姿を見てきたからだという。 スーツは紺、シャツも決まったメーカーと決めている。市政以外のことに時間も思考も取られるのは嫌なので、服装も昼食のメニューもいつも同じ(写真=楠本涼)  前出の小室が経営するワーク・ライフバランスは、市役所の働き方改革のコンサルに入っている。当時は会議の仕方や意思決定の仕組みも含めて改革を進める東のスピード感とパワーに対して、職員のアレルギーが強く、「過去にないほど大変な案件だった」(小室)。 「それでも1期目で子育て世代の転入が増えるなど、変化が数字として表れるまでになるには、働き方から職員の心まで変化しないと無理なんです。四條畷の事例はその後多くの自治体から注目されています」  東の公式サイトにはこれまで取り組んだことと、市に起きた変化が掲載されている。力を入れたのは子育て世代に選ばれること、悪化していた市の財政状況を改善させること。人口減時代に持続可能な行政運営をしていくために限りある財源をどう配分し直すのか。どの自治体にも共通する課題だ。  東が書棚から折に触れ開くのは、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』だ。この中でヴェーバーは、政治の本質は権力であり、「政治とは権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力だ」と定義づけている。  財政再建の一環として東は、市民団体への補助金や利用率が低迷する施設を見直し、関係者からは大きな反発を受けた。人事課長に抜擢された安田美有希はその後、生涯学習推進課長としてこの問題の矢面に立った。精神的につらく、一時は退職まで考えたという。だが、東はこう言い切る。 「使われていない施設の維持にお金がかかり財政が硬直化した結果、福祉や子育てサービスや施設にお金が回らない。私が常に考えているのは、5万6千人の市民が50年後100年後に必要なものは何かということ。私たちが語るべき言葉は、市長や市役所がどうしたいかでなく、市民の皆さんにどうなっていただきたいかなんだと思います」 ■完全無所属だから制約なし 徹底した公平を貫く  東は1回目の選挙から政党、団体からの推薦・支援は一切受けていない。1期目の実績を評価した政党や団体から、2期目の出馬の際、推薦の申し出もあったが断っている。完全無所属だからこそ議会とは常に緊張関係にある一方で、一切のしがらみや制約もなく、「二元代表制を完結できている」(東)という。  ヴェーバーが説く「政治とは配分」に基づけば、東はそこに一切の妥協を許さず公平性を徹底している。それは権力の本質を自覚しているからだ。特定の議員や住民、市役所職員と食事や飲み会に行くこともない。孤高を貫くのはつらくないのか。そう聞くと、こんな話をしてくれた。  東の両親はお互い再婚でそれぞれ連れ子がいた。それが東の2人の姉なのだが、誕生日が近接しているにもかかわらず、東は社会人になる頃までそのことに疑問を抱いたことすらなかった。それほど両親は3人に対して分け隔てなく愛情深く育ててくれたと。 「僕は一度も自分の存在や言動を家族から否定されたことがない。家は裕福とは言えなかったけど、両親が僕にしてくれたことは、今の世の中では当たり前ではないことも市長をしていたらわかる。全力で肯定してもらえたから、孤独をつらいと感じないのかもしれません」  一方で東が目指すのは「市民を分断しない」政治だ。選挙でも対抗馬の批判を絶対にしないと決め、支持者にもそう頼んだ。コロナ前までは市民との対話を重視し、2年半で80回以上、約2千人の市民と直接話してきた。  東が1期目で一番大変だったという仕事が、学校の統廃合問題だった。先々代市長時代からの懸案事項で、4校を1校にする案に地元からの反対の声は大きかった。結果、2校廃校となったが、その過程で東は連日住民との対話集会を開いた。長い時は4時間、時には怒号も飛んだ。子どもたちとも話した。完全に納得できなくても理解はできる。そこまで説明を尽くすと決めていた。  廃校になる中学校の最後の卒業式で東は祝辞を述べた。用意していた祝辞を開いた時に、「自分を正当化している」と感じ、何度も言葉に詰まりながら準備していたものとは別の言葉を贈った。 「リーダーの仕事とは決断することですが、なぜこの判断をしたのか、胸を張って言えることが大事だと思っています」  2度の選挙を手伝い、今は友人でもあるという選挙プランナーの松田はこう話す。 「彼の描く市長像はヒーローでもないし、ビジョンも語らない。四條畷をどうするのかは市民や市役所職員から上がってくるのを待っている。彼の中にあっても絶対に言わないし、悟られることすらしない」  それは将来、誰が市長になっても市役所が機能的に自律的に動いていくことが理想だと東が思っているからだ。  理想とするリーダーは、古代ローマの指導者だったユリウス・カエサルで、本棚には何冊も関連書があった。太陽暦の導入や議会の議事録を残すなどその時には必要性が理解されなくとも、一人だけ別次元の視座で将来のために必要な仕組みを作り上げていった点に惹かれるという。  日本でも世界でもリーダーの言動や決断に翻弄されるのは、いつも普通の市民だ。東はそのことを誰よりも理解しつつ、時には嫌われることも厭(いと)わない。それは彼がリーダーとは何かを考え続けてきた結果でもある。(文中敬称略) ■あずま・しゅうへい 1988年 大阪府四條畷市に生まれる。小学校時代は合唱部の活動以外はテレビゲームに熱中。中学に入ると自分で決意してテレビにテープで×印をつけゲームを封印する。 2004年 大阪府立四條畷高校入学。3年間、文化祭の実行委員会に没頭する。私服OKにもかかわらず、高校時代は学ラン、昼食は学食のカレーで通す。 07年 京都大学工学部物理工学科入学。中学時代に雑誌「Newton」で知った未来のエネルギーへの希望を抱き、核融合炉を研究したいと原子核工学を学ぶ。 11年 東日本大震災による福島第一原発事故を目の当たりにし、進路を変更。研究室にあった先輩の参考書を見て、官僚を目指す。2カ月弱の準備で合格。 14年 国家的視点を持って仕事をしたいと外務省に。TPPなど経済政策を担当する経済連携課に配属される。尊敬する先輩の死をきっかけに、第2次安倍政権が打ち出していた地方創生に触発され、地方から日本の課題を解決したいと市長を志す。 15年 マネジメントや経営を学ぶため野村総合研究所に転職。設立されたばかりのインド法人で勤務する。インド渡航直後に父の末期がんがわかる。 16年 インドから東京に出張するたびに四條畷に戻り、地元の課題を知る。父の死を機に、四條畷市長選出馬を決意。選挙資金には父親の退職金を充てた。 17年 現職市長との一騎打ちを制して、28歳で全国最年少市長に当選。公約に掲げていた副市長を全国から公募。 20年 財政健全化、子育て世代の転入増加などの実績を訴え、2期目当選。 (文・浜田敬子) 1966年生まれ。朝日新聞、AERA編集部、ビジネスインサイダージャパンなどを経て、現在はジャーナリスト。著書に『働く女子と罪悪感』(集英社文庫)。※AERA 2022年4月11日号
現代の肖像
AERA 2022/04/09 18:00
悠仁さまの「筑付」入学「秋篠宮さまとの会話から確信していた」 OGの片山さつき氏が語る
悠仁さまの「筑付」入学「秋篠宮さまとの会話から確信していた」 OGの片山さつき氏が語る
お茶の水女子大学付属中学校の卒業式での秋篠宮ご夫妻と悠仁さま  秋篠宮家の長男悠仁さまが4月9日、筑波大付属高等学校(東京都文京区)の入学式に。同校の卒業生である片山さつき参議院議員(当時は東京教育大学付属高校)は、かなり早い段階から悠仁さまの進学先を確信していたという。 *  *  * 「私が2018年に第4次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣及び女性活躍担当大臣に就任した時は皇室行事の多くて、19年5月1日には新天皇即位に伴う剣璽(けんじ)等承継の儀が行われました。そうした行事に参加する際に、秋篠宮殿下の時も、(新天皇即位伴い)皇嗣殿下になった後も、お話させていただく機会がありますと、『片山大臣は筑付の出身で……』から話が始まるんです」  片山議員がこう話す。秋篠宮さまとの会話の中には「筑付」がキーワードとしてちりばめられていたという。 「秋篠宮殿下からは『付属はいつからですか?』『私は中学からです』とか、私が『テニス部でした』と話すと、『そうですね、テニスでしたね、片山大臣は!』などという話になりましたね。秋篠宮殿下はテニスがお上手なので、『筑付はテニスも強いんですよ、男子は』という、何げない会話のやりとりもしました。ですから、私は悠仁さまの進学先がこうなるだろうな、とは思っていました。色々な進学先の候補もあったとは思いますが、私の顔を見るなり『筑付は』というのが何度かありましたから」  片山議員の話を聞く限りでは、秋篠宮さまは筑付にかなり興味があったようだが。 「興味を持たれていたというよりも、緻密(ちみつ)なリサーチをされていたのでは? 悠仁さまの大事な大事な進学先ですからね。私が思いますに、悠仁さまが卒業されたお茶の水女子大学付属中学校の進学先ですが、男子は付属高校がないので、筑付に来られた方を何人か知っています。地理的にもお茶の水女子大学付属とは近いものですから、部活の試合でも交流がありました。筑付は男子は強い競技もありましたが、女子は当時生徒数も少なかったし、国立で強くないので対戦相手としては、ちょうどよかったんです。私はテニス部で学習院とも試合をしたんですが、あちらはテニスが上手なんですよ。学習院の方は3歳くらいからテニスをしているけど、私たちはせいぜい小学校高学年か中学生からでしょ?」 内閣府特命担当大臣及び女性活躍担当大臣に就任したころの片山さつき議員。秋篠宮さまとの会話で「筑付」の話題が上がったという  秋篠宮さまの会話からだけでなく、地理的な要素、交流などから悠仁さまが進学されたのも改めて自然な流れであったのでは、と片山議員は話す。 「お茶の水女子大付属や学習院とも“姉妹校”感のある学校は筑付なので、悠仁さまが進学先として選ばれたのは、とても自然な流れだと思います。ですから、私たちOB、OGはとても喜んでいますよ。しかも、うちの年代がみんな喜んでいるのは、天皇陛下とご学友の年代で、学習院とは中学・高校の6年間、定期対抗戦が年2回あって、試合でずっとお会いしているので、皇族に対してものすごくシンパシーがあるんです」  高校時代の成績はトップだったという片山議員。 「男子生徒と女子生徒の割合が2:1で、当時の教師も生徒たちも、その比率はおかしいよねと話していましたね。その比率、意味ないよねと。今は、男女比は1:1なので、女性が圧倒的に強いそうです。私は女子で成績トップをとった初めての生徒だったんですが、今は成績上位から数えていくと、ほとんどが女子だそうです。男女共学校はほとんどそういう傾向にありますけどね……」  片山議員の周囲も成績優秀な女子が多かったそうだ。 「クラスで女子は14人だったんですが、そのうち4~5人が医師になりました。筑波大学の推薦の中でも、医学部の推薦に5~6人いました。みんな成績が良かったですね。当時、女性は医師じゃなければ、就職先を見つけるのがなかなか厳しい時代でしたし」  時代は違うとはいえ、優秀な生徒が集まる点において変わりはない。悠仁さまも、そんな級友たちに囲まれて高校生活を過ごすのだろうか。  片山議員の高校時代の思い出を聞いた。 「修学旅行委員の副委員長をやったんですが、修学旅行は小グループで、個人で動いて、レポートを書けという感じでした。みんなが、『道』を外れずに無事に帰ってくるだけで大変で。隠れてたばこを吸う人がいたり、マージャンしに行ったり……(笑)。大変ではあるんですが、みんないい意味で“大人”でした」  いい意味?で“大人”であるためか、当時の生徒の気質を片山議員は“のんびり”していたと言う。 「干渉されず、押さえ込まれることはないので、みんなおのおのでやっている感じが強い。だから、のんびりしている雰囲気なんですかね。6月に体育祭があって、そこまでは行事に打ち込むので、浪人して大学に行く人も多かったです。私も体育祭まではテニスを一生懸命練習していました。3年生の6月まで行事に打ち込んで、それが終わってから受験勉強に切り替えるというのは、普通の進学校ならあまりやらないですよ。筑付は、受験のために行事をなくしてしまうのは“ダサい”という雰囲気がありました」  筑付での高校生活をたっぷり満喫した片山議員。「後輩たちに一言、声をかけるとしたら」と聞くと、 「昔は放っておいても東京大学などの有名大学に進学する子も多くいたけれども、やや中途半端になってしまっている気もするので、例えばプログラミングの授業で突き抜けてもらうとか、皆さんにはぜひ頑張って欲しいです!」。  悠仁さまも「筑付」で様々な体験をして、高校生活を謳歌(おうか)してもらいたい。(AERAdot.編集部/太田裕子)
悠仁さま片山さつき参議院議員皇室秋篠宮さま筑付筑波大付属高等学校
dot. 2022/04/09 11:30
俳優・升毅、アイドルになりたかった 中学時代の「モテ期」で勘違い!?
俳優・升毅、アイドルになりたかった 中学時代の「モテ期」で勘違い!?
升毅さん  俳優として芝居の面白さに気づき始めた30代半ばの時期に出会った戯曲が、32年の時を経て、通算5度目の上演となる升毅さん。自らの歩みを振り返ってもらった。  10代の頃は、アイドルに憧れていた。1955年生まれの升さんは、「新御三家」と呼ばれた西城秀樹さん、郷ひろみさん、野口五郎さんと同世代。升さんが少年だった頃の娯楽の中心は圧倒的にテレビで、テレビに出ている人たちはキラキラと輝いて見えた。 「漠然と、『自分もあの世界に行きたい』と思ったけれど、当時は今みたいに、オーディション番組がたくさんあったわけじゃないし、歌手になる人たちといえば、地方から作曲家の先生のところに弟子入りして……みたいなイメージもあったので。一握りの選ばれし人たちだけが行ける世界だと思っていました」  何の特技もない一般人が、「アイドルになりたい」などと言っても「はいはい。進路はどうするの?」と、家族も教師も、本気で取り合ってくれないこともわかっていた。そこで、さまざまなテレビ番組を観察するうち、歌番組以外にも、バラエティーやドラマがあり、ドラマに出ている人は、「確実にテレビの中にいる人」だと気づいた。 「アイドルよりも俳優を目指すほうがまだ現実的かもしれないと思い始めたのが、高校2年生か3年生ぐらいのときです。でも、高3のときの進路指導で、『僕は俳優になりたいので、大学に行きません』と言ったら、先生はキョトンとした顔で、『家族と相談してきなさい』と。もしあそこで、『アイドルになりたいんで』と言っていたら、『こいつ頭おかしいんちゃう?』ぐらいの目で見られたでしょうね(笑)。一度も『アイドルになりたい』とは公言しなかったですけど、もしそれを誰かに伝えたとしても、『キャーキャー言われたいだけでしょ?』と言われるのがオチ。実際そうだったんですから反論しようもない(笑)」  自分はもしかしたらテレビの世界でやっていけるんじゃないかと思ったのには多少の根拠があった。中学2~3年のときに、かつてないほどのモテ期が訪れたのだ。とくに下級生の女の子からの人気はものすごく、休み時間にベランダに出ただけで、校庭から「キャー!」と歓声があがった。高校は、1クラスに女子が5人ほどの学校に進学したので、中学時代のような熱狂はなかったが、通学バスの通り道にあった女子校では、升さんが乗るバスの時間に合わせて通学する女子生徒が続出したという。 「それで勘違いしちゃったんです(笑)。でも、大学に進学して、劇団に所属してからも、『実は俺、本当はアイドルになって、キャーキャー言われたいと思ってたんだよね』とは、恥ずかしくて言えなかった。役者として、周りからもそれなりに認められるようになって初めて、『いや、実はね』と、若気の至りを笑い飛ばせるようになりました」  そう言ってから一呼吸置いて、「この世界に足を踏み入れた人たちは、誰もが一度はそういう無邪気でミーハーな憧れを持っているんじゃないかな。ただ言わないだけで」と続けた。  大学在学中に、NHK大阪放送劇団付属研究所に入所し、その後大阪に拠点を置く劇団五期会に所属した。演劇ユニット「売名行為」を結成するまでの10年間は、升さん曰く「流されるままの日々」。所属する劇団では、作品を上演するたびにチケットのノルマに追われ、生活費はアルバイトで稼ぐしかなかった。ただ、「今は下積み時代」と割り切って芝居を続けているうちに、テレビ俳優になりたかった気持ちは次第に薄れていった。 「下積みも10年が過ぎて、30になる頃には、『この先ずっとチケットのノルマを抱えて、演劇活動は続けられない』と思った。それで、『売名行為』をスタートさせたんです。コント的な作品を発表することが多かったせいか、次第に、大阪ローカルのバラエティー番組やコント番組、ロケ番組なんかのレギュラーをたくさんいただけるようになって、生活が安定していきました」 「売名行為」で演出を担当していたのが、現在、さまざまな話題作を手がけている劇作家で演出家のG2さんだった。90年、G2さんは、「今を切り取った作品を」と、当時入院中だった中島らもさんに直談判し、「こどもの一生」という戯曲を書いてもらうことに成功した。その舞台は、初めて東京の劇場で上演され、98年にPARCO劇場で上演されたときは、G2さんのプロ演出家としてのスタートとなった。現在、東京芸術劇場プレイハウスで上演中の「こどもの一生」は通算5度目の上演になる。 「今回、G2に、『やるよ』と言われて、『へぇ、あの本って今でも上演できるんだ』と思いました。年齢も性別も肩書も違う5人が、孤島にある、心のケアが専門のクリニックを訪れて、ストレスを取り除くために10歳の“こども”に返って共同生活を送るというコメディーホラーですが、今回の上演台本を読んだときは、ずっと上演し続けていくことが可能な作品なんだなってことを実感しましたね」  舞台が初演された90年といえば、バブル最後の年。かつてないほどの好景気に世の中は浮かれていた。升さん自身も、仕事はまあまあ順調で、元々ストレスをあまり感じない性格だったこともあり、台本に書かれた「ストレス」という言葉に、あまりリアリティーを感じなかったという。 「僕に限らず、演劇をやっているような人間は、もともとあまりストレスを感じないタイプが多いんです(笑)。平成を跨いで、令和になった今のほうが、子供から大人まで、『ストレス』が全ての不調の原因であることを自覚しているような気がします。だからこの舞台も、今のほうが共感性が高いのかもしれません」  この舞台がエポックとなり、升さんとG2さんは、劇団「MOTHER」を立ち上げることに。その後、ドラマ「沙粧妙子最後の事件」で、念願だった東京進出を果たす。 「大阪で過ごした日々は、世の中の景気も良く、いろんな媒体で使っていただいた。芝居のスキルも普通に通用したので、上京してから『20年間大阪でやっていたことが実を結んだな』と思いました。時間はかかったけれど、その20年がすごく大事に思えた」 (菊地陽子、構成/長沢明) 升毅(ます・たけし)/1955年生まれ。東京都出身。75年、NHK大阪放送劇団付属研究所に入所し、翌年初舞台を踏む。85年、演劇ユニット「売名行為」を結成。91年、演出家のG2らと共に、劇団「MOTHER」を立ち上げ、座長を務める。95年、東京に進出。2015~16年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」ではヒロインの父親役を演じ、話題になった。「こどもの一生」には、今回で4度目の出演となる。※週刊朝日  2022年4月15日号より抜粋
週刊朝日 2022/04/09 11:00
悠仁さまが入学式 会見で振り返る秋篠宮さま、紀子さまの教育方針
悠仁さまが入学式 会見で振り返る秋篠宮さま、紀子さまの教育方針
お茶の水女子大付属中学校の卒業式の悠仁さま。制服がない筑付では私服で登校となる  戦後、学習院以外の高校に進学した初めての皇族となる秋篠宮家の長男・悠仁さま(15)。4月9日、筑波大付属高等学校(東京都文京区)で入学式があり、高校生活の第一歩を踏み出される。  コロナ禍前は、秋篠宮さまと誕生日会見に同席することが多かった紀子さまは、悠仁さまの成長や教育方針について述べてきた。これまでの会見から悠仁さまの成長を振り返る。 * * * ■2歳の悠仁さまへ「きちんとした社会生活」を 2007年2月御用邸近くの葉山しおさい公園を訪れ、日本庭園の池の鯉に餌を与え楽しげな佳子さま、眞子さま、秋篠宮さま、悠仁さまを抱いた紀子さま  秋篠宮さまが誕生日会見で「教育方針」について質問を受けたのは2008年のこと。この年の9月6日に悠仁さまは2歳を迎えたばかり。秋篠宮さまはこう答えた。 「そうですね、これからしばらくすれば幼稚園に行って、それから小学校で、だんだん上の学校に行くわけですけれども、そういう中できちんとした社会生活をできるようになってくれればと思いますし。またこれと同時に、皇族としての自分の立場もおいおい自覚、これは前に娘たちのことで話したこともあったかもしれませんけれど、持ってもらうようになったらと思っております。その他は、上の2人の娘と同じということになりますけど、自分が関心あることなどですね、深めていってくれればいいなという風に私は思っております」 一方、紀子さまは、 「今、宮様がお話になされましたこととあわせて、悠仁もまだ2歳ですが、年齢に応じて基本的な生活習慣を身につけて、心豊かに育み、健やかに成長できるよう、考えております」 と、秋篠宮さまの回答に言葉を添えた。 ■「もう一回、もう一回」と遊びをおねだり! 2008年11月赤坂御用地を散策する秋篠宮さま、紀子さま、眞子さま、佳子さま、悠仁さま  08年に続き、09年の誕生日会見でも、教育方針の質問を受けた秋篠宮さまは、 「教育方針というお話が出ましたけれども、特に一番下の子どもにつきましては、これは昨年話したのと同じで、これからだんだんと成長して上の学校へと進んでいくわけですけれども、そういう中できちんとした社会生活ができるようになってくれればいいと思います。これは3人の子供たち全員に言えることですが、自分の今いる立場ということの認識もしていってもらいたいと考えています。それ以外については、やはり自分の関心のあることを今後とも深めていってもらえればいいと考えております」  それに加え、紀子さまの言葉からは3歳の元気な子どもの様子が。 「最近の好きな遊びですが、私たち親とか娘たちと一緒に全身を使って楽しめる遊び、例えば私が悠仁の両手をとって悠仁が逆上がりをするような形でぐるりと回転しましたり、私が軸となって悠仁の両手を持ってぐるぐる回ったりするのは大変素朴な遊びですが、『もう一回、もう一回』と」  同じ遊びを喜び、何回も母親(紀子さま)におねだりする3歳の子どもの姿が垣間見えた。 ■小学1年生になり運動会、遠足などの行事も 2014年8月「対馬丸殉難70年・鎮魂と平和への祈り」に来場した秋篠宮ご一家  13年の会見では、この年の4月に皇族として戦後初めて、学習院初等科ではなくお茶の水女子大学付属小学校に進学した悠仁さまについて、「皇位継承順位第3位の皇族としてどのように成長していってほしいか」という質問に秋篠宮さまはこう述べた。 「どのように成長していってほしいかということですけれども、それぞれの家で何がしか各論的に、考えはあると思いますけれども、かなり多くのことについては、共通しているのではないかと私は思います。そういうことからしますと、今の段階で私は、これは以前にも話したことがありますけれども、きちんとした社会生活を送れるようになってほしいと思います。また、できるだけ人と協調して過ごしていけるようになってほしいと思います。これは大変、社会生活を送る上では大事なことではないかと考えます」  ピカピカの1年生の悠仁さまの様子に紀子さまは、 「長男は、今年の春に小学校に入学しまして、新しいお友達や先生と出会い、新しい学びの日々が始まりました。また、今、宮様がお話しされました運動会、ほかには遠足でジャガイモ掘りなどに行きましたけれども、6年生を始め、上の学年と一緒に行くこともあり、お世話をしていただくこともあり、いろいろな経験をしてきました。そのようなことを通して小学校の生活にもだんだん慣れてきまして、今、お友達と一緒に様々な活動に取り組み、元気に過ごしております」 ■小学校高学年になり、気になる進学先 2018年5月お茶の水女子大学付属小学校の運動会で「大玉おくり」の競技に参加する悠仁さま  悠仁さまが小学校高学年になり、気になるのは進学先。18年の誕生日会見では、秋篠宮さまのお話に付け加え、紀子さまがしっかりと進路を見据えた様子をうかがわせた。 「中学校でどのようなことを学びたいか、どのような活動をしたいか、今、学校や家庭でどのように過ごしたいか、そのようなことを長男はいろいろと考え、その意見や希望を聞きつつ、話し合い、進学先について考えてきました。これからも長男の語る言葉に耳を傾けて、思いや気持ちを大事に受けとめられるよう成長を見守っていきたいと思っています」 ■いよいよ高校へ進学 2021年8月、本を一緒にながめる秋篠宮さまと悠仁さま  昨年の誕生日会見では、進学校は明かさずも、受験勉強をする悠仁さまの様子が。 「進学につきましては、本人とも相談しつつ進めております。また、成長の様子ですけれども、今、中学3年生で、これはどの中学3年生もそうなのでしょうけれども。1年前と比べると机に向かっている時間が格段に長くなっているんですね。そういう日々を過ごしているわけですけれども、私も時々、そんなしょっちゅうではないものの机に向かって問題を解いている様子などを見ることがあり、そのような時に改めて、今15歳で中学3年生ということを当然のことではあるんですけれどもそういうときに実感することがあります」  このように、折に触れて教育方針や悠仁さまの進学先を問われてきた秋篠宮さま。天皇制に詳しい名古屋大学人文学研究科(歴史学)の河西秀哉准教授は、本人が望む学校に進学するのは大事なことで、それが大前提とした上でこう話す。 「皇室を取り巻く状況、特に秋篠宮家に対し、厳しい目が向けられているのをどこまで想定したのかなとは考えてしまいます。愛子さまは学習院大学を進学先として選ばれたのは、ある種のハレーションを起こさないためでもありますよね。学びたいところで学ぶのは大前提ですが、皇族が学習院を選ばないと、色々な憶測が生まれる可能性がある。秋篠宮家はそれをどこまで想定したのかなとは思います。現在のような状況のなかでは、悠仁さまの進学先や進学理由などについても丁寧に説明されることが必要だったのではないでしょうか。そうすれば多くの人々はわかってくれるとは思うのですが、それがないゆえに、国民が疑問を持ち、さらに憶測を生んでしまう」  今回の悠仁さまの筑波大付属校への入学を巡り、様々な臆測がSNSやインターネットで話題となった。そうした点にも触れ、こう続けた。 「提携校進学制度も“向学のために提携制度は使っています”と明確に言えばいいと思います。今の世の中は説明責任を求められる時代。秋篠宮家がそれと逆のことをやっているように見えてしまったのではないでしょうか。眞子さんの問題がなかったら、学習院ではない進学先に対して“むしろリベラルでよかったのでは”という意見もあったかもしれない。しかし今はそうではありません。局面を変えるための対応が必要だったのではないか。学びたいところで学ぶという大前提を踏まえつつ、悪い局面を上塗りしないような方策が求められていると思います」  色々な意味で注目される悠仁さまだが、まずは高校生活を楽しんでもらいたい。(AERAdot.編集部 太田裕子)
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dot. 2022/04/09 08:00
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