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小川哲「昔から野球のストライクとボールが納得いかなかった」 小説執筆に役立った理系的な脳とは
小川哲「昔から野球のストライクとボールが納得いかなかった」 小説執筆に役立った理系的な脳とは 大宮エリーさんと小川哲さん[写真:本人提供(大宮さん)、写真映像部・高野楓菜(小川さん)]    作家・画家の大宮エリーさんの連載「東大ふたり同窓会」。東大卒を隠して生きてきたという大宮さんが、同窓生と語り合い、東大ってなんぼのもんかと考えます。理I出身の小川哲さんは小説の執筆は数学を解くような感覚と言います。 *  *  * 大宮:書きたいものって、どこから生まれてくるんですか。 小川:僕の場合は、書きたいこと、伝えたいことがあるというよりは、小説を通じて、考えてみたいことがあるっていう感じですね。こういう立場の人って何を考えてるんだろうとか、どうしてこういうことをしたんだろうとかを、小説というツールを使って考えてみたいんです。 大宮:じゃあニュースの事件から、発想したりもするんですか。 小川:そういうこともありますね。 大宮:小説の着想が湧いたときには、結構調べるんですか。それとも自分の空想で展開するんですか。 小川:調べながら書く感じですかね。ただ、調べすぎちゃうと、読者と知識量というか、視点が離れちゃうことがあって。だから、知らない人が興味を持続してくれる“距離感”みたいなのを、自分の中で適宜、調節しないといけなくて。 大宮:それでも、物語の結論を出すのは、自分じゃないですか。 小川:調べて分からないことをあれこれ考えるのも楽しいですし、調べて分かっちゃったことでも、資料にそのプロセスや理由が書いてあるわけじゃない。その人からどういうことを考えて、どういう経緯で、そこにたどり着いたのか、必要があれば考えるっていう感じですかね。 大宮:やっぱり理系的な脳が発揮されてるんですかね。東大では理Iでしたよね。 小川:どうなんですかね。小説を書く上で、論理的に矛盾しないように、というのは意識しますけど。小説を書き終わったらまた頭から読み直すわけですよね。そうすると、間違いとか、面白くないところとか、登場人物の行動がとっぴに感じられる箇所があったりして、直します。それって、数学で途中式の間違いに気づいて、全部書き直すみたいな感覚に、すごく近いです。   【こちらも話題】 直木賞作家・小川哲が大宮エリーに語った“寝ること”の重要性 「執筆は、睡眠不足でできる工程が1個もない」 https://dot.asahi.com/articles/-/213519   大宮:そうなんですね。 小川:僕、人間の行動とか、せりふとか、決断とかのつじつまが合わないのはめちゃくちゃ気になるんで。 大宮:そういう性質って、日常生活に、支障をきたさないんですか。 小川:どうなんだろうな。でも、日常生活の支障が、今の小説の僕の、豊かな大地になってるところがあるんですよね。 大宮:豊かな大地? 小川:まあ例えば、僕、子どもの頃、野球のストライクとボールっていうのが、納得いかなかったんです。 大宮:えーっ。 小川:ストライクって動詞じゃないですか。ボールは名詞で、もっというとアウトは形容詞じゃないですか。全然意味が分かんなくて、野球部員に「おかしくない?」って聞いたり。 大宮:理屈っぽいとか言われそう。 小川:いやまあ、そうですね。でも、みんなが気にしてないことを気にすることって、作家にとってすごく重要な視点の一つだと思っているんで。 大宮:子ども時代にいじめられたりしなかったですか。 小川:そういう記憶はないですけど、……まあ面倒くさいやつとは思われていたかもしれませんね。それに、子どものころは、大人って話が通じないやつらだ、とばかにしてたんで。「なんでボールはボールなの?」とか聞いても、「そんなこといいから、さっさと行け」みたいな感じで。 大宮:じゃあ自分の中で、妄想する癖がついてたりしたんですかね。 小川:そうですね。まあ、昔から考え事をしたり、調べてみたりするのは、たぶん多かったんじゃないかなと思いますね。 大宮エリー(おおみや・えりー)/1975年、大阪府出身。99年、東京大学薬学部卒業。脚本家、演出家などを経て画家として活躍。主な著書に『生きるコント』(文藝春秋)。第80回ベネチア国際映画祭に監督・脚本を務めたVR映画「周波数」がノミネートされた 小川哲(おがわ・さとし)/1986年、千葉県出身。東京大学大学院在学中の2015年に『ユートロニカのこちら側』で第3回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー。18年、同大学院総合文化研究科博士課程を退学。23年、『地図と拳』で第168回直木賞、『君のクイズ』で第76回日本推理作家協会賞長編および連作短編集部門を受賞 ※AERA 2024年2月19日号   【こちらも話題】 七転び八起きは、なぜ「七起き」じゃないのか 小説家・小川哲が小学校時代に気になっていたこと https://dot.asahi.com/articles/-/196379  
老朽化ビルの「終活」は所有者が本気で残したいか否かで決まる ゆるゆる使い続けて後世の財産に
老朽化ビルの「終活」は所有者が本気で残したいか否かで決まる ゆるゆる使い続けて後世の財産に 中銀カプセルタワービル/1972年に完成、2022年に解体された中銀カプセルタワービル(写真:中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト提供)    戦後の高度経済成長期に建設されたビルの多くが、老朽化のため解体か改修かという岐路に立たされている。ビルの「終活」の現在地を探った。AERA 2024年2月19日号より。 *  *  * 「なぜ建て替えないといけないのか全く分からない」  こう嘆くのは建築家の大宇根弘司さんだ。日本建築家協会の会長も務めた建築界の重鎮。モダニズム建築の巨匠、前川國男(1905−86年)のもとで学んだ。前川の代表作の一つが、東京・丸の内に最初に建てられた高層ビル「東京海上日動ビル」(1974年完成)だ。同ビルは2021年3月に東京海上ホールディングス(HD)と東京海上日動火災保険が建て替えを発表。これを受け、大宇根さんら前川の事務所で勤務経験のある建築関係者が中心になって存続を要望してきたが、解体の歯止めはかからなかった。  赤茶色のタイルが張られた格子状の外壁が目を引く旧本社ビルは、ガラスのカーテンウォールのビル群の中で異彩を放ってきた。設計段階の60年代には皇居を見下ろすビルの高さをめぐって「美観論争」も巻き起こした。その歴史的価値について大宇根さんはこう強調する。 「大事なのは、市民が建物の前に立った時に感銘を覚えるかどうかです。今回は保存運動の輪が広がらず、建築物の価値に対する社会の関心が高くないことを痛感させられました。それが本当に残念です」 遺構などの展示検討  同ビルの保存を呼び掛ける著作を刊行。その後、市民向けイベントを通じて建築物や景観の価値を発信する「市民・建築ネット」を発足し、活動の幅を広げている。大宇根さんは言う。 「建築の固有の文化を大事にしないと都市景観は破壊されるばかりで、人々の心のよりどころも失われます。建築や景観が人間にとっていかに大事なものかを訴え続けたい」  東京海上側は、災害対応力や環境性能などを一段と強化するためとして本社ビルの建て替えを進める一方、3Dデータとして保存するなど旧本社ビルの記憶の継承にも取り組んでいる。新本社ビルの一角にアーカイブを設け、旧本社ビルの遺構などの展示も検討しているという。2028年度完成を目指す新本社ビルは、木の使用量が世界最大規模となる高さ100メートルの「木造ビル」として注目を集めている。  災害が多く、スクラップ・アンド・ビルドの激しい日本。大阪のメインストリート、御堂筋でも高度経済成長期のビルの建て替えが進む。 「インバウンドのホテル需要の増加も相まって、2013年の御堂筋沿いのビルの高さ規制の緩和が効いてきたのが、まさに今という感じがします」  こう話すのは関西大学環境都市工学部の橋寺知子准教授だ。大阪の近代建築に詳しい橋寺さんは「築50年前後の建物の価値はなかなか伝わりにくく、これまでに失った名品は数多く、惜しまれる」とこぼす。戦前期の建築物は木造や煉瓦造など一見して異空間ともいえる外観のため保存対象になりやすい半面、築50年前後の鉄筋コンクリートのビルは文化財的な評価も定まらないのが実情という。 「外観も単に古びて見えるだけで、外装材や金具といった工業製品の『古びの美』に共感が得られるかは微妙です。鉄筋コンクリートのビルの寿命が一概に50年とは言えませんが、築50年前後が建て替えの一つの節目になっているのは否めません」(橋寺さん)  耐震化やOA化に伴い、改修が困難な建築物もある。床下に必要な配線を設置するスペースを確保できないケースなどだ。ただ、と橋寺さんは続ける。 「ほとんどのケースは、所有者が本気で残したいと考えるかどうかでビルの命運は決まると言ってよいでしょう」 所有者の意思を反映  御堂筋で所有者の意思を色濃く反映して維持されてきた60年代のビルがある。竹中工務店の本社が入る「御堂ビルディング」(大阪市中央区)だ。磁器タイルなどで覆われた外観が特徴的な同ビルは昨年、国の登録有形文化財に指定が決まった。  同社によると、1965年に同ビルを新築するにあたり、創立者で当時の相談役である14代竹中藤右衛門の「後世に残し得るようなものを建てたい」という意思に従い、完成当初から長く使い続けることを前提にメンテナンスしてきたという。95年の阪神・淡路大震災以降は建物を使用しながら現行法に適合する耐震補強を実施。さらに南海トラフ地震に備え、非常用発電機や高圧受変電設備を想定される津波浸水の高さ以上の階に設置するなど、災害時に最大72時間稼働できるシステム強化も図った。同社は「今後も一企業の建築物という視点だけでなく、文化財としての価値も考慮し、維持保全を継続していきます」としている。  やむなく解体した後も脚光を浴び続けているビルもある。  1972年に完成し、2022年に解体された中銀カプセルタワービル(東京都中央区)だ。黒川紀章(1934−2007年)が設計した、直方体のブロックを積み上げたような奇抜なデザイン。集合住宅だったため、「一度は住んでみたい」というファンが後を絶たなかった。その一人、同ビル保存・再生プロジェクトの前田達之代表はこう振り返る。 中銀カプセルタワービル/カプセルを修復保存し、美術館や商業施設で利用している。写真はGINZA SIX(写真:中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト提供)   「首都高を車で通るたび目に飛び込んでくる異様な外観は、子どもの目にもインパクトがありました。丸窓からどんな風景が見えるのか、ずっと気になっていましたが、たまたま売り物件が出たタイミングで購入できました」 仲間を増やして  カプセルに設置された丸窓は宇宙船の内部をイメージさせる。この丸窓から眺めた夜の首都高の幻想的な光景は忘れがたいという。そんなカプセル生活を満喫してきた住人らでつくるコミュニティーが2014年に設立したのが保存・再生プロジェクトだ。カプセルを交換することで半永久的に持続していくことを目指した黒川の「メタボリズム」の実現を図ったものの、結果的にカプセルは交換されることなく解体された。  一方で、オーナーらは計140のカプセルのうち23カプセルを解体時に取り外して修復保存し、国内外の美術館や商業施設での展示、宿泊施設やギャラリーとして運営する「カプセル新陳代謝プロジェクト」を発足。中でも前田さんが感慨深く語るのが、カプセルをトレーラーに積載して各地のイベントに持ち運びできるようにした淀川製鋼所の活用例だ。黒川には「カプセルはモビリティー」との考えがあり、引っ越し時にカプセルごと移動することも想定していたという。 「解体されて初めて黒川さんが本来描いたメタボリズム建築のコンセプトである『カプセルの移動』も実現し、メタボリズムが完成したとも言えます」(前田さん)  保存再生を図る上で大事なのは「仲間を増やすこと」だという。解体が決まるまでは月単位で住めるマンスリーカプセル制度も導入した。ファンが広がりSNSなどで情報発信する人が増えたことで、解体後の活用アイデアも続々寄せられたという。前田さんは言う。 「カプセルタワービルはハードとしても魅力的でしたが、それ以上に黒川さんの意図した世界観やコンセプトはいろんな人を引き寄せる吸引力がありました。次世代に引き継いでいくのは責務だと考えています」  カプセルは今後、欧米やアジアなど複数の海外の美術館でも展示予定という。 速すぎるスピード  守るべき建築物、都市景観とは何なのか。前出の関西大学の橋寺さんは「ゆるゆる残す」ことに意義があると言う。 「いま文化財指定されている建築物も、建設当初から価値を見いだされていたのではなく、たまたま災害を免れ、解体もされずに残ったものも少なくありません。そう考えれば、現在の評価はあいまいでも、『ゆるゆる』と使い続けることで後世の財産になるかも、とどこかで感じてもらうことが大切なのかもしれません」  そしてこう続けた。 「少なくとも30〜40年間、世の中に姿を現していたビルはランドマークでなくても、街の風景の一部としての価値はあると思います。30年、40年でなくなる建物は多いですが、そんな世の中のスピードってちょっと速すぎると思いませんか」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年2月19日号
「関節リウマチ」早期診断は専門医でないと難しい? 変形性関節症、痛風で似た症状 近年は関節エコーで検査
「関節リウマチ」早期診断は専門医でないと難しい? 変形性関節症、痛風で似た症状 近年は関節エコーで検査 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)   本来はからだを守るはずの免疫の働きによって関節が炎症を起こす病気、「関節リウマチ」。その主な症状は関節の腫(は)れや痛みですが、同様の症状を呈する病気はほかにも数多くあります。どのような検査をおこない診断するのか。区別が必要な病気にはどのようなものがあるのか。どのような治療をするのかなど、患者が知っておきたい関節リウマチの知識を専門医に聞きました。  この記事は、週刊朝日ムック「手術数でわかる いい病院」編集チームが取材する連載企画「名医に聞く 病気の予防と治し方」からお届けします。「関節リウマチ」全3回の2回目です。 *  *  * 【第1回の記事はこちら】 「関節リウマチ」が1:4の割合で女性に多いのはなぜ? 専門医の答えは? 環境的な要因に喫煙や歯周病 https://dot.asahi.com/articles/-/212565   症状と血液検査、画像検査などで診断する  関節リウマチの治療法は進歩しており、早期に適切な治療をおこなうことで進行を抑え、病気になる前の生活を取り戻すことが可能になっています。そのため、早期診断・早期治療が重視されています。  では、関節リウマチはどのように診断するのでしょうか。大学病院で長年関節リウマチの診療にあたりながら、ガイドラインの作成などにも携わる東京女子医科大学病院膠原病リウマチ内科教授の針谷正祥医師はこう話します。 「関節リウマチかどうかは、関節の腫れが続いている期間、腫れや痛みがある関節の数と部位、関節の炎症の程度、自分を攻撃してしまう『自己抗体』ができているか、などから診断します」  炎症の程度(炎症反応)や自己抗体について調べるには、血液検査をおこないます。主に、血液中に含まれる「CRP」というたんぱくの値や、血液中の赤血球が沈んでいく速度(赤沈)を調べることで炎症の程度がわかります。  また、「リウマトイド因子」や「抗CCP抗体」という自己抗体の有無も調べます。リウマトイド因子(リウマチ反応)は、リウマチ患者の75%が陽性となりますが、ほかの病気がある人や健康な人でも陽性になることがあります。同様に抗CCP抗体もリウマチ患者の80%が陽性となりますが、ほかの病気で陽性になることは少ないため、早期診断に有用な指標といえるでしょう。  このほか、骨や関節の状態を見る画像検査も重要です。X線検査では骨が壊れている様子を確認することができ、リウマチの進行度がわかります。関節超音波(エコー)検査やMRI検査では、関節の腫れを見ることで炎症の程度を知ることができます。  関節リウマチの早期発見や予後改善をめざし診療や啓発に力を入れている、横浜市立大学附属市民総合医療センター、リウマチ膠原病センター診療教授の大野滋医師はこう話します。 「X線検査でわかる骨の破壊はかなり進行してから起こるので、早期診断のためには関節の腫れを見ることができる関節エコーやMRIが有用です。関節エコーはまだ、どこの病院でもできるとはいえませんが普及が進んでおり、近年、関節リウマチの検査にも使われるようになりました」 関節リウマチと間違いやすい病気は数多くある 「変形性関節症」などの関節の病気や「痛風」、「シェーグレン症候群」や「ベーチェット病」などの膠原病、ウイルスや細菌による一部の感染症など、関節リウマチと似た症状がみられる病気は数多くあります。 「しっかり鑑別するためには、患者さんの話をよく聞いて、見た目や触った感じで判断しながらほかの病気を除外していくことが大切です。触診では、例えばもともと10の大きさで腫れていて、それが20になれば誰でもわかりますが、12ぐらいの腫れを判断するのは職人芸といえます。それだけに早期診断には関節リウマチの専門医が診ることが重要といえるでしょう」(大野医師)  関節リウマチは膠原病の一種ですが、ほかの膠原病を合併することも多く、その代表的なものが、目や口の乾燥などを伴うシェーグレン症候群です。先にシェーグレン症候群と診断され、その後関節リウマチを発症することもあります。  また、関節以外にみられる関節リウマチの症状の一つに間質性肺炎があります。関節の症状より先に肺炎の症状が起こり、呼吸器科を受診して検査をした結果、関節リウマチと診断されることもあります。 関節リウマチの治療は薬物療法が基本に  関節リウマチの治療法には、基礎療法、薬物療法、手術、リハビリテーション(以下、リハビリ)があります。基礎療法とは、病気のことを理解し、悪化しないように注意しながら生活していくことをいいます。  治療においては薬物療法が中心となり、使用される薬には、非ステロイド系抗炎症薬(消炎鎮痛薬)、副腎皮質ステロイド、従来型抗リウマチ薬(抗リウマチ薬)、生物学的製剤、JAK阻害薬などがあります。    日本リウマチ学会が作成した「関節リウマチ診療ガイドライン2020」では、関節リウマチと診断されたら、まずは抗リウマチ薬による治療をおこなうことを推奨しています(第1フェーズ)。一般的にはメトトレキサートという薬剤が第一選択となります。免疫の異常を改善して炎症を抑える薬で、これまでは経口薬のみでしたが、2022年から注射薬も使用できるようになりました。 「日本では最初に飲み薬が使われることが多いですが、副作用などで飲み薬が使えない人には注射薬をすすめることもあり、患者さんのニーズに応じた治療選択が可能になりました」(針谷医師)  メトトレキサートが使用できない人には、別の抗リウマチ薬を使用します。抗リウマチ薬は、使用開始から効果が表れるまでに数週間かかるため、それまでの間に消炎鎮痛薬やステロイドを併用することもあります。  抗リウマチ薬による治療で改善しない場合は、生物学的製剤、あるいはJAK阻害薬を追加(併用)、もしくは単独で使用します(第2フェーズ)。それでも十分な治果が得られない場合は、ほかの生物学的製剤やJAK阻害薬への変更を検討します(第3フェーズ)。  生物学的製剤は、炎症を引き起こす物質をブロックすることで関節の炎症を取り除き、骨や軟骨の破壊を抑えます。点滴もしくは皮下注射(患者自身がおこなう自己注射)で投与します。JAK阻害薬は、生物学的製剤とは異なるメカニズムで炎症を引き起こす物質をブロックする薬で、こちらは飲み薬です。日本では、生物学的製剤は2003年から、JAK阻害薬は2013年から関節リウマチの治療に使用されるようになりました。 「生物学的製剤、JAK阻害薬のいずれも非常に高い効果が期待できる薬です。生物学的製剤は、ブロックする物質により三つのカテゴリに分かれており、どの薬も効果は同等です。それぞれに副作用や、使用上注意が必要な合併症、併用薬などがあるので、それらを踏まえた上でどの薬を使用するか検討します。医師が使い慣れている薬剤を選ぶこともあるかもしれません。JAK阻害薬は、現在日本で使用できる薬が5種類ありますが、こちらも効果はどれも同等です」(同)  一方で、治療費が高額なことや副作用などの課題もあります。 「JAK阻害薬については、長期に使用した場合にがんを発症するリスクが高まるというデータや、心血管疾患のリスクを高めるという欧米のデータもあり、使用を慎重に検討すべき症例もあります」(大野医師)  これらを鑑み、現在のガイドラインでは先に生物学的製剤を使い、効果が不十分な場合にJAK阻害薬を使うことを推奨しています。   進行した人には手術やリハビリなどの治療法も  病状が進行し、関節の障害が著しく日常生活に支障をきたす場合は手術をおこないます。ただし、「薬物療法の進歩により手術が必要になる人は大幅に減少している」と今回取材した2人の医師は話します。 「新しい薬が数多く登場し、それらによる治療が普及したのはこの10年ほどです。その前から20年、30年とこの病気とつきあってきた人などは関節の破壊が進んでしまっているため、やはり一定数は手術が必要な人がいます。ただし薬物療法と同様、手術も進歩しており、人工関節に置き換える方法のほか、できるだけ関節を残して機能や整容(見た目)を回復させる手術も多くおこなわれるようになりました。手指の変形がきれいになった、歩いても痛みがなくなったなど、多くの患者さんに喜ばれています」(針谷医師)  また、関節を保護すること、筋力を維持・増強すること、壊れた関節やその働きを回復させることなどを目的としてリハビリをおこなうこともあります。リハビリには、温めたり光線をあてたりする物理療法、ストレッチや水中歩行などの運動療法、痛みの軽減や関節保護のための装具療法など、いくつかの方法があります。主治医の指示に従って症状に応じた適切な方法でおこなうことが必要です。 (文/出村真理子)   【取材した医師】 東京女子医科大学病院 膠原病リウマチ内科 教授 針谷正祥(はりがい・まさよし)医師 1984年、防衛医科大学校医学教育部医学科卒業。東京医科歯科大学病院等を経て、2015年から現職。専門分野は関節リウマチ、膠原病、分子標的薬治療など。「関節リウマチ診療ガイドライン2020」編集者(研究代表者)を務める。関節リウマチに関する執筆活動や啓発のための社会活動にも積極的に取り組んでいる。 東京女子医科大学病院 東京都新宿区河田町8-1 東京女子医科大学病院 膠原病リウマチ内科 教授 針谷正祥医師     横浜市立大学附属市民総合医療センター リウマチ膠原病センター 診療教授 大野滋(おおの・しげる)医師 1988年、横浜市立大学医学部卒業。米国国立衛生研究所、国立横須賀病院、国立相模原病院臨床研究センター等を経て、2002年から現職。専門分野は関節リウマチ、膠原病など。センターでは「早期リウマチ外来」の設置や市民公開講座、リウマチ教室の開催など地域と連携しながら関節リウマチの早期発見や予後改善に尽力している。 横浜市立大学附属市民総合医療センター 神奈川県横浜市南区浦舟町4-57 横浜市立大学附属市民総合医療センター リウマチ膠原病センター 診療教授 大野滋医師  
〈あのとき告っていたら?きょう出演〉王林のゆくゆくの目標は青森県知事の座?「良さを守りたい」郷土愛語る
〈あのとき告っていたら?きょう出演〉王林のゆくゆくの目標は青森県知事の座?「良さを守りたい」郷土愛語る おうりん 1998年、青森県弘前市生まれ。タレント。2022年3月まで、ローカルアイドルグループ「りんご娘」でリーダーを務めていた。情報番組「ヒルナンデス!」(日本テレビ系)にレギュラー出演中。 ローカルアイドルグループ「りんご娘」時代は、「りんごありきのポージングが多くて、王林よりもりんごが綺麗に写っているかがチェックされてた(笑)」。ちなみに、りんごを綺麗に見せるコツは、「少し下向きにして、へたを見せること」。 ヘアメイク=村宮有紗 スタイリング=白島茉奈 衣装協力 ワンピース/Desigual(デシグアル)  バラエティー番組「あのとき告っていたらどうなった?」(日本テレビ・午後9時)は13日の放送で第5弾を迎える。「あのとき、あの人に勇気を出して告白していたら、どうなっていたのか?」という疑問や後悔をテーマにした番組。ゲストのひとり、王林は番組で初恋の人と対面するのが話題だ。そんな王林の過去のインタビューを振り返る。(「AERA dot.」2023年1月16日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時) *  *  *  津軽訛り×天然キャラ。愛され要素の最強コラボではなかろうか。青りんごの代表品種を名乗り、地元・青森の素晴らしさを熱弁する姿はバラエティー番組でもおなじみだが、「芸能活動に興味があるっていうよりは、青森を盛り上げる方法の一つとして芸能が存在してる感覚です」。天真爛漫な24歳の地元愛は、筋金入りだ。  小学3年生のとき、弘前の芸能プロダクションに入った。県内の祭りやイベントを回っては歌とダンスを披露する日々。中学生でローカルアイドルグループ「りんご娘」のメンバーになると、県産りんごのPRなどで活動の舞台は全国へ。 「そのころから、青森ならではの良さに気づいて愛が出てきましたね。津軽弁で“じょっぱり魂”っていう言葉があるんです。自分の意思を強く持つみたいな意味なんですけど、青森県の人って猟師さんも農家さんも職人さんもみんな黙々と仕事をして、そこに魂とか地域への愛とか人への思いやりがあって。青森の一番の良さは、人の温かみだと思います」  転機は2018年。「踊る!さんま御殿!!」出演を機に注目を集め、バラエティー番組でも活躍するようになった。 「最初のころは不思議でした。なぜか王林がしゃべるとみんなすごい笑ってて、収録前にも『王林節かましちゃってください!』とか言われて。『え、何を求められてるんだろう』『期待に応えられなかったらどうしよう』って不安で。類は友を呼ぶのか、りんご娘のメンバーとか王林のお父さんお母さんのほうが天然だから、自分が笑われる理由はよくわからないけど、今は『場が楽しい雰囲気になるのはうれしいなー』って思えるようになりました(笑)」  そして、さらなる転機が22年。10年続けたりんご娘を他のメンバーとともに卒業した。 「みんなはやっぱり女優とかモデルをやりたい思いが強くて。学生時代を全部りんご娘に捧げたぶん、ここからは自分の人生として新たな一歩を踏み出したいっていう気持ちは応援したいし、私は変わらず青森のためになることをやっていこうと」 お台場の景色を見つけるや否や、「レインボーブリッジ、封鎖できません!」。その後もノリノリで、タレントの鈴木奈々やお笑い芸人のやす子のモノマネを繰り出した。  ソロ活動が始まり、タレントとして多忙な日々を送るなか、青森の自宅に戻れるのは週に一度ほど。帰ったときは、りんご農家の友達を手伝うなど、青森ならではの時間を大切にしている。 「東京で過ごす時間が増えたことで、自分が何を本当に大事にしたいのか考えたり、一歩引いたところから青森を見られようになった。ますます青森が好きになった1年だったと思います」  22年が特別な年になった理由は、もう一つ。「Rakuten GirlsAward 2022 SPRING/SUMMER」で、念願のモデルデビューを果たした。小学生のころ、青森のショッピングモールで開かれた小さなショーでドレス姿のモデルを見て、母に「これやりたい」とせがんだ。だがプロダクションに入ってアイドルとして活動するうち、いつしかランウェイの夢は心の奥にしまいこんでいた。 「中学生くらいまでは東京に行きたい思いもありました。今は地方にいるけど、それを言い訳にしないで、全国に注目してもらえるよう青森から発信していこうって。でもだんだん、自分の目標よりも青森県とかりんご娘っていうものが大事になって、そのために頑張るようになって。だから、誰かのためなら無限の力が出てくるけど、自分のために頑張るってピンと来なかった。今回、モデルっていう自分の目標が叶ったのは新鮮で、自分のために頑張るって楽しいんだって思いました。りんご娘の卒業は悲しい出来事でもあったけど、新しく出会った人たちが、私に新しい風を吹かせてくれてるなと思います」  実りある22年を経て、今年はさらなる飛躍の年へ。王林は既に動きはじめている。大学の卒業論文でテーマにした「青森の伝統工芸品の販路拡大」を実現すべく、津軽塗のイヤリングなど、ジュエリーやアパレルブランドのプロデュースに力を入れる。その裏には、切実な思いがある。 「王林のおじいちゃん、津軽塗の職人さんだったんですけど、食べていけるだけのお金にならないこともあってやめちゃったんですよ。当たり前だったものがなくなることのリアルな感情というか、王林たちの世代が問題意識をもたないと青森の良いところが本当になくなるかもしれないんだってそのとき思いました。文化だけじゃなくて、青森らしい景色も守りたいから、今、古民家か蔵を買いたいなと思ってます」 ビル屋上での撮影の合間、眼下の景色を眺めながら、「ここから飛んでいきたい! いや、いけそう!」。楽しそうにスーパーマンのポーズを決めていた。  今年は、音楽活動にも意気込み十分だ。 「青森で生きてて感じるものを音楽に注いでいきたい。テレビで歌わせてもらう機会があると、『え、上手!』みたいなコメントをもらうんですよね。王林=タレントとして捉えている人が多いと思うんですけど、ずっとアイドルを本業でやってきたんだけどなって(笑)。青森県で音楽と食と文化のフェスを開催するのも目標です。王林の視点で青森県のプロデュースができたらいいな」  青森を知るにつれ、「いいところも、それを守るために必要な課題も、いっぱい見えた」。今は芸能人として、青森の魅力を懸命に発信しているが、問題解決の部分にもきちんと向き合いたいと思っている。そこで、ゆくゆくの目標として見据えているのが、県知事の座だ。「40代とかの話ですけどね」と前置きしつつ、ビジョンを語る。 「若い子たちが青森でお店を出したり新しいチャレンジをしたいと思っても、頑張るための場所がなくて、パワーを内に秘めたまま終わっちゃうのはすごくもったいない。たとえば、新しい建物を建てるお金を昔のものを管理するためのお金に回したり、制度を変えたりして、青森で頑張りたい若者の援助ができたらなって思います」  さて、溢れんばかりの郷土愛を語りつくしてもらったところで、「生涯青森を離れるつもりはない?」と尋ねると、衝撃の答えが返ってきた。 「はい、もう絶対青森に住みたいんですけど、結婚相手は外国の方がいいっていう理想があって(笑)。普段の生活で、キスとかハグとかちゃんと愛情表現をしてくれる人がいいんです。だから青森よりも愛してしまう男が現れたら、その人の国に行く可能性はあります(笑)。でも私、舘ひろしさんは大好きです! 日本人なのに外国の人のいいところが備わってて、色気やダンディーがすごいし、レディファーストみたいな大人な対応がナチュラルにできて、足の組み方さえももうセクシー……」  大きな瞳をキラキラさせて畳みかけるその姿に、“乙女の恋心”という青森にとっての脅威が垣間見える。県内に、舘ひろし似の殿方が現れれば、一件落着ということで! 王林さんの「今年の抱負」。「この言葉は、りんご娘のときから自分のなかにあったんですけど、来年はもうちょっと海外の行き来もしやすくなると思うので。音楽なんかは全国全世界共通するものだし、王林なりに発信できたらなって思う」 (本誌・大谷百合絵) ※週刊朝日 2023年1月20日号の記事に加筆
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは 紫式部日記絵巻(模本) 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja   『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、当時の権力者である藤原道長と恋仲にあったという噂が根強くある。その根拠となるのは、彼女が残した実録『紫式部日記』に記された、ある夜の出来事だ。この日記には、道長への想いがほのめかされる他の箇所もある。ここでは、『紫式部日記』から、彼女と道長の関係を平安文学と紫式部に詳しい京都先端科学大学の山本淳子教授の新著『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか――』から抜粋・再編集して探ってみる(2024年1月7日に配信された記事の再掲載です)。 *  *  * 紫式部「御堂関白道長の妾?」 家系図集『尊卑分脈』の注記  十四世紀に成立した系図集、『尊卑分脈』。これで「紫式部」を調べると、藤原為時の子の一人として「女子」と大書した周りに、注として次の言葉が記されている。 歌人 上東門院女房 紫式部是也 源氏物語作者……御堂関白道長妾云々 (歌人。上東門院彰子の女房〈侍女〉。紫式部がこの人である。『源氏物語』の作者。……御堂関白藤原道長の側室という)(『尊卑分脈〈そんぴぶんみゃく〉』第二篇第三 良門孫) 「妾」は、現代の「愛人」ではない。あくまでも公認された妻の一人、しかし正妻ではない関係を言う。この資料は、紫式部が道長とそうした関係にあったと言うのである。しかしそこには「云々」が付いているから、これは伝聞である。『尊卑分脈』が作られた時、まことしやかにそうした噂をささやく輩がいた。それは現代にまで伝えられて、二人の関係は様々に勘繰られている。  それにしても、火のないところに煙は立つまい。噂の発生源はどこなのかと言えば、それは紫式部自身の記した実録『紫式部日記』である。以下に記す通り、そこにはある夜、道長らしき人物が彼女の局(つぼね。部屋)を訪れたことが記されている。だが、彼女は戸を開けなかったとも記されている。しかしそれが火種となって、「いや、本当は戸を開けて道長と一夜を過ごしたのだろう」「いやいや、この夜拒んだというのは本当だろう。だが後々まで招き入れなかったという証拠はあるまい」などと、かまびすしい諸説を巻き起こしているというわけである。ちなみに、後者は先年亡くなった瀬戸内寂聴尼から、生前、筆者が直接うかがった説である。「紫式部が道長を拒む理由は何一つない」と寂聴尼は言われた。  とはいえ、彼女が道長を拒まなかったと考える根拠はあるのだろうか。たぶん、ある。そう筆者は考えている。それも同じ紫式部自身の遺した言葉の中に、少なくとも彼女の側には、道長を想っていた形跡が窺える。紫式部の彼への気持ちがどのように彼女の中に芽生え膨らんでいったか、そのことは当時の男女関係ではどのような意味を持つものであったかを考えてみたい。 「好きもの」紫式部 『紫式部日記』は、四つの部分から構成されている。最初が彰子(しょうし。道長の娘で、紫式部が仕えた皇后)の出産など道長家の晴れの出来事を記す寛弘五(一〇〇八)年から同六年にかけての記録、次は有名な清少納言批判などを記すエッセイ、それに続いて年次を記さない短い記事群があって、最後には寛弘七(一〇一〇)年の道長家の記録が置かれている。  問題の箇所は三つ目の「年次不明記事群」にあり、道長らしき人による「局訪問事件」はその末尾に記されている。ただ、そこにはこの訪問者が道長であるとは記していない。推理するためには直前の記事から読み始める必要がある。 源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせ給へる、   すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ 給はせたれば、   「人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」 と聞こゆ。 (『源氏の物語』が中宮様の御前に置かれていたのを道長様がご覧になって、いつもの戯れごとを口にされるついでに、おやつの梅の実の下に敷かれていた懐紙に、こう書きつけられた。   梅の実は酸っぱくておいしいと評判だから、枝を折らずに通り過ぎる者はいない。さて『源氏物語』作者のお前は「好きもの」と評判だ。口説かずに通り過ぎる男はいないと思うよ 殿がこの和歌を私に下さったので、私は申し上げた。 「あら、この梅はまだ枝を折られてもいないのに、誰が『酸っぱい』と口を鳴らしているのですか? 私だって同じ。まだ殿方とお付き合いをしたこともございませんのに、どなたが『好きもの』などと言い慣らわしているのでしょうか? 心外ですこと」) (『紫式部日記』年次不明記事群)  きっかけは、彰子が自分の部屋に置いていた『源氏物語』だった。道長はそれに目を留め、折しも御前にいた作者の紫式部をからかったのである。『源氏物語』は、色好みの主人公・光源氏の面白おかしい恋愛遍歴を綴った物語だと、道長は思っていた。彼は『源氏物語』を読んでいたか、少なくともあらすじは知っていたのである。そこで手頃な紙を探し、折よく彰子のために用意されていた完熟の梅の実の下からすっと懐紙を抜き取ると、すらすらと和歌を書いて紫式部に示した。道長は日常生活のなかで、こうした風流を楽しむ人物だったのである。  しかもその和歌は、梅の実と紫式部を表裏に掛けた優れものだった。梅は甘酸っぱく、人に好んで折り取られる。同様にお前は「好きもの」で、男から好んで誘われるのだろうと。『源氏物語』の作者であるからには実際の恋愛経験も豊富なのだろうという、からかいである。現代の世でこうしたことを小説家に言いかけたりしたら、即座にセクハラと指弾されよう。道長の場合は紫式部のスポンサーでもあったので、パワハラでもある。  しかし、紫式部はいわゆる〈#わきまえない女〉だった。大人しく黙っているのではなく、即座に和歌で言い返したのである。ただ、平安時代にはこうした切り返しこそが女房としての〈わきまえ〉の見せどころとされていたから、これは道長の期待に応える態度でもあった。彼女は道長の和歌の隣に、これもさらさらと書きつけたのだろう。彼の和歌の趣向をそのまま受けて、梅の実と自分を掛けた和歌である。梅の実と言っても、まだ枝を折られてもいない場合には、酸いかどうかはわからない。そのように、自分は男に手折られたことがない――男を知らない〈乙女〉。なのに、「好きもの」だなんてどういうことでしょう? 紫式部が過去に結婚し子供ももうけていることは、その場の誰もが知っている。だからこの和歌は、「心外ですわ」とすねてみせる紫式部の演技も含めて、道長の大笑いを誘ったはずだ。  これは、『源氏物語』が生きて楽しまれていたことを示す一場面である。道長は『源氏物語』の内容を彼なりに踏まえ、作者を彼なりに認め、持ち上げた。その空気は、紫式部の作者としてのプライドを満足させただろう。返歌での切り返しも見事にできた。  だからこそ読者は、そこにはただの色事ではない、『源氏物語』風の空気を感じ取る。紫式部の返歌に笑いながら、道長の目には彼女への関心が宿ったのではないか。この作者、面白い女だ――とばかりに。読者の予感は、『紫式部日記』の次の場面への展開によって確信につながる。 真夜中の戸  続く記事は、次の通りである。 渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて、   夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる 返し、   ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ あけてはいかに くやしからまし (渡殿〈わたどの〉の局で寝ていた夜、聞けば誰かが戸を叩いている。おそろしさに、私は声も出さず夜を明かした。すると翌朝、次のような歌を受け取った。   一晩中、私は泣きながらあなたの部屋の戸を叩きあぐねていました。あの、戸を叩くような声で鳴く鳥の水鶏〈くいな〉より、もっと激しく泣いていたのですよ 私はその場で返事を書いた。   ただ事ではない、確かにそう思わせる叩き方でしたわ。でも本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう? そんな水鶏さんですもの、もし戸を開けていたらどんなに後悔することになっていたでしょう) (『紫式部日記』同前)  渡殿は、紫式部が道長の邸宅土御門殿(つちみかどどの)滞在中に局を与えられていた場所である。その戸を、真夜中に叩く音。それも何度も、忍びやかに、しかし性急に。男だと、紫式部はすぐに気づいた。だが怖くて逢瀬を拒んだというのである。そして翌日の和歌のやりとり。昨夜の冷たい仕打ちを詰りつつも、まだ未練たっぷりの男の和歌に、紫式部は切り返す。あなたを部屋に入れないで良かったと。  戸を叩いた人物が誰だったかを、『紫式部日記』は明かしていない。もちろん、彼女自身はわかっていたに違いない。翌朝の和歌はどのようにして届いたのか。そのこと一つだけでも、推測は成り立つ。だから当然、意図して書かなかったのだ。だが、前の「梅の実」のやりとりから続けて考えれば一目瞭然だ――。そう思った読者たちは、これを道長と紫式部のラブ・アフェアと断定した。その約二百年後の鎌倉時代(十三世紀前半)、藤原定家が撰者を務めた勅撰集である『新勅撰和歌集』は、この二つの和歌を「恋」の部に載せ、「夜もすがら」の作者は「法成寺入道前摂政太政大臣」つまり道長、返歌の「ただならじ」は「紫式部」とはっきり示している。現代にまで及ぶ「御堂関白道長妾云々」疑惑は、こうして始まったのだった。
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉永遠のライバル「清少納言」にあって「紫式部」になかったものは何だったのか
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉永遠のライバル「清少納言」にあって「紫式部」になかったものは何だったのか 清少納言。画像はイメージ(PIXTA)  大河ドラマ『光る君へ』に、ついに紫式部の永遠のライバル清少納言が登場する。北条政子や、豊臣秀吉の妻・おね、室町期の日野富子など、日本の歴史を動かした魅力的な女性を題材に、数々の傑作歴史小説を描いてきた永井路子さん。古代から幕末まで、日本史上で知られた女性33人の激動の生涯と知られざる素顔とは? 朝日文庫『歴史をさわがせた女たち 日本篇』から一部を抜粋・再編集して公開します。(2022年12月26日に配信されたものの再掲載です)  清少納言は、紫式部と肩を並べる王朝の才女といわれている。しかも、紫式部が、彼女について痛烈なワルクチを言っていることは先にご紹介したとおりである。 「ひどく高慢ちきで、生かじりの漢文なんか書き散らすイヤーナ女!」  たしかに清少納言には、そう言われてもしかたのないところがある。たとえば、彼女の仕えている中宮定子(一条天皇のお后)が、ある雪の日、こう言った。 「少納言よ、香炉峰の雪はいかに?」  すると彼女はしたり顔で進み出て、定子の前の簾をスルスルと巻きあげ、大いにおほめにあずかった。というのは中国の古典に、 「香炉峰ノ雪ハ簾ヲカカゲテミル」  という文句があるので、それを実演してみせたのだ。その文章は知っていても、機転のきかない同僚たちは、ポカンとしてそれをみつめていたに違いない。  清少納言は、その著「枕草子」の中にトクトクとしてそれを書きつけているが、これなどもいや味といえばいや味である。  紫式部ならずとも、これでは胸がムカムカする。「枕草子」の中には、こんなふうにガクをふりまわす所がたくさんあるのだ。  清少納言のもう一つのご自慢は、ウイットに富んだ会話である。中宮定子の後宮には、高位高官がしきりに出入りするが、それらのご連中をむこうにまわして、いかに自分が気のきいた会話のやりとりをし、みなを感心させたか――。  知ったかぶりで、軽薄で、おめでたくて……まさに現代女性そのままの、清少納言!これが平安朝を代表する才女の実態なのか。  おしゃべりで、おっちょこちょいなサロン才女――これでは清少納言に敬意を表する必要はどこにもないではないか……私は長いことそう思っていた。  たしかに「枕草子」の中には気のきいたことがいろいろ書いてあるが、それも単なる機知以外ではないと。さらに何となく気にさわるのは、彼女が受領階層の出身でありながら、その連中について、実に冷たい書き方をしていることだった。  彼女は清原元輔という中級官吏の娘である。清少納言の「清」の字は、すなわち、清原家の出身であることをしめしている。父の元輔は「百人一首」のなかに、  ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ……  の歌を残している歌人だが、役人としては、あまりうだつがあがらず、六十七歳になって、やっと周防守(現在の山口県のあたりの地方長官)に任じられた。彼女は元輔の晩年の子で、少女時代、父に従って任地へ下ったらしい。  それ以後の人生経路は、はっきりしないが、同じくらいな階層の中流官吏橘則光と結婚し、何人かの子供を産んだあと、宮仕えの生活にはいり、とかくするうち何となく別れてしまったようだ。  こう見てくると、彼女は根っからの中流階層だ。にもかかわらず「枕草子」の中にこの階層の人間について書くとき、その筆は決して好意的ではない。 「センスがなくて、ことばづかいを知らなくて……」  とさんざんにけなしている。まるで宮仕え以来、彼女自身が上流貴族の仲間入りしてしまったかのようだ。  中宮とか、そのまわりにいる大臣などのことは、手ばなしのほめようなのだが、たとえば、何かの官にありつこうとして走り回る連中、つまり彼女の父親たちの階層の姿は突き放した目でみつめている。  髪の白くなった老人が、つてを求めて、宮中の女房の所へやって来て、自分にはこんな才能があるなどと、くどくど言っているのを、若い女房が小ばかにして、その口まねをするが本人は気がつかない――などというのは、現代に変わらぬ就職運動を描いてなかなか痛烈だ。 「こんなふうに、まるでひとごとのように書くのは、自分が上流階級にはいったつもりでいるからだ。つまり成り上がり根性だ」  学校でそう教わりもし、私もそう思いつづけて来た。  軽薄な、成り上がり根性の、いやな女――。  が、それだけだったら、私はこのシリーズに、彼女をとりあげはしなかったろう。  しかし「枕草子」を読んでいるうちに、少しずつ考え方が変わって来た。たしかに彼女は軽薄で、いい気なところのある女性だが、それとともに、彼女以外のだれにも与えられなかった、すばらしい天賦の才の持ち主であることに気がついたのだ。  清少納言だけに与えられた天賦の才――それは感性のするどさだ。宝石のきらめきとでも言ったらいいだろうか。  例をあげよう。彼女は「うつくしきもの」として、 「おかっぱの髪が、顔にふりかかるのをかきあげもせず、首をかしげて物に見入る子供」  をあげている。「うつくしきもの」とは現代の「かわいい」と「美しい」をかねたような意味だが、なにげないことばで、いかに巧みに、幼子のあどけない凝視を描きつくしているか、子供をお持ちのおかあさまなら、おわかりになるだろう。そして、この幼子の凝視は、清少納言自身の凝視でもある。  こうした、さわやかな感性をあげだしたらきりがない。そして、この部分にこそ、彼女の天分はあますところなく表われている。サロンの中での手がら話だけに目を奪われているとしたら、宝石の中から、わざわざ石ころをえらびとっているようなものだ。  かといって、私は彼女の軽薄さやおめでたさまで弁護しようとは思わない。ただ言いたいのは、人間にはそうした欠点と天分とが時として同居するということだ。紫式部が何と悪口を言おうと、彼女はホンモノの才女なのである。  では紫式部と清少納言と、どちらがすぐれているか? これはなかなかの難問だ。紫式部には一目一目編み物をしてゆくようなたんねんさがあるが、清少納言には、ずばりとナイフで木をえぐりとる鋭さがある。紫式部を、冷静な瞳と深い知識を備えた優等生型とするなら、清少納言は感性を武器にした天才型だ。  そう思って読んでみると、例の鋭く速いタッチの中に、ふしぎに透徹した非情さが、にじみ出ていることに気がつく。これは清少納言独特のもので、紫式部ではこうはいかなかったろう。じめじめした感傷をまつわりつかせないこの力量は、日本では珍しい感覚である。  これを、受領階級の悲しみを知っている清少納言が、わざと悲しみをおさえて突きはなして書いたのだ、という見方もあるが、少し考えすぎで、かえって彼女の本質をとらえていない読み方だ。 「顔で笑って心で泣いて……」  といったナニワ節調がないのが、清少納言の清少納言たるところなのだ。  彼女は、むしろ無邪気だ。その突き放した明るさが、たくまずして人生の真髄に迫るのだ。彼女はきっと、明るくて、多少おっちょこちょいな童女めいた女性だったのではないだろうか。が、童女の目が時としておとなより残酷に真実を見すえるように、鋭いきれあじで人生のベールをはぎとってみせてくれる。  私はむしろ、現代の女性の方々に「源氏物語」よりも「枕草子」をよむことをおすすめしたい。だいいち「源氏」よりずっと読みやすいし、現代に通じる警句があちこちに散らばっているからだ。 「めったにないもの、舅にほめられる婿、姑に思われるよめの君」  とか、 「憎いもの。急ぎの用の時長居する人」  などのケッサクがあるほか独特の恋愛美学もズバリと語られている。彼女には、美しいものとそうでないものを区別する、天才的な勘があったらしい。千年前に生きながら、彼女の感覚は今でもとびぬけて新鮮である。
【大河ドラマ「光る君へ」本日第6話】紫式部と清少納言「二人の才女」を生み出した必死のお后教育
【大河ドラマ「光る君へ」本日第6話】紫式部と清少納言「二人の才女」を生み出した必死のお后教育 女性たちは外見を磨くことにも時間をかけた。長くたっぷりとした黒髪、白い肌、ふっくらとした丸顔に丸いおでこが理想とされた(東京国立博物館蔵/ColBase)  2024年の大河ドラマ「光る君へ」も2月11日の放送で第6回。清少納言(ファーストサマーウイカ)も登場し、いよいよ、まひろ(吉高由里子)こと紫式部の才女ぶりが描かれていく。  平安貴族のお姫様というと、美しい着物をまとって和歌を詠み、毎日邸宅で女房相手に遊んだり読書をしたり、のんびりと生活しているというイメージが強い。しかし彼女たちの人生は、現代人が想像するよりかなり大変なものだった。今回は、当時の女性たちを取り巻く環境について、『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)からリポートしたい。 ***  平安貴族の女性は、生まれてから死ぬまでほとんど家の外にすら出られなかった。彼女たちの最大の役割は、結婚して子どもをつくることだったためだ。結婚相手も誰でもいい、というわけではない。より高貴で才能がある男性との結婚は、妻となる女性だけでなく、その親族にも栄華をもたらした。そのため平安貴族は、魅力的な男性と釣り合うだけの教養を身につけさせようと、熱心に女子を教育した。  まずは、和歌だ。恋愛の始まりは和歌のやりとりからだったため、和歌のセンスは婚活の必須条件だった。そのためにはさまざまな知識や教養が必要。『古今和歌集』に収められた1111首、すべての和歌を暗記した強者もいたという。  この時代の交流は手紙が基本。和歌や手紙を渡す際、文字が美しいと相手の印象も大きく変わるということで、品格や教養の深さ、センスの良さが伝わる美しい文字を書くことは、非常に重視された。  行事で楽器を演奏する機会が多かったので、演奏のうまさも婚活で見られるポイントだった。特に人気だったのは琴だ。夜、女性の邸宅の前を通りかかった男性が、邸内から漏れてくる音色を聴いて恋に落ちるシーンが、物語にも描かれている。 後宮は、天皇の寵愛(ちょうあい)を受けようとする女性たちの嫉妬が渦巻いていた。紫式部は皮肉に気づかないふりをしてイジメを回避したという(イラスト 夏江まみ)  結婚後は夫の着物を選ぶのも、相談に乗るのも妻の大事な仕事だったため、ファッションセンスの有無や言葉遣い、トークのセンスも求められた。  結婚できても安心はできない。違う女性のもとに通われ、捨てられるというのもよくある話だった。なかでも、夫の秘密をいいふらす妻は、出世の足手まといになるため離婚が許された。父や夫の都合で、強制的に引っ越しをさせられることもあったし、後ろ盾である父を亡くすと、日々の食事に困るほど落ちぶれてしまうことも多かった。  平安貴族の女性は、男性の都合で人生が決まるといっても過言ではなく、入内(後宮入り)がかなったとしても、それはそれで苦しむことが多かった。下級貴族の娘が天皇に目をかけられでもすると、他の后たちから陰湿なイジメを受ける可能性があったからだ。『源氏物語』にも、天皇のもとへ向かおうとする女性を通せんぼするというイジメの場面が描かれている。  そして、お姫様に仕える女房も苦労が多かった。女房たちは自分の主人がばかにされないよう、センスや知恵を磨いてお姫様の顔をたてる必要があった。そんな女房から紫式部、清少納言といった英才女子が誕生したのだ。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希)
〈ベストセレクション〉東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生
〈ベストセレクション〉東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生 博士課程修了式の日に息子とともに(小野悠さん提供)  科学ジャーナリストの高橋真理子さんが、女性科学者の仕事へのこだわりと熱意を引き出しながら人生に迫った人気連載「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」。その道を切り開いた人たちの言葉は多くの読者をひきつけた。中でも反響の大きかった回を大学受験シーズンで学問への関心が高まるいま、ベストセレクションとしてお届けする。今回は都市工学者の小野悠さん(この記事は、2023年2月7日に配信した内容の再掲です。年齢、肩書等は当時)。 * * * 「日本の科学を、もっと元気に!」を合言葉とするNPO法人「日本科学振興協会(JAAS=ジャース)」が昨年、誕生した。官製やお仕着せではなく、日本の科学の活性化に関心を持つ人たちが自主的に集まった組織である。昨年6月には熱気あふれるキックオフ会議を東京・お台場の東京国際交流館で催した。オンラインを含めた延べ参加者は3000人超。その開会式の壇上に第1期代表理事として、ラフなTシャツ姿で現れたのが都市工学者の小野悠さん(39)だ。豊橋技術科学大学(愛知県)の准教授で、研究室ホームページを見ると「学生時代にアフリカ、アジア、南米など約70カ国を旅し、博士課程在学中にナイロビのスラムで暮らす」とある。一体どんな人なんだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) ――どういう研究をされているのでしょう?  対象にしているのは、インフォーマル市街地といって、法律や制度の外側で自然発生的に形成される都市です。こういうところは衛生環境や貧困などの課題を抱える一方で、日本の都市にはない魅力を見せるんです。住む人たちがどういう視点で空間を形成し、ルールを維持しているのかを調べることで、そうした魅力の要因を探り、今後の都市計画に生かしていけたらと考えています。調べるには現地に行って住民と信頼関係を築くことが不可欠で、アフリカやインドでフィールドワークをしつつ、一方で日本の地域づくりプロジェクトにも関わってきました。  こういう体験が、何もないところから新しい組織をつくるのに役立つかなと思って、準備委員会(*)をつくるときに「委員長やる?」と聞かれて「やろっか」と答えてしまいました。 (*)「日本版AAAS設立準備委員会」は2021年2月に発足。「AAAS(トリプル・エー・エス)=アメリカ科学振興協会」とは、1848年に創設された全分野の科学者が集う米国の組織。雑誌「サイエンス」の発行母体でもある。  私は2017年に豊橋技科大に着任し、そのころに日本学術会議の連携会員になって、情報が入ってきた。最初の集まりは東大で開かれたので参加できなかったんですが、コロナ禍になってオンライン会議が頻繁に開かれるようになり、こちらもコロナで時間ができたので、積極的に参加しました。 日本科学振興協会キックオフミーティング開会式で壇上に立つ小野悠さん(JAAS提供) ――委員長を引き受けて、どうでした?  大変でした(笑)。その当時、みんなで決めたことがいつの間にかなかったことになって誰かの意見が通っているみたいなことがよくあって、すごくもめた。それで、まず最低限のルール、何をもって決定とするのか、その決定事項を変えたいときはどうすればいいのか、といったことから決めていきました。  集まっているのはいわゆる自然科学系の人ばかりで、こういう経験があまりない人が多かった。 ――それで見事に任務を果たしたのは素晴らしい。準備委員会委員長からそのまま代表理事になって、でも1期だけで退いたんですね。  かなり悩みました。代表理事は男女2人で務めることになっていて、女性でやってくれる人はあまりいないだろうと勝手に責任感みたいなものを感じていたんですけど、コロナが落ち着いてきて、海外出張も入ってくるだろうし、学術会議も忙しくなる時期で、とても無理かなあと思って。「何で立候補しないんですか、困ります」みたいなことは言われましたが……。 ――なんだか、いつも自然体でいらっしゃる。  私は計画しないタイプで、これまでの人生けっこう紆余曲折あったんです。父親は東大卒ですが、やっぱり紆余曲折あって。私は小さいころから父によく似てると言われていました。私、いまはバツイチのシングルマザーです。 ――え! いきなりそこに行かないで順番にお伺いしましょう。お生まれは?  岡山市です。両親と2学年下の弟の4人家族で、母は県庁の総合職で定年まで勤めました。父は小児科医です。最初はロケットを作りたくて阪大を目指したらしいんですけど、1浪している間に社会に関心が出てきて東大の経済に進んだ。入ってみたら学生運動末期で、それに少し関わり、卒業後は岡山に戻って県庁に就職し、母に出会って私と弟が生まれた。  それから、私が病弱だったこともあり、働きながら受験勉強して岡山大の医学部に入りました。私が保育園のころです。医者になってしばらくして開業し、今は全部後輩に譲って、趣味とかやりたかったことをやっています。 ――へ~。  子ども心に「変わった親だな」と思ってました。うちには車がなく、テレビもなかった。テレビがないことにしんどい思いはありました。劣等感というか。小学校では、みんなの話についていけない。SMAPも見たことなくて、なんか5人いるらしい、ぐらいしか知らない(笑)。両親に「何でテレビがないの?」って聞いたんですけど、「うちに必要ないから」って。  海外旅行には保育園のころからよく連れて行ってもらいました。どこだったかパッと出てきませんが、アジアの島に4、5回かな。中1のときにフィリピンに行ったのが家族での最後の海外旅行でした。  それで小学生くらいから世界の貧困問題とか紛争とかに関心を持ち、図書館で「国連で働くには」とか「外交官の仕事とは」みたいな本を借りて読んでいました。そのうち、現場の状況と国際的に決まる政策とはかなりギャップがあるとわかってきて、自分の目で見て自分で判断できるようになりたいと思うようになった。 ――それ、小学生のときに思ったんですか?  そうですね。ちょっとませてたかもしれない。 高校2年生のときに行ったトルコの自給自足の村で搾りたての生乳で作ったチーズを食べる(小野悠さん提供)  中2で1カ月ぐらいオーストラリアにホームステイして、中3では中国の洛陽に1カ月弱ホームステイしました。高1のときは高校のプログラムで英国に1カ月行き、高2ではトルコに行きました。これはプログラムでも何でもなく、知り合いのつてでホームステイできるというので行ってみたらおばあちゃん3人暮らしの家で、同世代の子どももいないし、ここにずっといてもなあと思って1人でトルコを1周しました。お金がなかったので、宿代を浮かせるために夜行バスを乗り継いで、バスがないと町で出会った人に「すみません」みたいな感じで家に泊めてもらいました。 ――えっ、トルコ語でしょ、そこ。  トルコ語です。どうしてたのか。多分、通じてはいなかったと思うんですけど。  そのうち自給自足の生活をしているようなところに行きたくなって、途中で出会った人がうちの親戚はそういうところに住んでるよと教えてくれたので、バスで行きました。あとあと調べると、トルコの一番東のクルド人エリアだったんじゃないかと思うんですけど、どうやって連絡をとって行ったのかもはやわからない。親にも1カ月全然連絡してなかった。 ――基本的に夏休みに行ったわけですよね。  はい。終業式の前から宿題をやって、3日くらいで片付けて行ってました。 ――そうすると、クラブ活動はやらなかったの?  スポーツ少女だったんですけど、学校の部活は合わなかった。スポーツクラブで小学生のときは水泳、中学時代は硬式テニスをやっていた。高校に入るとき、Jリーグが盛り上がっていて、弟ともよくサッカーをやっていたので、男子サッカー部にちょっと入れてもらった。そうしたらすごく体力差っていうか体格差を痛感して、そのとき初めて女性と男性の違いを認識させられて、かなりショックな出来事でした。  で、バスケ部に入りました。と同時に、中3ぐらいからマラソンにはまってて……。マラソンはもともと両親がやっていて、朝に1時間とか走り込んでそれから高校で朝練、また夕方練習みたいなことをしていたら、膝を壊しちゃって。整形外科に行ったら、どっちかにしなさいって言われて、バスケは高2ぐらいでやめました。  高校のときにもう一つやっていたのが料理です。母親は休日にはボルシチやピザなど当時としては家庭であまり出ない料理を作ってくれることもありました。でも、ファミリーレストランとかに行かない家だったから、オムライスとか明太子クリームパスタとかに憧れがあって、それを食べたいと思ったら自分で作るしかない。他にも、粉からパンを作ったり、お菓子を作ったり、麺を作ったりするのがすごく面白くて。  それで、料理人になりたいと思って、調理師学校の入学資料を取り寄せて、どうしようか悩んでいた。そういう相談はよく父親にしていたんですけど、父は決して否定せず聞いてくれました。  結局、決断できずに高3の秋にひょんなことから東大に行こうと決心した。それから勉強しても1年目は普通に落ちました。それで東京の予備校へ。それまで勉強していなかった分、成績はどんどん伸びて、数学と物理が好きで理I(工学部・理学部進学コース)に入りました。  ところが、受かってから目標がなくなってしまって総崩れしたというか、学部を卒業するのに7年かかっているんですよ。 ――まあ!  いま考えると、かなり鬱っぽくなっていた。過食症だと思うんですけど、全然自分をコントロ―ルできない状態で、体重も倍ぐらいになった。ただ、大学では部活をちゃんとやりたいと思って、ビッグバンドジャズのサークルに入りました。子どものころからピアノはやっていたんですけど、先輩に勧められてあまり人気のないトロンボーンをやることにしました。 ――トロンボーンって難しいでしょう?  そうなんです。後から失敗したと思った(笑)。でも、最初に「やめない」というのを目標にしたから、居座ったっていう感じで、3年目にはバンドマスターをやって。大学には来ていたし、孤立していたわけではないんですけど、授業にはあまり行かなかった。  で、1年留年して、そのあと休学にしたのかな。サークルが3年目の12月で終わりなんです。もともと大学に入ったらバックパッカーをやりたいってずっと思っていたので、サークルを引退したらすぐ旅に出ました。  中国から入って、その後、アラビア半島に飛んでUAE(アラブ首長国連邦)、オマーン、イエメン、それからエジプトで高校時代の友達に会って、いったんイエメンに戻って現地で仲良くなった友人の結婚式に出た。そこから今度はアフリカに飛んでエチオピアとケニアを回って帰国しました。だいたい半年くらい。 ――お金はどうしたんですか?  アルバイトで稼ぎました。中東やアフリカはアジアと比べると物価も高いので、お金がすぐなくなる。なくなったら帰国して、またバイトして、お金をためて行く、というのを続けていました。 ――大学は全然ご無沙汰?  はい。家族には、もう辞めたいとか、やっぱり料理人になりたいとか話していました。 ――お父様は何と? 「今すぐ決めなくてもいいんじゃないか」みたいな感じ。それで、西アフリカのベナンという小さな国に行ったときに、大学に戻ろうと思う出来事があったんです。 【後編:東大在学中「恵まれた自分を卑下」して70カ国を放浪もフッと悟る 女性都市工学者39歳が向かう先】に続く。 都市工学者の小野悠さん 小野悠/1983年、岡山市生まれ。東京大学卒、工学博士(東京大学)。愛媛大学防災情報研究センター特定准教授、松山アーバンデザインセンター副センター長などを経て2017年に豊橋技術科学大学大学院工学研究科講師、22年1月から准教授。同年4月からは学長補佐も務める。インフォーマル市街地の研究で日本都市計画学会論文奨励賞や日本建築学会奨励賞などを受賞。日本学術会議連携会員(第25期若手アカデミー幹事)。日本科学振興協会(JAAS)第1期代表理事。
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで 数学者の石井志保子さん  科学ジャーナリストの高橋真理子さんが、女性科学者の仕事へのこだわりと熱意を引き出しながら人生に迫った人気連載「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」。その道を切り開いた人たちの言葉は多くの読者をひきつけた。中でも反響の大きかった回を大学受験シーズンで学問への関心が高まるいま、ベストセレクションとしてお届けする。今回は数学者の石井志保子さん。(この記事は、2023年1月17日に配信した内容の再掲です。年齢、肩書等は当時) *    *  * 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) ――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
注意喚起のつもりが「女性の敵」に 失敗学の教授が学んだ「柔らかい」コミュニケーション
注意喚起のつもりが「女性の敵」に 失敗学の教授が学んだ「柔らかい」コミュニケーション 不用意な発言で女性を呆れさせることも(※写真はイメージです Getty Images)    高齢化社会となり、老化のよるトラブルも顕著になる日本。そのうちの一つが、「老害」だ。失敗学の提唱者・畑村洋太郎氏は女性の知人から「女の敵」と言われたそう。その理由を畑村氏の新著『老いの失敗学 80歳からの人生をそれなりに楽しむ』(朝日新書)から、一部を抜粋・改編して紹介する。 *  *  * 【関連記事を読む】 #1 失敗学の第一人者が老いの問題には「“当事者の視点”が不可欠」だと主張 #2 失敗学の提唱者が気づいた「よい老い方」と「悪い老い方」 #3 失敗学の提唱者も納得 免許返納を勧めた家族が駆使した「知見」 #4 老化による会話の手抜きで生じる「身勝手な振る舞い」 #5 老人はなぜ自分の話ばかりをしたがるのか 失敗学の第一人者の気づき 女の敵といわれた  コミュニケーションでは、相手がどう受け取るかまでちゃんと考えないとトラブルになることがあります。加齢はコミュニケーション力を低下させるので、老いると配慮不足からトラブルにつながるケースが自ずと増えてきます。とくに注意が必要です。  私も思ったことをそのまま口にして、知人から注意されたことがありました。消費者庁の消費者安全調査委員会の委員長をしていたときのことです。なるほど「口は災いの元」というのは本当だとわかり、あらためて気をつけなければいけないと思いました。  消費者庁は内閣府の外局で、消費者に関する行政や消費生活に密接に関連する物資の品質表示に関する事務を行っています。二〇〇九年に設置された比較的新しい組織で、私は三年後の二〇一二年に発足した、消費者に関わる広範な種類の事故の調査に取り組むことを役割とする消費者安全調査委員会の初代委員長を務めました。私が長年提言してきた、刑事責任の追及ではなく、事故の再発防止につながる調査を目的としている珍しい組織で、「消費者事故調」と呼ばれることもあります。 【こちらも話題】 健康、お金、孤独の「3大不安」を軽減するには 「老後」という考え方をやめるメリット https://dot.asahi.com/articles/-/213016  安全調査委員会の役割は、調査すべき事故の選定から調査方法、そして調査結果の考察などです。委員長の私にはそれ以外に、対外的な情報発信の仕事がありました。定期的に行われる記者会見で、事故調査の結果などを発表する役割です。またテレビカメラが入って行われる公式な記者会見の後も、時間をつくってその場に残って丁寧に取材をしてくれる記者さんたちに安全調査委員会の調査のあり方を丁寧に説明したり、質問に応じたりしていました。  この会見とその後の質疑応答などの内容は当然、新聞やテレビなどで報道されます。私の発言は会見後の個別の取材のときのものを含めて、各メディアの判断で部分的に切り取られたり、要約されたりしながら使われました。それは当たり前のことで、どんな形であろうと世の中に広く注意喚起できればいいと考えていました。しかし、そのことで知人から面と向かってお叱りを受けるとは思いもよりませんでした。  お叱りを受けたのは、毛染めによる皮膚障害、要するに白髪染めのトラブルに関する会見を行ったときの報道に関してです。いわゆる白髪染めは、皮膚に障害を発生させる危険性が高く、実際に多くの製品でトラブルが発生していました。もともと危険なものであることを知りながら、それよりも「きれいに見られたい」「若く見られたい」というのを優先して多くの人が使っているのが現実です。記事の中での私の具体的な発言は覚えていませんが、どうもそのことに触れたのがまずかったようで、合唱仲間たちと練習後の打ち上げでお店に入って談笑しているときに、ある女性から「あなたは女性全員を敵に回している」「発言には気をつけたほうがいい」と笑いながら注意されました。 【こちらも話題】 92歳の父はなぜ、こんなに元気なのか 医師が親を分析して見つけた「4つの理由」 https://dot.asahi.com/articles/-/213015  最初はよくわからなかったものの、いろいろと考えているうちに「そういうことか!」と得心がいきました。私に言われるまでもなく、白髪染めの危険性は、使ったことのある人はよくわかっています。それでも若く見られるため、美しく見られるために必要なので、世の多くの女性は自分なりに考えながら上手に付き合っています。その領域に、私のように自分で使ったことがない、いかにも場違いな男性がずかずかと入ってきて、権力を振りかざしながら「これは体に害のある危険なものなんだ!」「危険なものは最初から使わないようにしないといけない!」と無神経かつ偉そうな講釈を垂れているように報道上は見えていたから、「女の敵にならないように気をつけなさい」と注意してくれたのだと思いました。  知人の見た記事の中の発言は、本来の意図と違っていようといまいと、まわりからは間違いなく私のものと見られます。危険性のあるものの注意喚起をするのは大事なことで、それが当時の役割ですから、割を食うことがあっても構わないと考えていました。一方で、受け取り方はやはり人それぞれというのをこの一件であらためて学ぶことができました。このケースは一対世の中全体なので、誤解が生じても仕方がありませんが、一対一のコミュニケーションではそうならないようにより注意しなければいけないと思いました。 「ふーん」という口癖  コミュニケーションに関する老害のパターンには、その場の空気や相手のことを考えない振る舞いや発言で、雰囲気を悪くしたり、相手に不快な思いをさせたり怒らせるというのもあります。先ほどのケースは報道を通してのものなのでちょっと違いますが、誰かに不快な思いをさせたという点は同じです。  こういう問題を避けるためのテクニックとして、不特定多数が見ているテレビなどでは断定的な物言いを避けて、「かもしれない」といった曖昧な表現を使うことが多いという話を聞いたことがあります。まるで事なかれ主義のようでどうかと思いますが、強い言い方や決めつけのような物言いでまわりに不快な思いをさせることが多い人は、さじ加減を覚えるために多少見習ってもいいのではないでしょうか。  先ほどの一件に懲りたわけではありませんが、いつの間にか私も柔らかい表現を使うようになっていました。自分では意識しておらず、まわりから指摘されて気付きましたが、いつの頃からか「ふーん」というのが口癖になっていました。使い方は独特で、相手の話への反応や返答にストレートに使うのでなく、なにかの出来事などに対する感想を伝えるときに「ふーん、だよね」という物言いをするようになりました。 【こちらも話題】 寝られない、イライラ、食欲不振…加齢も自律神経の乱れの原因 「ゆっくり」を意識してリラックス https://dot.asahi.com/articles/-/213108  この場合の「ふーん、だよね」の意味をあらためて自分なりに考えてみると、新たに出会った知識や概念などに対する「はじめまして」の挨拶のようなものだと思いました。それまで自分の頭の中にないものが初めて頭の中に入ってくるとき、どんなふうに応対をすればよいかわからず困ります。ストレートに「いらっしゃいませ」とか「お初にお目にかかります」というのもおかしいので、受け入れる最初の印として「ふーん」を使っていたのです。  こういうとき、以前なら「そんなこともあるんだね」と、もっとはっきりとした物言いをしていたでしょう。曖昧な表現には、攻撃性や厳しい批判などのトゲトゲしいものをオブラートに包んで和らげる効果があるので、いつの間にか「ふーん」を使うようになっていたのかもしれません。  私の分析を事務所のスタッフに話したところ、話をしていてピンとこないときにも「ふーん」を使っていると指摘されました。理解できない話や意見などに対しても、「よくわからない」とはっきり言わず、「ふーん」で返していたので、どうやら状況に応じて「ふーん」の使い分けをしていたようです。白黒はっきりさせるべきときに使うとおかしな感じがしますが、そうする必要のないコミュニケーションでは、波風を立てないためにこういうものを使うのは案外大事なのかもしれません。  ただし、使う場合は、それなりに場の雰囲気を読んだり、相手の反応を見極めることが必要です。空気を読まずに曖昧なことばかり言っていると、まわりを不快にさせたり、場合によっては認知症の疑いをかけられかねません。本当に気をつけなければいけないことばかりで面倒です。 【関連記事を読む】 #1 失敗学の第一人者が老いの問題には「“当事者の視点”が不可欠」だと主張 #2 失敗学の提唱者が気づいた「よい老い方」と「悪い老い方」 #3 失敗学の提唱者も納得 免許返納を勧めた家族が駆使した「知見」 #4 老化による会話の手抜きで生じる「身勝手な振る舞い」 #5 老人はなぜ自分の話ばかりをしたがるのか 失敗学の第一人者の気づき
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感 屋外用の「インスタントハウス」。一人でも1時間で組み立てられる    能登半島地震で段ボール製の簡易住宅「インスタントハウス」が大活躍している。組み立ては15分、原価は約1万円で、屋根と扉、窓もついた小さな「家」だ。被災地の子供は「体育館におうちができた」と話しているという。インスタントハウスはどうやって生まれたのか。開発した名古屋工業大学の北川啓介教授に、フリーライターの川内イオさんが取材した――。 絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感  元日に起きた大地震の影響で、およそ600人の被災者が身を寄せる石川県輪島市の市立輪島中学校。雪が積もるその中庭に、不思議な形の建物がたたずんでいた。モンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居「ゲル」のようにも見えるし、卵の卵白を泡立てたメレンゲのようにも見える。 この建物は、「インスタントハウス」という。考案したのは、名古屋工業大で教授を務める建築家、北川啓介さん。1月2日から被災地で被災者支援にあたっている彼が建てたものだ。  インスタントハウスは、空気を送り込むと風船のように膨らむよう設計されたテントシートの内部に、断熱材として一般的に使用されている発泡ウレタンを直接吹き付けている。直径は5メートルあり、床面積は20平米、高さは4.3メートル。原価は15万円、北川さんひとりで施工しても、わずか1時間で完成する。  インスタントハウスに足を踏み入れた時、思わず「あっ」と声をあげてしまった。外はダウンジャケットが欠かせない気温なのに、内部は小型のファンヒーター一台で、上着を着ていると汗ばむほどに暖かい。発泡ウレタンのなかにある無数の気泡が空気のバリアを作って、冷気を遮り、ヒーターの熱を留めているのだ。壁から天井まで全体が白くモコモコしているせいか、絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感もある。 屋内用は15分で組み立てられる  輪島中学校のアリーナには、屋根と扉、窓がついたダンボール製の小さな家が置かれていた。これは、北川さんが編み出した室内用インスタントハウス。大人と一緒なら子どもでも組み立て可能で所要時間15分、要望に合わせて形状を変えられて、ハウスとハウスの連結も可能というすぐれもので、原価は約1万円。 「屋根がついている避難所のブースって、ほぼないんですよ。でも壁だけより、天井とか屋根があった方が保温性も高いし、心も休まるし、家に帰ってきたという感じになりますよね。子どもでも作れるようにしたのは、避難所に身を寄せられてる皆さんが、みんなで手を動かしてインスタントハウスを作れるようにしたかったから。形も変えられるので、自分がほしい家の形にして、未来に向かっていく気持ちが少しでも湧いてきたらいいなと思ったんです」  明るい話題が少ない被災地で屋内用、屋外用のインスタントハウスは脚光を浴び、さまざまなメディアで報じられた。その存在が知れ渡るにつれてニーズも拡がり、今、被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いているそうだ。  寝る間も惜しんで被災地を駆け巡る男は、「建築家になるつもりはなかった」と苦笑する。彼が目指したのは、和菓子職人だった。 学生時代に振る舞った「和菓子の家」  北川さんは1974年、名古屋市で3人兄弟の末っ子として生まれた。父は和菓子の職人で、母と一緒に「尾張菓子きた川」を営んでいた。瑞宝単光章を受章した父の腕は確かで、2022年には『マツコの知らない世界』でも紹介されている。  幼い頃から店頭に立って売り子をしていた少年は、いつの頃からか、和菓子職人を志すようになった。修行先を探すため、高校時代は全国の和菓子店を訪ね歩いた。その際、堺市の和菓子屋に惚れ込み、高校を卒業したらそこで働くつもりだった。  ところが、「友だちが受けるから」と気まぐれで受けたセンター試験で、名古屋工業大学の工学部に合格。両親の希望もあって入学した。もともと建築に思い入れはなかったから、大学の外で学生生活を謳歌した。  唯一、「めっちゃ楽しかった」のは設計の課題。北川さんはいつも、曲面が多く、ぐにゃぐにゃと柔らかな「和菓子のような建築物」を構想し、「自分の頭のなかをアウトプットしやすいし、一番慣れている」という理由で、和菓子の素材で模型を作った。講評会の後の打ち上げでは、同級生や教授に「和菓子の家」を振る舞った。  最終学年になっても、卒業したら和菓子職人に、という思いは変わらない。しかし、父親に「そろそろ、和菓子職人に……」と相談すると、毎回「まだ早い」と説得された。 「建築を深めれば、もっと人に求められる和菓子ができるようになる」 「洋菓子を学んだら、もっと面白い建築のような和菓子ができるかもしれないぞ」 暗中模索の教員生活  そのたびに、「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じて大学院の修士課程、博士課程と進んだ。博士号を取得して「これでようやく……」と思っていたところ、親身に指導してくれた名古屋工業大名誉教授、若山滋氏に声をかけられて、2001年、助手として名工大で働き始める。  ここで自分でも意外に感じるほど学生に教えることにやりがいを感じるようになり、2007年には准教授に。傍から見れば順調すぎる教員生活ながら、「ずっと暗中模索でした」と語る。 「若山先生は、とても高尚に背筋が伸びるようなハイカルチャーのことを語られるんですよ。狂言の話をしたり、源氏物語や徒然草から引用したり。僕は29歳の時(2003年)から自分の研究室を持たせてもらったけど、若山先生のようにはなれないし、どうしようかなと悩んでいました」 「サブカルに詳しい建築の人」を揺さぶった言葉  霧のなかを抜け出すきっかけをくれたのは、元AKB48の篠田麻里子だった。2005年に秋葉原を訪ねた際、当時まだAKB48劇場内のカフェ「48's Cafe」のスタッフだった篠田麻里子が路上でチラシを配っていた。それを受け取った北川さんは、吸い込まれるように劇場に足を運んだ。そこには、熱狂的に声援を送る男たちがいた。 「なんだ、これは……」初めて見る光景に圧倒されながらも、北川さんは「秋葉原って面白い」と感じたそうだ。ちなみに、2005年は秋葉原のメイド喫茶が話題を呼んだ年で、新語・流行語大賞には「萌え~」がトップ10入りしている。秋葉原独特の熱気に触れた北川さんは、マンガ喫茶の研究を皮切りに、サブカル路線に舵を切った。研究対象は、出会いカフェ、ラブホテル、パチンコなどに広がっていった。そのうちに、「サブカルに詳しい建築の人」として知られるようになっていった。  北川さんが着目していたのは、「家以外のスペースで、人はどういう生活をしているのか」。それが、意外な依頼を引き寄せる。2011年4月15日、北川さんは宮城県の石巻中学校にいた。前月に起きた東日本大震災により、石巻中学校は被災者の避難所になっていた。「家以外のところでの生活」に詳しい北川さんの意見が聞きたいと、朝日新聞から同行取材の申し入れがあったのだ。  現地に到着したのは夜で、冷え冷えとした体育館のなかを1時間ほど案内してもらった。その間、ずっと北川さんについてまわるふたりの男の子がいた。小学校3年生と4年生のふたりは、視察を終えた北川さんが「それでは失礼します」というと、近づいてきてギュッと人差し指を握り、「ちょっといい?」と引っ張り始めた。ふたりは北川さんを校庭が見える場所まで連れていくと、校庭を指さした。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  北川さんは、黙り込んだ。数秒経ってから出てきた言葉は、「ちょっと待っててね」。それしか言えない自分が、歯がゆかった。 「ホイポイカプセル」のアイデア  翌日、岩手の花巻空港から名古屋に向かう飛行機の機内でも、前日のやりとりが頭から離れなかった北川さんは、そもそもなぜ仮設住宅の建設に何カ月もかかるのか、思いつく限りの要因をノートに記した。「(部材が)重い」「部品数が多い」「いろいろな職能の人が必要」など、数えてみると、ちょうど40個になった。  今度は、「重い」なら「軽い」という具合いに、40個すべてに対義語を書き出した。そのすべてを実現すれば、もっと早く仮設住宅を建てることができるという仮説が成り立つ。どうすればいい? と考え込んでいるうちに、名古屋空港に着いた。外はまだ肌寒く、カバンにしまっていたダウンジャケットを取り出して羽織った瞬間、脳内に電流が走った。 「カバンの中に小さく収まって、着た瞬間にもう暖かい。これってなんかあるなと思ったんです。『ドラゴンボール』のなかで小さなものがポンっと大きくなるアイテムが『ホイポイカプセル』として出てくるんですけど、そのメカニズムって誰もやっていなかったんですよね。そのメカニズムを建築に応用して、なにかできるんじゃないかと思いました」  名古屋での日常に戻ってからも、40個の対義語をどうクリアするかを考え続けた。そうして、最も重要なポイントは「空気」だと気づく。 「普通の建築って硬い、重い、(価格が)高いでしょう。硬くて重いものを使えば手間がかかって値段が上がるし、時間をかければそれだけ価値のあるものだと思って、お客さんもお金を払う。でも、被災者が使う仮設住宅もそれでいいのか。だから僕は、基本的に人が生きる際にどこにでもあって無料で使える空気を使おうと思ったんです」  空気は、トップレベルの断熱材として知られる。軽くて薄いダウンジャケットが温かいのは、羽毛や化学繊維が空気の層を形成するからだ。 閃きをもたらしたフランスパン  北川さんは、サブカルから急ハンドルを切って「空気をまとう住宅」の開発に乗り出した。風船、布団、食器洗い用のスポンジ、シャボン玉など「空気」に関わるいろいろな素材で実験を繰り返した。失敗続きだったが、それを重視した。 「多くの人は、失敗するとわかっていることはやらないと思います。でも、失敗して初めてわかることもあるんですよ。失敗しないと現場的な感覚も改善のポイントもわからない。失敗の先に、なにかあるはずなんです」  5年間、たくさんの失敗を重ねた北川さんは、2016年10月のある日、地元のイオンモールのパン屋さんでフランスパンを目にして、閃いた。 「フランスパンって外側は硬いのに、中身はフワフワで芳醇ほうじゅんだ。しかも、オーブンに入れたら自然に膨らむ。この構造を使えないか?」  にわかに頭が高速回転を始める。パズルのピースがカチカチとはまっていくように、テントシートに空気を送り込んで、内部に断熱材を吹き付けるというアイデアが思い浮かんだ。  数日後、北川さんは大学の運動場にそれまで協力してくれていた建築学の先生、断熱材メーカーの担当者、大工、学生など関係者を集めて実験を行った。そこにいる全員が「できないだろう」と考えていたし、北川さんも大きな失敗でいいと思っていた。  ところが実験開始から15分、そこにはインスタントハウスの原型ともいえる2畳ほどの空間ができあがっていた。予想外の展開に、周囲から「うわーっ!」と歓声が上がる。近くにいた4人がそれをヒョイッと持ち上げるのを見た時、北川さんは鳥肌が立った。 「ついに40項目をクリアした!」 安心できる住まいを提供したい  そこからは、改良を重ねていく日々。安くて、快適で、早く簡単に建てる技術が確立されてくるにつれ、仮設住宅に限らず、土地さえあればどこにでも置けて、簡易な住まいとして使えることがわかってきた。それは、世界の経済格差や貧困問題にも貢献できる可能性を示す。 「2000年の段階で、世界の10人に1人が壁のある家に住めていないと国連の統計で出ています。建築の専門家として、そういった人たちに、ひとつでも安心できる住まいを提供してからこの世を去りたいと思うようになりました」  2018年、名工大の大学院工学研究科教授に就いた北川さんは翌年、産学連携していた株式会社LIFULLと共同で、名工大発ベンチャーの「株式会社LIFULL ArchiTech」(ライフル アーキテック)を設立。インスタントハウスを世界に広めるために、本格始動した。  Sサイズ(5平米)110万円、Mサイズ(15平米)187万円、Lサイズ(20平米)258万円で、施工に要するのは3~4時間。断熱性が高く、夏は小型の冷風機、冬は小型のファンヒーターひとつで快適に過ごせる画期的な「家」だ。太陽光発電を活用すればオフグリッドで生活可能で、例えば学校の校舎などにも応用できるという。  多様な環境で利用できるように設計されており、屋根には雪が滑り落ちやすい45度の傾斜をつけている。また、風速80メートルの台風にも耐える強度を誇る。  発売から間もなくして新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、アウトドアブームが来た。その風に乗ってインスタントハウスは主に全国のキャンプ場で導入され、北海道から沖縄まで100棟以上販売してきた。これは図らずも、酷寒でも酷暑でも使用に耐えるという証明になった。 大地震が起きたトルコへ  2023年2月6日、ついに研究成果を見せる時が来た。トルコ南東部のシリアとの国境付近で、大地震が発生。日本赤十字の発表によると、倒壊した建物の数は数十万棟、トルコ、シリア両国で約6万人が犠牲となった。 「町がゴーストタウンに」というニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった北川さんは、以前から知り合いだったJICA職員の田中優子さんに連絡。トルコ事務所長の田中さんが被災したトルコ南部ガジアンテプ県アンタキヤ、ハタイ県ヌルダーの県知事や市長とつないでくれることになり、すぐ現地に飛んだ。  最初にヌルダーの町を訪ねてインスタントハウスの話をすると、すぐに具体的な話になった。担当者に100棟建てるのにどれぐらいの土地が必要かと尋ねられ、目安を示すと、「100棟分の土地を用意する」と確約してくれた。次に訪れたアンタキヤでも、歓迎された。  問題は資金。現地で断熱材の発泡ウレタンを入手するとしても、Lサイズのものを100棟建てるには1億円以上必要になる。それだけの資金調達は難しく、最終的に現地で支援活動をしていた国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンが購入するという形で、アンタキヤに3棟寄贈された。  北川さんは4月、アンタキヤに飛び、その3棟を自ら完成させた。政府職員や被災者の住居、倉庫として使われ、「涼しい」「快適」と絶賛された。しかし、100棟建てたいと言ってくれたヌルダーのことを思うと、すぐにすべてを届けられないことがもどかしかった。 「東日本大震災以来、安くて、快適で、早く建てられる住宅を目指していたのに、インスタントハウスはトルコの仮設住宅より高価で、お金が理由で建てらなかった。自分はなんのためにやってきたんだろうと思うと、悔しかったですね」 被災した子供たちを見て発した妻の一言  同年8月下旬、北川さんは妻と一緒にインドネシアのチカランにいた。トルコでの反響から、海外でもニーズがあると確信。いざというときに自分が現場に行かなくても住民が自力でインスタントハウスを建てられるように、ノウハウの伝え方や住民による作業の検証に行ったのだ。  その際に燃焼実験や耐久性の実験も行い、想像以上に構造物としての強度があることがわかり、新たな手応えを得たその帰り道。名古屋へ向かう飛行機のなかで夫婦の話題にのぼったのは、現地で目にした、手を差し出し、お金や食べ物を求めてくる子どもたちだった。同じような貧しい子どもたちの姿は、発展途上国だけでなく先進国でも見てきた。  建築学科の後輩で、北川さんの試行錯誤を一番そばで見守ってきた妻から「本当は、ああいう子たちのためにインスタントハウスを使いたいんでしょう」と聞かれた北川さんは、「そうなんだよね」と頷いた。そして、「じゃあ、やってみようか」とふたりで話し合ってから間もない翌月8日、モロッコ中部の山間部で大地震が起きる。  調べてみると、モロッコでは仮設住宅1棟が100万円弱することがわかった。トルコの時と同じ思いはしたくない。北川さんは思い切って10分の1の価格を目指した。  市販しているインスタントハウスは10年程度の利用を想定し、その間、不具合が起きないようハイスペックになっているが、仮設住宅はそこまで必要ない。テントシートの素材を変え、発泡ウレタンも高度な吹付技術が必要で価格も高いもの(独立気泡の発泡ウレタン)から、海外でも簡単に入手できるもっと安いもの(連続気泡の発泡ウレタン)に変えた。  これで、施工1時間、原価15万円の人道支援用インスタントハウスが完成。大学で実験して十分な強度があるとわかると、北川さんはモロッコにいる知り合いに連絡。「夜はとても寒い。お願いしたい」という声を聞き、スーツケースにテントシートだけを入れて現地に飛んだ。  現地で連続気泡の発泡ウレタンを調達し、ひとりで施工したところ、想定通り1時間で完成した。その様子がモロッコのテレビ、ラジオで放送されたこともあり、後日、モロッコ政府から接触があった。現在、インスタントハウスの導入について、政府関係者とやり取りを重ねているそうだ。 二度目のトルコで悔しさを噛みしめる  その2カ月後、北川さんは再びトルコにいた。防災を担当する省庁から、災害時の仮設住宅としてインスタントハウスを導入したいと招かれたのだ。その際、副大臣との話に上がったのは、ヌルダー。そう、地震直後に「インスタントハウス100棟分の土地を用意する」と言ってくれた町だ。震災から9カ月が経ち、まだ復旧作業が続く町なかには無数の仮設住宅が立ち並んでいた。そこを副大統領と視察した北川さんは、目を疑った。 「町のメインストリートに面した一角に、100棟分の土地がきれいに整地されたまま残っていたんです。いい場所だし、もうなにかに使われているだろうと思っていたのに……」 脳裏に蘇ったのは、東日本大震災の記憶。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  トルコ政府は北川さんを歓待し、この訪問以降、人道支援用インスタントハウスの正式採用に向けて本格的に動き出した。しかし、北川さんは悔しさを噛みしめながら帰国した。  その後悔が、新たなアイデアをもたらしたのかもしれない。北川さんはコロナ禍に、感染症対策として使えるのでは、と屋内用のインスタントハウスを作り始めた。当初は屋外用のインスタントハウスを小型化したものを想定していたのだが、用途を考えると手間と時間がかかり過ぎているように感じて、開発が止まっていた。  トルコから帰った後、北川さんは「原点に返ろう」と、「宝物」というノートを開いた。それは、石巻中学校に行った翌日、飛行機のなかで「40項目」を書き記したノートだ。そのノートを見返しているうちに、閃いた。 「ダンボールで作ろう!」  思いついたら、一直線。1カ月もたたないうちにダンボール製のインスタントハウスが完成し、12月6日、7日に名古屋で開催された防災展で展示した。そして2024年1月1日、能登半島地震が発生した。名古屋の自宅にいた北川さんは展示の際に用意していた10棟分の屋内用インスタントハウスをレンタカーに積み込み、翌日には卒業生の山田さんとともに石川県に入った。 子どもたちと建てたインスタントハウス  いくつかの避難所を巡ったなかで、最も過酷な環境だったのが輪島中学校だった。  特にアリーナは2階のガラスが割れ、凍えるような冷たい風がアリーナのなかに吹き込み、冷蔵庫のようだった。避難所の職員にインスタントハウスの話をすると、「ありがたい」ということだったので、着替えやオムツ交換、授乳スペースとして屋内用インスタントハウスを建てることにした。  1月4日、ダンボールをアリーナに運び入れて作業を始めると、物珍しそうに被災者が近寄ってきた。最初の1棟に屋根を上げた瞬間、アリーナ全体から少しずつ拍手が起きた。「これなに?」と聞く子どもたちに、「みんなのお家だよ」と答える。 「一緒に作っていい?」 「いいよ」  その場にいた数人の子どもたちが、手伝ってくれた。2棟目が完成した瞬間、3歳の女の子が大きな声で「お家ができた!」と叫んだ。隣りにいた母親から、今回の地震で自宅が全壊してしまったと話を聞いた北川さんは、アリーナの外に出た。そこで堪えきれず、涙を流した。  その後、子どもたちは屋内用インスタントハウスに絵を描いて遊ぶようになった。そこには、「ちょっとせまいけど いえかんせえ」と書かれていた。この絵と文字は、3歳の女の子と小学校1年生のお兄ちゃんが描いたものだ。取材の日、その子たちのお母さんに話を聞いた。 「初めて見るデザインで最初はなんなのかなと思ったのですけど、メルヘンチックな感じですごくいいと思います。子どもたちも一緒に作ったりして、楽しそうでした。かわいい家が完成した後も出たり入ったりして遊んでいましたよ」  その後、校舎の1階と2階、屋内型広場などに計10棟を建てた北川さんは、翌日、名古屋に戻った。その際、ダンボール業者やテント屋、断熱材メーカー、運送会社と協議し、屋内用インスタントハウス110棟分の資材を調達。屋外用インスタントハウス3棟の資材と合わせて、再び輪島中学校に向かった――。 「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた  この記事を書いている1月22日時点で、北川さんが拠点をおく輪島中学校ではアリーナに屋内用インスタントハウス250棟を建てる準備が進められており、2棟の人道支援用は、被災直後から狭い職員室での雑魚寝を強いられていた教員が寝泊まりするようになった。  今現在も支援の輪は広がっており、インスタントハウスの実費調達のために開かれた名古屋工業大学基金に寄せられた寄付は1650万円。屋内用インスタントハウス440棟分と人道支援用インスタントハウス13棟分が、主に輪島市各町の避難所に届けられる準備が整った(1月22日時点)。  冒頭に記したように、すでに被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いており、これから能登半島にたくさんのインスタントハウスが建てられる。それはまさに、東日本大震災以来、「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた男が思い描いてきた光景だ。  しかし、まだ足を止めるつもりはない。北川さんの頭のなかには、さらに進化した人道支援用インスタントハウスの構想がある。世の中には、廃棄される農作物も多い。それらを使って、100%生分解性の断熱材とテントシートを作ろうとしているのだ。  北川さんが思い描くのは人間、動物、昆虫が食べられるエディブル・インスタントハウス。この話を聞いて、北川さんが学生時代に和菓子の素材で模型を作っていたことを思い出し、「お菓子の家と同じ発想ですね」というと、北川さんはいたずらをたくらむ子どものような顔で笑った。 「お菓子の家っていう人もいれば、おかしな家っていう人もいるんですけどね」  誰も想像しなかった膨らませる家を生み出した北川さんは、「おかしなお菓子の家」の実現も信じて疑わない。詳しいことは書けないが、アメリカの政府機関も、この男の創造力に注目している。北川さんはこれからも、世界の被災地を飛び回るのだろう。しかし、終着駅は決まっている。 ――まだ、和菓子職人になりたいんですか? 「はい! あんな楽しい仕事、ないですから」 (川内イオ フリーライター)
「ゴミ屋敷の住人」に絶対言ってはいけない言葉 祖母、父、母、妹を亡くした依頼者が見た希望
「ゴミ屋敷の住人」に絶対言ってはいけない言葉 祖母、父、母、妹を亡くした依頼者が見た希望 モノが押し込まれている状態(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)    祖母、父、母、妹が次々と亡くなり、家に残されたのは大量のゴミだった。依頼者の女性(姉)が、一人で始まる新生活を明るいものにするため、家族で住んでいた7LDKを片付ける。  本連載では、さまざまな事情を抱え「ゴミ屋敷」となってしまった家に暮らす人たちの“孤独”と、片付けの先に見いだした“希望”に焦点をあてる。  ゴミ屋敷・不用品回収の専門業者「イーブイ」(大阪府)を兄の二見文直氏とともに営み、YouTube「イーブイ片付けチャンネル」で多くの事例を配信する二見信定さんと、依頼者の女性が、モノ屋敷に住むことの苦労を語った。  動画:『父の死に母親の介護「気が付けば家の中がゴミや不用品だらけ」』、『父の死に母親の介護「片付けを説得できず親と摩擦が」』 両親の死後、妹も他界し、気力がなくなってしまった  関西某所にある2階建ての一軒屋。片付けの依頼者である50代の女性は7LDKのこの広い家に、祖母、父、母の4人で暮らしていた。ずいぶん前のことではあるが、祖母が他界。もともとモノを溜め込む性格だった祖母の荷物が残ったまま、次はパーキンソン病を患っていた母親の介護に突入した。依頼者の女性が話す。 「私も勤めているものですから、昼間は父が母の面倒を見てくれていました。夜は私が母の面倒を見るという忙しい生活が続いていたんですが、しばらくして母が亡くなりました。祖母のときと一緒で、母の遺品整理ができないまま、今度は父の介護が始まりました」  その後、父も他界。亡くなった3人分の荷物を少しずつ一人で片付けていったが、仕事が多忙なこともあって作業に限界を感じていた。そして、父の一周忌を迎えたのを機に、業者へ片付けの依頼をすることにした。だがその矢先、妹ががんで帰らぬ人となってしまった。 「突然というか、入院して3週間で亡くなってしまったんです。落ち込んで業者に電話もできなかったんですが、少し元気になってきたので依頼をさせてもらいました」  依頼者本人は片付けが苦手なわけではない。ただ、祖母、父、母の3人とも、モノが捨てられない性格だったという。 片付けの開始時点の状態(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より) 片付く前の小部屋(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   7LDKのうち2部屋がゴミだらけの状態に  7LDKの間取りは少し特殊で、部屋が縦一列に並ぶ形になっている。1階、2階ともに突き当たりの奥にある部屋にいらないモノたちが押し込まれ、計2部屋と物置が、不用品の倉庫のような状態になっていた。  本棚、マッサージチェア、掃除機などの家具・家電に、マットレスや布団など寝具も数組、破れた障子にダンベルに地球儀と、不用品が無造作に積み上げられている。奥に何があるのか確認しようと思っても、まず前にあるものをすべて部屋から出さないといけない。そうなると、一人での作業はまったく進まなかった。 「グチャグチャになった包装紙でさえ畳んでとっておくみたいな状態で。本当にゴミだらけで、どうしようもないモノだけ押し込んで。部屋はいつも閉めているので、誰に見せるわけでもないんですけど。ただ、窓も開けられないし、掃除もできないので、ネズミとゴキブリの温床になるんじゃないかと思って」  父は写真が趣味だったという。現像された写真が大量に保管されていたが、それも女性がほとんど処分した。洋服も山のようにあったが、すべて仕分け済み。残っているモノは不用品のみとなるので、倉庫となっている2部屋と物置は完全に空にしてしまっていいそうだ。  現場に入ったスタッフは5名。予定の作業時間は4時間。縦に長い間取りのため運び出しに時間がかかるが、ひたすら不用品を家の外に出していく。 モノが捨てられない人を説得するには  生ゴミなどの生活ゴミがないこういったモノ屋敷の特徴は、住んでいる人やモノを増やしている本人には「モノが多い」という自覚がないことだ。ほとんどのケースが張本人からではなく、ほかの親族からの依頼だと、現場で運び出し作業をしている信定さんが言う。 「モノを増やしている本人は困っていないのですが、それによって別の家族が困っていることが多いんですよね。本人から依頼が来ることは、引っ越しや退去などで急遽片付けなければいけない理由ができたときくらいですね」  イーブイのスタッフ自ら、現場で住人を説得することもある。信定さんいわく、説得するうえで重要なのは、「一気に片付けようとしない」ことだ。 「頭ごなしに“全部いらんやろ”と否定してしまうのはよくなくて、勝手にモノを手に取ろうものなら“全部いるねん、何も触らんといて”と片付けがストップしてしまいます。本や小物が使わないまま入った本棚があっても、はじめから全部捨てようとしない。ひとつひとつ、いるモノかいらないモノなのかを一緒に確認していくことです。時間と労力はかかってしまうけど、根気よく説得するしかありません」  まず、ひとつモノを捨てることで、捨てることに慣れてもらうことが必要だという。モノを捨てることに慣れている人からすれば当たり前のことかもしれないが、目の前にいるのはそれが何十年もできてこなかった人だ。今すぐにモノを捨てられるわけがない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   生きているうちに片付けるのが一番いい 「使いもしないのにね、ゴミ同然なのに。モノを大事にしろと言われて育ってきたからしょうがないんですけど」  依頼者の女性がそう言うように、両親との衝突は避けられなかった。他人からすればゴミでも、本人からしたらゴミではないからだ。ただ、「ときにはハッキリ言うことも必要」と、同じく現場で作業をするスタッフのユウキさんは話す。 「今まで放置していたのにいざ片付けるときに、“懐かしい、どうしよう”と悩んで捨てられない人が多いんですよ。でも、何年も見ていないモノはやっぱり必要ないモノだと思うんですね。やっぱり、しんどい思いをするのって残された人だと思うんです。だから、僕は本人が生きている間に片付けるのが一番いいと思っています。片付けの費用は誰が払うねんっていう話にもなってきますし、業者を探したり、多少なりとも手伝わないといけないので」  この依頼者のように、身内同士だけだと衝突してしまいがちである。そんなとき、第三者である業者を間に入れることで、説得が円滑に進むこともある。ユウキさんが続ける。 「ちょっと冷たい言い方になるかもしれませんが、“これ思い出あるのよ”って言われても正直僕らにはわからない。そのモノに思い入れはないので。だからこそ、冷静に判断できるっていうのはあるはずです。そうやって捨てていく中で、スピードに乗ってきて、“もうガンガン捨ててください”って考えが変わる人も結構いるんです」  信定さんが話した「ひとつひとつ確認すること」を忘れずに、「それ、本当にいる?」とハッキリ聞いてあげることが大切かもしれない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   物置にあるものは基本的にいらないモノ  この家もそうだったが、物置という場所は基本的にいらないモノの集合体だ。また、物置に限らずそもそも収納スペース自体が不用品だらけになりがちだ。 「片付けが苦手な人の場合、収納スペースはいらないモノをいったん押し込んでおくだけの場所になってしまうんです。だから、何が入っているかもわからなくなるし、そうなると片付けたいと思っても手が付けられない。逆に、自分がいま何を持っているのか把握できていれば、収納スペースを有効活用できるんだと思います」(信定さん)  片付けが苦手だからこそ収納スペースの多い物件を選んでしまいそうだが、それはいい結果を生まないかもしれない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)    倉庫となっていた2部屋と物置はものの4時間で空っぽになった。依頼者の女性も安堵した様子の声で感謝していた。 「何年かぶりなんですよ、窓開けるのも。いやぁ、よかったです、本当にすっきりしました。ありがとうございます」  現在はきれいになった7LDKの家で一人、新生活を満喫している。 (國友 公司 : ルポライター )
スタートダッシュを決める朝の過ごし方 定年後に取り入れたい「朝やるべき7つのルーティン」
スタートダッシュを決める朝の過ごし方 定年後に取り入れたい「朝やるべき7つのルーティン」 身だしなみは朝のルーティンに入れましょう(※写真はイメージです Getty Images)    定年後、毎日をダラダラと過ごしていないだろうか。現役時代は会社が生活を管理してくれていたが、定年後には自分で管理する必要がある。1日を充実させるためには、自律神経のスムーズな切り替えが大切。そのために取り入れたいのは、「朝のルーティン」だ。自律神経研究の第一人者である小林弘幸医師の新著『老後をやめる 自律神経を整えて生涯現役』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して解説する。 * * * 【関連記事をもっと読む】 #1 92歳の父が元気なのはなぜ? 医師が親を分析して見つけた「4つの理由」 #2 健康、お金、孤独の不安を軽減する 「老後」という考え方をやめること #3 加齢も自律神経の乱れの原因 「ゆっくり」を意識してリラックス #4 自律神経の老化を防ぐには食事、睡眠より「運動」+「マイペース」の散歩 #5 休みたいときこそ運動を 「疲れを吹き飛ばす」ためのウォーキングのススメ #6 寝る前の「3行日記」でワクワクする毎日に いつまでも若い人たちの習慣 スタートダッシュを決めるための朝の過ごし方 「朝のルーティン」についてもお話ししておきましょう。  私はよく「朝をどう過ごすかで一日が決まる」とお伝えしています。副交感神経優位の状態から、スムーズに交感神経優位の状態へと切り替えることができれば、いい流れに乗ることができます。  しかし、切り替えがうまくいかないといい流れに乗ることができず、コンディションの悪いまま一日を過ごすことになってしまいます。  たとえば、休みだからといって昼まで寝ていたり、朝ごはんを食べなかったり、カーテンをしめっぱなしにしたりしていると、交感神経にスイッチが入りません。そのため、頭がボーッとして、ダラダラ、ゴロゴロするだけのつまらない一日になってしまいます。 【こちらも話題】 「インフレに負ける年金」の正体…増えているようで実際は「目減り」 年齢別の受給額を解説 https://dot.asahi.com/articles/-/213128  反対に、家を出るギリギリまで寝ていたり、身じたくでバタバタしたり、駅まで走ったり、忘れものを取りに帰ったりすると、交感神経が急激にはね上がり、自律神経のバランスが乱れてしまいます。  ゆるやかに、スムーズに、副交感神経優位から交感神経優位へ切り替えることが大切です。  そのために取り入れたい、朝のルーティンをご紹介しましょう。 (1)カーテンを開ける  朝、起きたらまずカーテンを開けましょう。太陽の光を浴びると体内時計がリセットされ、交感神経へのスムーズな切り替えをうながします。 (2)部屋の空気を入れ換える  窓を開けて、新鮮な空気を取り入れましょう。外気にふれることで、交感神経にゆるやかな刺激を与えることができます。 (3)思いきり伸びをする  外の空気を感じながら、両手を上げてグーッと伸びをしましょう。眠っている体が目覚めます。 (4)コップ1杯の水を一気に飲む  寝ている間に失った水分を補給するとともに、眠っている腸に刺激を与えることでスムーズな便通をうながします。 (5)起きて1時間以内に朝食をとる  朝食をとると、体内時計を管理する「時計遺伝子」が動き出します。食物繊維とビタミンをとることを意識して、バランスのよい朝食で腸を動かしましょう。 (6)今日の流れを1分で確認する  前日にシミュレーションしたことを、もう一度おさらいしましょう。落ち着いて一日を始めることができ、忘れものなどの「うっかり」を防ぐことができます。 (7)外気に触れて体を動かす  活動することで元気の源・セロトニンが増加し、やる気がアップします。夜になるとセロトニンは睡眠をうながすメラトニンに変わるので、自然と眠くなります。  以上が、私がおすすめする「朝の7つの習慣」です。 【こちらも話題】 老後2千万円は本当に必要なのか? 長生きリスクにどう備える お金のプロが解説 https://dot.asahi.com/articles/-/208820  朝起きてから「さあ、何をしようか」といちいち考えていたら、それだけで疲れてしまいます。日々の生活の基本的な行動は、できるだけルーティン化することをおすすめします。  慣れないうちは、この7つの習慣を紙に書いて、目立つところに貼っておくのもよいかもしれません。  みなさんは靴ひもを結ぶとき、「まずはこうして、次はこうして……」といちいち考えませんよね。それと同じように、何も考えなくても勝手に体が動くようになるまでつづけてみてください。 毎朝「鏡を見る人」はいつまでも若々しい  五木寛之さんのベストセラー『大河の一滴』(幻冬舎)に、いかにルーティンが大切かを教えてくれる、こんなエピソードがあります。  2020年に亡くなられた、作家・冒険家のC・W・ニコルさんに、五木さんがこんな質問をしたそうです。 「南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢して待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱づよく、最後まで自分を失わずに耐え抜けたか」  ニコルさんはこう答えました。 「それは必ずしも頑健な体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかった」 「きちんと朝起きると顔を洗ってひげを剃り、一応、服装をととのえて髪もなでつけ、顔をあわせると『おはよう』とあいさつし、物を食べるときには『いただきます』と言う人もいる。こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しい生活環境のなかで最後まで弱音を吐かなかった」 【こちらも話題】 お金を投資・運用するなら株式?債券?投資信託? 初心者向けにお金のプロが解説 https://dot.asahi.com/articles/-/196864  極限状態のなかでも、朝起きたら身だしなみを整える。きちんと挨拶をする。そうした毎日のルーティンが自分を守ってくれるのです。  なかでも私が注目したのは、身だしなみです。南極のテント生活ほどではないにせよ、定年を迎えてからの生活も、身だしなみがおろそかになりがちです。  ヒゲは伸びっぱなし、髪はボサボサ、鼻毛も出ている……。そんな状態では、どこかに出かける気力もわきません。家の中でダラダラ、ゴロゴロする生活になってしまいます。  人の目を気にしなくなったら、それが老後の始まりです。  みなさんは最近、自分の顔を鏡で見ていますか? 鏡に映った自分の顔をていねいに眺めていますか? 男性の場合、化粧をする機会がないので、見ていない人も多いかもしれません。  そんな人だって、若いころはデートのとき、ワクワクしながら鏡を見ていたはずです。そのころの気持ちを、もう一度思い出しましょう。 「自分の顔をじっくり鏡で見る」  ぜひ、朝のルーティンに取り入れていただきたいことです。  そのとき、鏡に向かってニッコリ笑ってみるのもおすすめです。楽しくないのに笑うなんてヘンだと思うかもしれませんが、つくり笑いでいいのです。だまされたと思ってやってみてください。  ポイントは、口角をキュッと上げることです。顔の筋肉の緊張がほぐれ、血流がよくなり、頭がスッキリします。気分が上がらないときは、とくに念入りにやってみてください。 【関連記事をもっと読む】 #1 92歳の父が元気なのはなぜ? 医師が親を分析して見つけた「4つの理由」 #2 健康、お金、孤独の不安を軽減する 「老後」という考え方をやめること #3 加齢も自律神経の乱れの原因 「ゆっくり」を意識してリラックス #4 自律神経の老化を防ぐには食事、睡眠より「運動」+「マイペース」の散歩 #5 休みたいときこそ運動を 「疲れを吹き飛ばす」ためのウォーキングのススメ #6 寝る前の「3行日記」でワクワクする毎日に いつまでも若い人たちの習慣
がんになってもがんで亡くならない世界を目指して 医師に聞くがん免疫療法の「現在地と未来」
がんになってもがんで亡くならない世界を目指して 医師に聞くがん免疫療法の「現在地と未来」 がんと共に生きる時代になってきた。副作用対策が整った病院を選ぶことも大切だ(写真:gettyimages)    日本人の死因第1位のがん。だが、治療は日進月歩で、完治しなくても長く生きられる時代になってきた。その一翼を担うがん免疫療法の「現在地と未来」について、がん研究会有明病院の北野滋久・先端医療開発科部長に聞いた。AERA 2024年2月12日号より。 *  *  * ──がん免疫療法は、2018年の本庶佑(ほんじょたすく)・京都大学特別教授らのノーベル生理学・医学賞受賞で、脚光を浴びました。どんな治療法なのでしょう。 北野滋久(以下、北野):患者さんが備えている免疫(免疫細胞)の力を活性化して、がん細胞を攻撃する治療法です。がん細胞は、自分を体内から排除しようとする免疫細胞に、「私を攻撃するな」という信号を送ります。免疫細胞が信号を受け取ると、攻撃にブレーキがかかってしまいます。そこで、「免疫チェックポイント阻害薬(阻害剤)」という薬でブレーキを外すのです。 QOL保って長生きも ──どういう患者さんに行われるのでしょうか。 北野:主な対象は、手術後にがんが再発したり、がんが見つかったときには全身に転移していたりする患者さんです。以前は治療が難しかったステージの患者さんが、免疫療法で長く生きられるケースもみられます。すべての種類のがんに効くわけではありませんが、肺がん、胃がん、食道がんなど治療できるがんが増えてきました。 ──日本では、8種類の免疫チェックポイント阻害薬が国に承認され、保険診療の対象になっています(表参照)。どのように使われているのでしょうか。 北野:現在は、免疫チェックポイント阻害薬同士を2種類組み合わせたり、阻害薬と既存の抗がん剤などを組み合わせたりして使う併用療法が主流です。 ──どの程度の効果が出ているのでしょうか。 北野:がんの種類にもよりますが、半数前後の人に効きます。そのうち数%から2、3割の人は、長期間効果が続きます。 ──「効果がある」とは? 北野:CTなどの画像診断で、がんが見えなくなったり(完全奏効。目に見えないがんが残っている可能性はある)、3割以上縮小(部分奏効)したりする状態です。縮小しなくても、大きくならずに安定していれば、生活の質(QOL)を保って過ごせます。がんと共存できれば、効果があると言えるでしょう。 AERA 2024年2月12日号   ──再発や進行がん以外の患者さんにも使われますか。 北野:最近は、早期発見で手術を受けた患者さんの再発予防に使うケースも出てきています。手術でがん細胞を取り除いても、検査で捉えられない小さながんが残っていて、再発することがあります。小さながんを根絶するために免疫チェックポイント阻害薬を投与するのです。抗がん剤を入れる、もしくは、経過観察と比べると、再発を防げる人の割合が、がんの種類にもよりますが、5~10%上乗せされると期待できます。 副作用対策を重視して ──副作用も気になります。 北野:がん免疫療法では、本人の免疫細胞ががん細胞を攻撃するので、従来の抗がん剤と比べると副作用は比較的軽いとみられます。治療開始から半年ぐらいを乗り越えると、副作用が落ち着くことが多いようです。ただ、免疫が活性化しすぎて暴走し、間質性肺炎、心筋炎など重篤な副作用が出ることもあります。個人差が大きく、いつどこにどんな副作用が出るかも読めません。特に感染症を併発もしくは疑われる際は、呼吸困難などの症状が出るサイトカイン放出症候群を生じてしまう可能性があるため、阻害薬を休薬したほうが良いと考えられます。 ──がん研有明病院では、どう対応していますか。 北野:あらゆる副作用に対応するために、救急、膠原病や循環器などがん以外を専門とする医師も参加する「免疫支援チーム」を作っています。患者さんは、副作用対策が整った病院を選ぶことが大切だと思います。 ──ブレーキを外す仕組み以外の免疫療法は何がありますか。 北野:「CAR-T細胞療法」です。「キムリア」という薬が承認されています。患者さんの血液から免疫細胞を取り出し、人工的に攻撃力を高めた「キメラ抗原受容体」という特殊なたんぱく質を組み入れ、点滴で戻します。「CAR」は、このたんぱく質の頭文字です。 ──どのがんが対象ですか。 北野:白血病や悪性リンパ腫など血液のがんです。従来の治療が効かなくなった患者さんが対象で、50~80%の人に効き、3~4割の人で持続しています。今はまだ、肺がんなど「固形がん」には使えませんが、類似の療法も含め、世界中で研究が進められています。 北野滋久(きたの・しげひさ)/1972年生まれ。三重大卒。米メモリアルスローンケタリングがんセンター、国立がん研究センターなどを経て現職(撮影/中村智志)   ──副作用はどうですか。 北野:免疫が暴走すると、強い副作用が出ます。サイトカイン放出症候群は要注意です。 個別化医療の時代へ ──ほかに、注目している治療法はありますか。 北野:抗体薬物複合体(ADC)です。免疫の仕組みとして、体内に異物が入ると、異物を排除しようとする抗体を作ります。抗体は、異物が出している目印(抗原)を見つけてその異物に近づき結合します。この仕組みを応用したのがADCです。抗がん剤を付けた抗体を人工的に作り、その抗体が標的のがん細胞と結合すると、抗がん剤が攻撃を開始します。理論上は、抗体に結合している抗がん剤は、標的以外の正常細胞は攻撃しません。治療効果の増強と副作用の軽減が期待できます。 ──ADC以外では? 北野:二重特異性抗体です。人工的に作った抗体に、免疫細胞(リンパ球)とがん細胞を結合させて、リンパ球を介してがんを攻撃します。ADCも二重特異性抗体も、今は一部のがんにしか使えませんが、対象のがんが広がることを期待しています。がん研でも、できるだけ多くの治療を届けるために、さまざまな免疫療法も含めてたくさんの臨床試験を行っています。 ──免疫療法の将来をどう描いていますか。 北野:個人個人の遺伝情報の解析を元にして、一人ひとりの患者さんに適した個別化医療を実施する時代に徐々に向かっていくことでしょう。がんになってもがんで亡くならない。そんな世界を目指しています。 勝俣範之(かつまた・のりゆき)/1963年生まれ。富山医科薬科大学医学部卒。国立がん研究センターなどを経て、2011年、日本医大武蔵小杉病院に赴任(撮影/中村智志)   「自由診療」かどうか、がん情報の見分け方 勝俣範之・日本医大武蔵小杉病院腫瘍内科部長に聞く  ネットには、特に免疫療法で効果が期待できない治療の情報があふれています。そういう治療を行うクリニックのサイトでは大抵、どんながんにも効く、副作用がほとんどない、などと謳っています(どちらも違います)。そして免疫療法の解説や医師の立派な経歴、患者の成功体験が載っていたりします。  見分け方は、一つ。費用が「自由診療」かどうか。  自由診療とは保険が利かない診療のこと。全額自己負担です。しかし、本当に効果がある治療なら、国が承認して保険適用になっています。自由診療を受けたばかりに有効な治療を受ける機会を逃し、がんが進んでしまったという例もあります。かつて広まった「がん放置療法」も同様です。  新薬の候補がマウスの実験や臨床試験を経て薬として実用化される確率は1万分の1ぐらいでしょう。承認された治療法を「標準治療」といいます。「標準=並」と思うかもしれませんが超狭き門を通過した「最高の治療」です。標準治療をしっかり受けましょう。  書籍やネット等で闘病記を読む際も注意が必要です。仮にがんが治ったと書かれていても、治療法は参考にしないでください。一個人の体験のエビデンスは限りなく低いのです。  がんは生活習慣病と言われますが、誤解を与える表現です。食事やサプリ、糖質制限等では治りません。サプリは時に有害です。がんは偶発的な要因で発症することも多く、生活習慣が悪かったと自分や家族を責めるのはやめましょう。 (朝日新聞社パブリックエディター事務局・中村智志) ※AERA 2024年2月12日号
「関節リウマチ」が1:4の割合で女性に多いのはなぜ? 専門医の答えは? 環境的な要因に喫煙や歯周病
「関節リウマチ」が1:4の割合で女性に多いのはなぜ? 専門医の答えは? 環境的な要因に喫煙や歯周病 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)   関節リウマチは女性に多い病気であり、国内では約80万人の患者が診療を受けているとされています。原因や発症のメカニズムはまだ解明されていないことも多く、一度発症したら完治することはほとんどありません。これまでは、進行すると関節の痛みや変形などで日常生活にも大きな影響をおよぼす病気といわれてきました。しかし近年、新薬の登場など治療法の進歩によって昔の常識とは大きく変わりつつあります。早期に適切な治療をおこなうことで症状をコントロールすることができ、病気を発症する前と同じような生活を送れるようになる人も多くいます。早期発見・早期治療につなげるためにも、病気の特徴や症状などについて理解しておきましょう。  この記事は、週刊朝日ムック「手術数でわかる いい病院」編集チームが取材する連載企画「名医に聞く 病気の予防と治し方」からお届けします。「関節リウマチ」全3回の1回目です。 *  *  *   免疫の働きにより関節に炎症が起こる病気で、女性に多い  関節リウマチは自己免疫疾患とよばれる病気の一つです。本来はからだを守るはずの免疫が自分のからだを攻撃してしまうために、関節の内側をおおう「滑膜」に炎症が起こり、関節の痛みや腫(は)れを引き起こします。  関節リウマチは1:4の割合で女性に多いとされています。その理由について、大学病院で長年関節リウマチの診療にあたりながら、ガイドラインの作成などにも携わる東京女子医科大学病院膠原病リウマチ内科教授の針谷正祥医師はこう話します。 「関節リウマチに限らず、自己免疫疾患はもともと女性に多い傾向があります。多くの研究から男性と女性とでは免疫のバランスをつかさどるたんぱく質(サイトカイン)の出かたが異なることがわかっており、そのバランスの違いから女性のほうが免疫の病気になりやすいと考えられています」  一般的に、30~50代が発症のピークとされていますが、高齢化に伴い60代以降で発症する人も増加傾向にあります。 「加齢により免疫のバランスを制御する能力が衰えてきて、発症が増えると考えられます。最近では70代、80代の患者さんを外来で診ることも珍しくありません。高齢になると患者数の男女差が縮まってくるともいわれていますが、その理由もわかっていません」(針谷医師) 遺伝的な要因と環境的な要因が重なり合って発症する  関節リウマチの原因についてはまだ解明されていないことも多くありますが、「遺伝的な要因」と「環境的な要因」が重なり合って発症すると考えられています。  遺伝的要因として、関節リウマチを発症した人には、免疫にかかわる「HLA-DR4」という遺伝子を持つ人の割合が高いことがわかっていますが、この遺伝子を持っていても関節リウマチを発症しない人もいます。ほかにも関連する遺伝子はいくつもあり、さまざまな遺伝子の組み合わせによって発症しやすい状態になると考えられます。関節リウマチの早期発見や予後改善をめざし診療や啓発に力を入れている、横浜市立大学附属市民総合医療センター、リウマチ膠原病センター診療教授の大野滋医師はこう話します。 「遺伝的要因が発症にかかわるといわれていますが、それだけでは説明がつかないことも多くあります。生まれつき持つ遺伝的な要因に、さまざまな環境的な要因が重なることで発症すると考えられます」  環境的な要因として明らかになっているものに、喫煙や歯周病があります。ほかにも加齢、腸内細菌、感染症、外傷など、関節リウマチの発症にかかわるとされる要因は多くあります。  喫煙や歯周病などは一見、関節リウマチとは無関係と思われがちですが、どちらも体内のたんぱく質の構造に変化を与え、それにより自分のからだを攻撃する自己抗体ができ、リウマチの発症につながると考えられています。   手のこわばりや痛みなどの症状が少しずつ増えていく  関節リウマチの症状は、関節に起こるものと、関節以外の部分に起こるものに大別されます。関節に起こる症状では、朝の手のこわばりや手足の関節の痛み、腫れなどが挙げられます。  とくに手のこわばりは初期症状として多くみられ、朝起きたときに手を動かしにくい、握れないなどの症状があらわれますが、少し時間が経つと戻っていきます。 「朝、フローリングなどの硬い床を歩くと、足裏の、指の付け根と土踏まずの間の盛り上がっている部分が痛むという人もいます」(針谷医師)  痛みについては、ドアノブを回す、水道の蛇口をひねる、ペットボトルのキャップをあけるなど、手首を回転させる動作をすると痛む、あるいは重い荷物を持ったとき、包丁でかぼちゃなどの硬いものを切ったときに痛む、などの症状がみられます。 「最初は1カ所の関節が痛くなって数日で治まるということを数週間、数カ月おきに繰り返し、そのうち間隔が狭くなり、1カ所だったのが2カ所、3カ所と増えていく。さらに、痛みだけでなく腫れも加わり、関節に炎症が起きていることを示す症状があらわれます。また、これらの症状は左右対称に出やすく、完全に同じではないものの、右手の親指と左手の人差し指というように、対称性に症状が出るという特徴もあります」(大野医師)  関節以外の症状では、肺の炎症による「間質性肺炎」、肺を包む膜が炎症を起こす「胸膜炎」、目の白目部分に炎症が起こる「強膜炎」、皮膚にコブのようなものができる「リウマチ結節」などの症状がみられることがあります。   早期に適切な治療をすれば症状をコントロールできることも多い  関節リウマチは慢性疾患であり、よくなったり悪くなったりを繰り返しながら進行していく病気ですが、進行のしかたや症状の程度には個人差があります。病気が進行すると、関節が破壊されて手足に変形が起こり、手を使う動作や歩行などが困難になるなど、日常生活への影響が大きい病気といえます。  一方で近年は、新薬が登場するなど関節リウマチの治療法は大きく進歩しています。治療により約80%の人が、症状がほとんどなく診察や検査でも病気が治まっていると判断できる「寛解」の状態や、寛解には至らなくても軽い症状や検査所見が残る程度の「低疾患活動性」という状態になると報告されています。つまり、「早期に適切な治療をすれば症状をコントロールすることができ、病気になる前と同じような日常生活を送ることが十分に可能な病気である」と2人の医師は口をそろえます。 症状がある場合は膠原病内科やリウマチ科へ受診を  関節リウマチは、発症から治療開始までの期間が長いほど、つまり治療開始が遅れるほど重症化しやすいことがわかっています。そのため早期発見・早期治療が重要であり、「発症後1年、できれば半年以内に治療を開始したいというのが専門医の考え」と針谷医師は話します。 「関節が痛む場合、最寄りの整形外科を受診する人がほとんどだと思います。しかし、関節リウマチは、薬による治療が必要な内科の病気です。リウマチを専門に診る医師のいる病院を受診することがスムーズな治療につながるでしょう」(大野医師)  関節が痛む病気は関節リウマチのほかにも数多くあり、患者自身が症状から病気を判断することは難しいですが、「朝のこわばり」「だんだん進行する痛みや腫れ」「回転動作による痛み」「左右対称に起こる症状」「1カ所ではなくいくつもの関節が痛む」など、関節リウマチ特有の症状がみられる場合は、早めに膠原病内科やリウマチ科を受診することをおすすめします。 (文/出村真理子)   【取材した医師】 東京女子医科大学病院 膠原病リウマチ内科 教授 針谷正祥(はりがい・まさよし)医師 1984年、防衛医科大学校医学教育部医学科卒業。東京医科歯科大学病院等を経て、2015年から現職。専門分野は関節リウマチ、膠原病、分子標的薬治療など。「関節リウマチ診療ガイドライン2020」編集者(研究代表者)を務める。関節リウマチに関する執筆活動や啓発のための社会活動にも積極的に取り組んでいる。 東京女子医科大学病院 膠原病リウマチ内科 教授 針谷正祥医師     東京女子医科大学病院 東京都新宿区河田町8-1   横浜市立大学附属市民総合医療センター リウマチ膠原病センター 診療教授 大野滋(おおの・しげる)医師 1988年、横浜市立大学医学部卒業。米国国立衛生研究所、国立横須賀病院、国立相模原病院臨床研究センター等を経て、2002年から現職。専門分野は関節リウマチ、膠原病など。センターでは「早期リウマチ外来」の設置や市民公開講座、リウマチ教室の開催など地域と連携しながら関節リウマチの早期発見や予後改善に尽力している。 横浜市立大学附属市民総合医療センター リウマチ膠原病センター 診療教授 大野滋医師     横浜市立大学附属市民総合医療センター 神奈川県横浜市南区浦舟町4-57
岸田首相の震災対応「10点未満」が約4割 新年会参加に「冷淡でぞっとした」【1000人アンケート】
岸田首相の震災対応「10点未満」が約4割 新年会参加に「冷淡でぞっとした」【1000人アンケート】 避難者と言葉を交わす岸田文雄首相(右手前)=2024年1月14日  能登半島地震の発生から早くも1カ月が過ぎたが、現在も住民の1万人以上が避難生活を続けている。当初、SNSでは「初動が遅い」「後手に回っている」などと批判が起きていたが、現在、国会でも、政府の当初の対応について同様の指摘がされている。岸田文雄首相は「迅速に取り組んだ」と答弁しているが、国民の感覚としてはどうだったのだろうか。AERAdot.では緊急にアンケートを実施し、岸田首相の対応などについて尋ねた。【前編】 *   *   *  アンケートの募集期間は1月17日から22日で、1204件の回答を集めた。回答者の内訳は、女性が35%、男性が55%、答えたくない・無回答などが10%だった。  質問は「岸田首相の自衛隊派遣のタイミングについて、どう感じたか」「岸田首相が被災地を訪れたのは1日14日だったが、このタイミングについてどう思うか」「岸田首相の震災対応について点数をつけるとしたら何点か(最高は100)」など。    岸田首相の自衛隊派遣のタイミングについては、「遅かった」が74%と最多だった。「早かった」は9%、「早くも遅くもなかった」が17%だった。岸田首相と回答者の認識には大きな差があった。 「遅かった」と回答した人たちに「なぜ遅いと感じたのか」を記述で回答してもらったところ、 「初動の段階(震災から3日間)で自衛隊を大量投入していればもっと多くの命を救えたはず。今回の地震は対応が遅いと意味で人災の側面もあると思う」(50代、男性、北海道) 「毛布、防災トイレ、水などはすぐに必要な物資とわかっているわけだから、大型ヘリでどんどん上から落とせばいいのに、何をのらりくらりしていたのか? 外国からの援助も止めていたが、すぐにやってもらえばいいと思う」(50代、女性、東京都) 「予算も自衛隊も様子見しながらの逐次投入! この遅れがなければ助けられた命があったはず」(70代以上、男性、埼玉県)  などの回答があった。自衛隊の派遣、救援物資の輸送、予算手当まで多くの点で岸田首相の対応が後手に回ったという印象を受けたようだ。  岸田首相の姿勢や意識の問題を指摘する声も多数あった。 「東日本大震災は手探りながらも政府や知事が本気で災害に立ち向かっていると感じられたし、ベストを尽くしたのではないかと。今回は、岸田政権や馳知事からそういうものは全く感じられない。岸田首相は新年会に出席している間、生き埋めになられている被災者のこととか頭に浮かばなかったのだろうか」(50代、男性、東京都) 「救命に必須な、発災から1月3日あたりまでの首相の動きがとても鈍かった。新年会に出たりインタビューで改憲のことを言ったり、気持ちが被災地に向いていないように感じた。何としても人々を救うという決意も方策も乏しかった」(60代、女性、滋賀県) 「裏金のことがあって災害のことにまで頭が回らない。自分のことでいっぱいいっぱいだったのではないでしょうか」(60代、女性、富山県) 「早くも遅くもなかった」と回答した人からは、 「自衛隊の初動については大きな遅延がないのに、人的な投入量が圧倒的に不足していた。死者が増えたのは人災の面も否めない」(50代、埼玉県) 「これだけの大きな災害なので誰がやっていても同じ。遅い、早いはつけられない」(70代以上、福井県、女性) 「自衛隊員の投入状況を熊本地震と比較し、少なくて遅いと批判することが見受けられるが、地理的条件や、自衛隊の配備状況など勘案して発言するべきである」(60代、男性、長野県)  などの記述があった。 「早かった」と回答した人からは、 「自衛隊の派遣は、石川県の馳知事が1月1日に首相官邸で要請を行い、その後首相が速やかに受理したものと理解しているので〈早かった〉と考えている」  といった声があった。   【こちらも話題】 「岸田さんは江戸より備えてない」と怒っていい 災害時、為政者は何をすべきか 北原みのり https://dot.asahi.com/articles/-/210936    岸田首相が被災地を訪れたのは発災から約2週間たった1月14日だった。このタイミングについては、「早かった」は2%、「適切だった」は17%にとどまった。「遅かった」は68%だった。「その他」(記述回答)では「遅すぎた」などの回答もあり、これらの回答をあわせると71%もの人が「遅かった」と回答していた。 「遅かった」と回答した人たちの記述回答を見ると、 「総理は国の長として責任があるため、早々に現地入りすべきであった。ヘリを使って行くべきであった」(30代、女性、茨城県) 「震度7がどの程度のものかという政治家の想像力が決定的に欠けている。地震の翌朝には首相自ら、または無理であれば知事をヘリコプターで派遣すべき。まず状況を把握しなければ対策は打てない」(60代、男性、東京都)  などとトップ自らが迅速に現場の状況を把握する重要性を指摘する声が多数あった。  岸田首相が被災者の救助や救命、支援が急がれるタイミングで、新年会に出席したり、テレビ出演していたりしたことに対し、不信感を持った人も多かったようだ。 「首相は現地入りする代わりに経団連の新年会に出るとは。東京でさえ揺れを感じたのに、責任ある立場にいて、心ある人間なら居ても立っても居られないのかと思ったが、あまりに冷淡でぞっとした」(50代、東京都) 「国のトップは甚大な災害の状況を一刻も早く把握し、対策をする必要がある。そのための首相。なのに、岸田首相は被災地に視察にもいかず、新年会をハシゴし、テレビ出演してニコニコと自民党総裁選への抱負を語っていた。その間に倒壊した家屋の下で救助を待つ人がどんどん死んでいった」(50代、男性、富山県)  他方で「適切だった」と答えた人からは、 「岸田さんにはもっとはっきりとした言葉で話をして欲しい。例えば、現地入りが遅いと言われたことに対しても、『混乱を招きかねないため、もう少し事態が把握できてから現地入りする』など」(30代、男性、沖縄) 「東日本大震災の杜撰な対応の二の舞にだけはならないよう気を付けていると感じる」(20代以下、男性、東京都)  といった声があった。   【こちらも話題】 裏金事件で支持率急落も岸田首相は意気軒昂 秋の自民党総裁選までに狙う「大逆転」シナリオ 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/212650    岸田政権の今回の震災対応を100点満点で評価すると何点か。  結果は10点未満の点数をつけた人の割合が38%で最多となった。10点以上30点未満の人が19%、30点以上50点未満が15%だった。50点未満の点数をつけた人が7割強に及んでいる。  評価の高いほうをみると、50点以上70点未満が15%、70点以上90点未満が8%、90点以上が5%となっている。  石川県に住む人たちからも厳しい声があった。  10点と回答した60代の女性は「被災者の命や生活に関心がない、ひどい政権だ」、0点と回答した70代以上の男性は「痛みを同じレベルで考えていない」と回答していた。  国会での岸田首相の答弁に改めて注目したい。   【こちらも話題】 〈1カ月を過ぎて〉【緊迫の被災地ルポ】ラジオから聞こえる死者数がどんどん増えて…能登半島地震の発生翌々日に現地入りの記者が見た光景 https://dot.asahi.com/articles/-/213181
紫式部が「夫の死」を契機に書き始めた『源氏物語』 道長との間にロマンスはあったのか
紫式部が「夫の死」を契機に書き始めた『源氏物語』 道長との間にロマンスはあったのか 源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B216-50?locale=ja    藤原道長と紫式部は“権門”と“寒門”と身分は異なれど、四歳ほどの年齢差で同じ世代を生きた。道長は、光源氏のモデルとも目されているほど「貴族道」を体現した人物だ。そして光源氏を生み出した紫式部も、宮廷という小宇宙にあって「女房」世界を象徴した。彼らの接点は「貴族道」と「女房」という王朝時代に特化されるべき局面での出会いにあった。紫式部が道長の娘彰子のもとに出仕したのは、寛弘二年(一〇〇五)の三十代も半ばの頃とされている。「かりに道長と式部に色恋沙汰があったとすれば、権門と寒門の化学変化の表れともいえなくもない。」と歴史学者の関幸彦氏は言う。同氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、関氏の考える藤原道長と紫式部の関係性について紹介する。 *  *  *   「長保」の年号は、式部の三十代前半に重なる。越前から単身都に戻った式部は、ほどなく当時山城守に任ぜられた宣孝と結ばれる。「長徳の大疫癘」もこの時期には下火になりつつも、不安は続いた。そうしたなかで長保二年(一〇〇〇)十二月、一条天皇の皇后定子が没した。一方、その前年には道長の娘彰子が入内しており、道長の順風と式部の幸福な一時期とが重なるようでもある。ただし、宣孝との結婚は二年ほどで終わりをむかえる。文字通り、死が二人を分かつことになる。  宣孝は再婚でもあり、式部との年齢差はそれなりにあったという。その出自は藤原北家高藤流に属した。両人は血縁的には無関係ではなく、式部の祖父雅正の妻方の流れに宣孝は属した。いわば遠い「いとこ」になる。『尊卑分脈』その他によれば、備後・周防・山城・筑前の国守を歴任、その家系も典型的な受領クラスに位置した。 『石清水文書』には、大宰少弐時代の正暦三年九月に宣孝本人の署名が見えている。宣孝は二年前に筑前守に任ぜられていたが、その字面は必ずしも端正ではない。何とも遍と旁が整わない、アンバランスな感じだ。“字は体を現わす”の喩でいえば、器用なタイプではなさそうだ。 【こちらも話題】 紫式部「女としてのうぬぼれ」が描かせた源氏物語の空蝉 https://dot.asahi.com/articles/-/13654  彼は多くの辞典類を参ずると、賀茂祭での舞人を務めるなどの経験も豊かで、中級官人の典型でもあった。その点では和歌を詠じ、道長以下の権門とのチャンネルを有する中級貴族なりの“貴族道”の体現者だった。そんな文人にして芸術家肌の気質に、彼女は反応したのかもしれない。型にとらわれない自由な字面も、そうした気質が垣間見られそうだ。受領任官にともなう都鄙往還の経験も共通する。年長者ならではの信頼感が、彼女の“雪融け”をうながした可能性は否定できない。  結婚後、両人には娘賢子が誕生する。式部にとって、妻として母として最良の時節が訪れた。宣孝も「宇佐使」や「平野使」の勅使を勤めるなど、多忙を極めた。権門の道長にも信頼されたようで、“使える貴族“として活躍した。けれども幸せは長くは続かなかった。所労も重なったためか、長徳三年(一〇〇一)四月、宣孝は死去する。式部三十二歳の頃だった。 宮中への出仕─三十代後半  夫宣孝死去の数年後、彼女は宮中へと出仕する。寛弘二年(一〇〇五)、三十六歳の頃だ。出仕する直前に内裏が焼失、一条天皇及び彰子は道長の東三条殿に遷っており、式部はここに出仕した。その後、一条内裏へと皇居が移り、式部の生活もここが拠点となる。彼女が仕えた中宮彰子が一条天皇に中宮として入内したのは、六年前のことだ。  彰子は式部出仕の二年後に皇子敦成親王(後一条天皇)が誕生。すでに皇后定子は没しており、彰子は天皇との間に第一皇子敦成、続いて翌年にも敦良親王(後朱雀天皇)が誕生し、道長の外戚の立場は盤石さを加えていた。  ちなみに『源氏物語』の起筆は式部の出仕以前のこととされる。諸説あるなかでも、宣孝の死去後程ない時期とされている。彼女にとって、宣孝の死が筆を執る契機となったようだ。多感な彼女が多様な経験をした三十歳前半は、『源氏物語』執筆の契機も潜んでいたのかもしれない。その辺りは定かではない。実名を香子との指摘もあるが、詳細は不明だ。出仕の当初は「藤式部」を名乗った。女房名は一般的に父祖や夫の官職を付すことが慣わしとされる。「式部」はいうまでもなく、父為時の「式部丞」に因む。 【こちらも話題】 紫式部が「源氏物語」を書いたきっかけは 夫に先立たれて3年で終わった結婚生活 https://dot.asahi.com/articles/-/206951  越前国守就任に至る十年間は、寒門の悲哀を実感したはずで、そうしたなかにあって、和歌に長じた式部丞の官職は、為時の名誉とするところだったのだろう。出仕後、彼女もそれを通称とした。「紫」については、諸説あるものの、当時宮中でも話題とされた以下の話が一般的とされる。  道長のブレーンの一人、公任が「あなかしこ、この辺に若紫やさぶらふ」といって、式部の局を訪れたとの話があり、それに由来するらしい。「若紫」は「源氏」の作者たる式部の別称の観もあったようで、それに因むという。他に「日本紀の御局」とも評され、中級ランクの女房ながら、好評を博していたらしい。  式部の出仕については、道長からの要請の結果だったとしても、彼の当該期の“文”への傾斜は注目に値する。「寛弘」段階の道長の文道への執着は強く、詩歌の作詠会のみでも、二十回前後に及んだという。『文選』『白氏文集』などのへの関心も強かったことが『御堂関白記』からもうかがえる。そうした権門のサロンに、式部の父為時は中級貴族として顔もだすこともあり、それが機縁となったらしい。  寛弘年間(一〇〇四〜一〇一一)は、後宮世界で式部が彰子に仕えた期間に重なる。そして、道長もまた四十歳代の絶頂期であり、両者の間で時間の共有がなされた段階だった。式部一家にとっても、末弟の惟規が蔵人に任ぜられたり(寛弘四年)、前年には父為時が東三条第の花見の宴に列席したり、さらに式部自身についても『源氏物語』が話題となるなどの時期だった。彼女の三十代後半の頃のことだ。前述の公任が式部の局を訪れたのも、寛弘五年(一〇〇八)の、この時期のことだった。 【こちらも話題】 好みは草食系より肉食系 「男女の仲」を知っている必要があった平安時代の「女房」たち https://dot.asahi.com/articles/-/212407  道長自身は女郎花を折って式部に与えたこともあった。その道長が寛弘六年の夏の夜に、式部の局の戸を叩く出来事もあった。この件に関しては『紫式部日記』によれば、以下のように記されている。中宮彰子が敦良親王懐妊中の道長の土御門殿での出来事とされる。「すきものと名にし立てれば……」(貴女は浮気者という噂が高いから誰もが口説くことでしょうね)との道長側からの式部への歌に、彼女は「人にはまだ折られぬものを……」(私はまだ誰からも口説かれたことはありません。誰が浮気者と言いふれているのでしょうか)と返歌したことが見える。そしてその夜のこと渡殿局の戸を叩く人がいて、その音を聞いたが、恐ろしいので応答せずに夜を明かした。その翌朝に道長から「夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ……」(私は一晩中水鶏のように泣きながら、戸口を叩き続けても閉じたまま夜を明かしました)。これに対し式部は「ただならじとばかりたたく……」(ただごとではない様子の戸の叩き方に水鶏と同じくさほどの気持ちではないのに戸を開けたなら、煩わしい思いをしたことでしょう)。こんな歌の応酬があった。  この件は想像をかきたてられはするが、真偽は不明。『尊卑分脈』には「道長の妾」との表記があり、右に見た『紫式部日記』の記事などが下敷きになった推測なのかもしれない。それとは別に想像を逞しくすれば、土御門殿での道長からの式部への「すきもの……」云々の投げかけに、浮気者ではないことを返歌で示した彼女に、その真意を確かめるための“男心”が道長の夜の訪れに繋がったのかもしれない。それが両人の関係への関心を倍加させることとなった。当時、道長は分別盛りの四十四歳、男盛りでもあることからすれば、不惑前夜の式部とのロマンスも考えられなくはない。同年の冬には敦良親王(のちの後朱雀天皇)も誕生、順風の時期でもあった。  この時期、道長は『源氏物語』の草稿にもかなりの興味を持っていたようで、中宮彰子出産後の祝のためとされるが、清書用の『源氏物語』の草稿本が未完成のまま、道長に持ち去られるという珍事もあった。それだけ彼女は注目され始めていた。 【こちらも話題】 紫式部と藤原道長に「禁断の恋」はあったのか 晩年の『紫式部集』で明かされた「真実」 https://dot.asahi.com/articles/-/210586
男性も困る片づけ問題! 名門校・聖光学院での講座を通して感じた「片づけの力」を伝える重要性
男性も困る片づけ問題! 名門校・聖光学院での講座を通して感じた「片づけの力」を伝える重要性 2回に分けて計93人の生徒が参加してくれました    5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.64 男子中高生に片づけ講座  私が主宰する家庭力アッププロジェクト®には、片づけで悩む多くの女性が参加してくださっています。でも、片づけの問題に性別は関係ありません。特にこれからは男性も片づけや家事で家庭を支える力を身につけることが大切だと考えています。  “男性にも片づけを伝えていく”という活動を進める中で、神奈川県の聖光学院中学校高等学校で片づけについて講義をするという貴重な機会をいただきました。こちらの学校では“聖光塾”という正規のカリキュラムや学年の枠を超えて、さまざまな体験型の学びが行われています。  今回は、聖光塾のプログラムのひとつとして、片づけに関する講座を担当させていただきました。  集まってくれたのは、中学1年生から高校1年生まで93人の男子生徒たち。私たちの予想をはるかに上回る数の生徒が集まってくれて、1回だけの講座の予定を2回に増やしました。  講座のタイトルは、「やりたいことに何でもチャレンジできる時間管理と整理術」。まず、大人になったときに“時間管理”と“身の回りの片づけ”が大切だということをお伝えしました。  私の娘が海外でホームステイをしたとき、一緒に行った子がホームステイ先から拒否されてしまったことがありました。なぜかというと、英語は話せても自分で生活する力がなかったからです。  時間通りに起きられない、自分の荷物も片づけられない、家のことも何もできない。日本にいるときは、すべて親に頼りっぱなしだったようです。大人になって一人暮らしや結婚をしても、生活するのに困ることが多そうですよね。 自分の意見を発表するグループワークも行いました  実際に生徒たちに1日の時間の使い方を書き出してもらうと、すきま時間やムダに過ごしている時間があることがわかりました。その時間を活用すれば、効率的に時間が使えます。  さらに、片づけをすると、必要なモノをすぐに取り出せて生活や勉強がしやすい環境を作れます。時間管理と片づけの関係がピンとこなかったたちも、このように話すと納得してくれた様子でした。 「片づけが苦手な人いますか?」と問いかけると、大半の手が挙がりました。「週末は片づけているという人は?」という質問には、数人という結果。  これはしかたないことだと思います。中学生・高校生は勉強に部活に忙しい時期。友だちとも遊びたいし、趣味も多い。片づけに費やす時間はあまりないでしょう。  大人の方も同様に、まとめて時間を確保できない場合におすすめなのが片づけを習慣化すること。私が「お片づけ習慣化コンサルタント」として活動しているゆえんでもありますが、習慣化してしまえば「片づけをするぞ!」と意気込まなくても毎日きれいな状態をキープできるのです。  講座の中でどうすれば習慣化できるのかを生徒たちに伝えた後、私たちからファイルスタンドを1人1つずつ配って、実際に自分のロッカーを片づけてもらいました。  片づけを始める前に行ったアンケートでは、学校のロッカーを「使いやすい」と答えた生徒は66.7%いました。けっこう高いですよね。 ファイルスタンドを1人1つずつ配布    でも、講座の中で「どういう状態が使いやすいと思う?」ときいてみると、「モノが全部入っていればいい」とのこと。そうではなく、“モノが取り出しやすくて戻しやすい”という状態を目指してみようとお話ししました。  さらに、ほかの人と同じではなく、“自分に合わせてカスタマイズする”ということも大切です。  参加してくれた生徒たちの中で、1番身長が高い子は183cmありました。155cmの私の隣に立ってもらうと、立った状態で見えやすくて手が届きやすい“ゴールデンゾーン”が、私よりも高い位置にあります。私はしゃがんで作業をすることがそれほど大変ではないですが、彼にとってはストレスになる。もし、彼が私とまったく同じようにモノの定位置を決めて片づけると、取り出しにくくて戻しにくいので散らかってしまうでしょう。   自分のロッカーの片づけスタート!  どうすれば自分にとって使いやすいのか、をポイントに自分のロッカーを片づけてもらうと、生徒たち自身にたくさんの気づきがあったようです。  ロッカーの中のモノが多すぎて笑う子もいれば、「先生、見て!すごいでしょ!」ときれいになったロッカーを見せてくれる子もいました。片づけが「気持ちいい!」と話してくれる子も。素直に感情を表現する生徒たちの姿を見て、私もとても楽しい時間でした。  ワークや片づけの時間も含めて3時間という長い講座でしたが、全員最後まで熱心に取り組んでくれました。  終了後に行ったアンケートで、「今日の講座で学んだことを、自分の学校生活に活用できると思いますか?」という質問に「まったくそう思う」が62.5%、「だいたいそう思う」が37.5%という結果に。「どちらでもない」「あまり思わない」「まったくそう思わない」の回答がゼロ。今後の学校生活がよりよいものになるために活かしてもらえるとうれしいです。  また、「部屋が散らかっていて悩んでいたことの解決の糸口を見出すことができました。ありがとうございました」「家で片づけたり将来職場とかでも片づけて、きれいに生きたいなと思いました」など、うれしいご意見も。ほかにも私の励みになる言葉もいただけて、この世代の男子に片づけを伝える大切さを逆に教えていただいた気がします。 生徒たちと一緒に片づけて使いやすいロッカーに  この講座のすぐ後に冬休みに入ったので、生活のバランスが変わり、生徒たちは時間管理や自己管理の大切さを感じているかもしれません。これをチャンスととらえて、1日の時間の使い方を見直したり、自分の部屋を片づけたりして、将来に向けて成長していってほしいなと思います。  片づけは、学校で習う教科ではありません。でも、生きていくために必要なスキルの一つです。これからも機会があれば、年代や性別問わず多くの方に片づけの重要性を伝えていきたいと思います。 受講された生徒のみなさんのこれからの成長が楽しみです。「きれいに片づけたよ!」の報告、待っていますよ。   ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
「落ちたら終わり」常に綱渡りの感覚 障害児の親たちが語る「仕事との両立阻む壁」とは
「落ちたら終わり」常に綱渡りの感覚 障害児の親たちが語る「仕事との両立阻む壁」とは 障害や医療的ケアのある子どもを育てる親たちがオンラインで集まった座談会。「障害児の親」といっても、子どもの障害は種類も重さもさまざまで、一律の制度ではこぼれ落ちてしまう人がいる。一方、個別の状況に配慮した柔軟な制度を設ける企業も出始めている(zoom画面を撮影)    仕事と育児の両立のための制度は徐々に整ってきたが、ほとんどが健常児の育ちを想定したもの。成長しても一人で留守番や登下校できない障害児や医療的ケア児らを育てる親たちが働き続けるにはさまざまな壁が立ちはだかる。両立に悩む親たち5人がオンラインで語り合った。  仕事と育児の両立のための制度は徐々に整ってきたが、その多くは健常児の育ちを想定したもの。成長しても一人で留守番や登下校できない障害児や医療的ケア児を育てる親たちが働くには幾重もの壁が立ちはだかる。両立に悩む親たち5人がオンラインで語り合った。AERA 2024年2月5日号より。 *  *  * ──司会の深澤です。私自身も脳性まひの長男がいるので、登下校や療育、リハビリへの付き添いなどと仕事との両立にとても苦労しています。みなさんはどのように働き続けてきたのでしょう。 神山春花(アパレル勤務、育休中):仙台の神山と申します。2歳の長男がダウン症で合併症などもあり、まだ自分で歩行や食事ができません。  長男の出産後、市役所に保育園について問い合わせたら、「特別支援枠の空きはないから、入るのは難しいと思った方がいいよ」と言われ、どうしたらいいのかと悩み、2人目を産んで育休期間を延ばす選択をしました。仙台市ではこれまで、保育園は軽度から中程度までの障害児しか受け入れがなかったんですけど、昨年、同じ境遇の親たちと団体をつくり、市に要望書を提出して交渉を重ね、来年度から重度の障害児も入園の対象となりました。先日、長男の入園も決まって、ほっとしているところです。 総勢10人のヘルパー 工藤さほ(新聞社勤務):障害の重いお子さんにも門が開いたっていうのは、ものすごく大きな前進ですね。  私は都内在住で、高1と中2の娘がいます。上の子が重度の知的障害を伴う自閉症で、私立の特別支援学校に通っています。片道1時間半近くかかり、登下校の付き添いは、福祉サービスの移動支援を利用し、総勢10人のヘルパーさんにお願いしています。ただ、朝はラッシュ時間帯で、娘の特性では公共交通機関を利用することが厳しいんです。公共交通機関でないと移動支援が受けられないため、全額自費で送迎をお願いしています。  今の悩みは、特別支援学校卒業後の居場所が限られる「18歳の壁」をどうするか。(常時介護を必要とする障害者が日中過ごす)生活介護事業所は午後3、4時には終わってしまい、親はとてもフルタイムでは働けません。健常のお子さんは18歳といえば手が離れますが、障害児の場合、より親の負担が増すのが悩みです。 林里奈(公務員):都内在住の林です。娘が重度の知的障害のある自閉症で、特別支援学校小学部の6年生です。私は公務員ですが、娘の場合、スクールバスの迎えの時刻が私の始業時刻とほぼ同じなんです。そこで、休憩時間を30分短縮して始業時刻を遅らせる制度を利用したり、移動支援を利用してヘルパーさんにバスポイントまで娘を送迎してもらい、働き続けています。障害のある子は放課後等デイサービス(放デイ)を利用するのが一般的ですが、娘は地元の学童を利用しています。ただ、中学に上がると学童は利用できないので、今後、預かり時間の短い放デイに預け、どうやって仕事を続けていくか、悩んでいます。 スクールバスに乗れず 出本紀子(病院勤務、時短勤務中):広島の出本です。小5と小3の息子がいて、長男に不安障害、強迫性神経症があります。2年半前から学校に行けなくなりましたが、自宅以外に息子が過ごせる場所はなく、児童精神科医からは1人で留守番できるのは中学生ぐらいからと言われ、職場と交渉し、介護休業や介護休暇の取得を認めてもらい、ファミリーサポートなどを駆使してなんとか仕事を辞めずにきました。いまは介護時間(「育児・介護休業法」で定められた短時間勤務)を利用して働けていますが、今年の11月に期限を迎えます。仕事中、ピエロが綱を渡るシーンが頭に浮かび、「落ちたら終わり」という感覚をずっと持っています。 三村晋也(小学校教員、休職中):千葉県で公立小学校の教員をしています。来年度小学校に入学の次男が重症心身障害児で、人工呼吸器や経管栄養などの医療的ケアもあります。妻も教員でしたが、育休を最長3年間取得しましたが預けられる保育園が見つからず退職しました。さらに、2歳上の長男が不登校になり、妻が校内で付き添うことになり、次男の面倒をみるため、私が今年度1年間休職をとっています。  次男の就学先については市の教育委員会から特別支援学校を勧められましたが、医療的ケアがあるためスクールバスに乗れず、田舎で移動支援の事業所もなく、親が片道1時間かけて送迎しなければなりません。でも、別々の学校にそれぞれ付き添うと、親が二人とも働けない。そこで、次男も長男が通う地元の小学校の特別支援級に通学し、妻が付き添う形を考えています。 ──障害児育児と仕事の両立は日々も大変ですが、特に保育園入園や就学、中1、そして18歳の壁など、追いつめられるタイミングが幾重にもありますね。また、2021年に施行された医療的ケア児支援法には、家族の離職防止が明記され、住んでいる地域にかかわらず適切な支援が受けられるようにすることが「国や自治体の責務」とされましたが、三村さんのお話を伺うと地域格差も大きいと感じます。 病室からそのまま出勤 神山:林さんや工藤さんなど、都内だと障害がある子も保育園に当たり前に入っていてすごく驚きました。こちらでは、行政の側に「ハンディキャップがある子どもは母親が仕事を辞めて家庭で大切に見るべき」みたいな考えがあって、窓口の職員からも刷り込まれます。都内には、保育園申し込みの際に障害児だと選考の点数が加点され、入園しやすくする区もあると聞きました。地域で受けられるサービスや制度などに格差があるので、国で一律にしてもらえたらなと思います。 工藤:保活で思うことは、私の娘は本当に育ちがゆっくりで、無理に急かせて入園させてしまうと、自傷行為が悪化するなど強度行動障害を発症するリスクもあります。子どもの特性によっては乳幼児期に親子で療育を受けることも大事ですので、仕事を保障しながら親子で通園できる環境や、子どもの状態に応じて育休期間を柔軟に対応していただけるような制度も必要だと思います。そして、働くことが「母親のわがまま」のように言われることもありますが、いまは共働きしないと生活できない家庭も多く、障害児を育てるには予期せぬ出費も多い。自分の死後も子の生活を保障するためにも働き続けたいんです。 ──こうした綱渡りの日々に、子どもや家族の入院や不登校などが重なると、追いつめられてしまいます。 三村:医療的ケア児の次男は2カ月に1度は約2、3週間入院します。休職前は勤務した後、まだ仕事が残っていても午後6時には学校を出て病院に直行し、妻と交代して病室に泊まり込み、朝そのまま学校へ、という生活を送っていました。そこに長男の不登校が加わって長男にも付き添いが必要になった。ぎりぎりで成り立っていた生活が崩れ、綱渡りどころか、綱がつながらなくなってしまって。教員のようにリモート勤務できず、柔軟な働き方ができない職種は両立が難しいと感じています。 子が小児がんで入院 林:私の一番の危機は、娘が1歳半で小児がんになったときでした。腫瘍が見つかってすぐに手術が必要ですと言われ、入院し、私が24時間付き添いました。退職も覚悟しましたが、仕事を辞めると上の子が保育園退園になってしまう。母親が入院の付き添いでいないのに、子どもの日中の居場所がなくなるってすごい矛盾してますよね。最終的には、介護休暇を取得し、離職も退園もせずに済みました。 出本:私は長男が学校に通えなくなって、使用できるありとあらゆる休暇を利用したけれど、もうどうにもならなくて、職場でも退職勧奨を受け、もうやめるしかない、と覚悟しました。でも長男から「お母さんに仕事を続けてほしい」と言われました。私は言語聴覚士として病院で働いているんですが、長男は宿題の作文にも私の仕事について書いてくれて。その頃、ようやくつながった不登校支援グループの方から「動物を飼えば1人でいられるかもしれない」とアドバイスをもらい、猫を2匹飼い始め、長男が1人でいられるようになったから今働けているんですけど、たまたまうまくいっただけ。一つでもピースが欠けたら仕事は続けられていないと思います。 神山:私も同じで、たまたま長男と次男の育休を続けて取得できたから、退職せずにすみました。もし、1年以内に育休復帰しなければならなかった場合、市役所への要望や交渉などをする余裕もなかったと思います。 障害児育児盛り込んだ制度 ──運や環境に恵まれた一部の人だけでなく、働きたい人が働ける制度が必要です。 工藤:私のケースですが、障害や医療的ケアのある子を育てる社内の仲間たちと会をつくり、労働組合を通じて会社に訴え、障害児や医療的ケア児を育てる従業員が、子の年齢に関係なく何度でも時短勤務や勤務配慮を申請できる制度が創設されました。国も、当事者の声に耳を傾けてくれて、春の通常国会に障害児・医療的ケア児を育てながら働く親への配慮の視点を盛り込んだ「育児・介護休業法改正案」を提出する方針です。 ──先日、朝日新聞でも報道されていましたが、JR東日本では今年4月から、障害児や医療的ケア児、難病の子どもを育てる社員の仕事と育児の両立を支援するため、子どもの年齢にかかわらず、短時間勤務制度などを利用できるようになるとのこと。また、電機メーカーの労働組合でつくる電機連合も、今年の春闘に障害児や医療的ケア児を育てる家族への支援制度を盛り込み、個別の事情に配慮した両立支援制度の門が少しずつ開き始めています。 障害児の選択肢少ない ――障害児の学びの場について、林さんのお子さんは特別支援学校に通っていますが、就学相談の際に悩んだりしましたか。 林:娘には、まずは身辺自立させたいという希望があったので、そのためには特別支援学校しかないと思い、迷いませんでした。ただ、特別支援学校だと地域との接点がなくなってしまうので、学童を利用させたいと思いました。いまは道を歩いていても声をかけてくれる子たちがいたり、落とし物をしたときに娘の名前を見て学童に届けてもらったりしたこともあって、地域に見守ってもらっているという心強さがあります。 工藤:日本では特別支援教育の選択肢が少なすぎると思います。健常児の場合、特に都市部では私立の学校が山のようにありますが、私立の特別支援学校は全国に10校程度。障害児こそ特性がさまざまなのに、選択肢が少なく、適応できない場合に代わりの育ちの場がなさすぎます。 特別支援学校に学童を 林:工藤さんがおっしゃるように、障害のある子にも選択肢があって、自分らしくいられるような居場所が選べたらいいのにな、というのは上の子の中学受験を通してすごく感じました。中学受験では各学校が「うちの学校はこんなことやってます」と猛アピールし、おもてなしもすごい。一方で、障害のある娘には選択肢がない。中学に入っても部活動もなく、放課後の居場所は放デイだけ。そのなかで娘が幸せに楽しく過ごせる場所が見つかるのかな、と考えてしまいます。積極的に選べるものが少ないのが悲しいです。 工藤:それに、多くの小学校では校内や近くに学童保育が併設されているのに、特別支援学校には全国的にありませんよね。北海道など雪深い地域だと、学校から放デイまでの道路が大渋滞して到着する頃には子どもが疲弊しきっていると聞きます。林さんがおっしゃる地域とのつながりは切れてしまうかもしれないけれども、特別支援学校内学童は障害児の選択肢の一つとしてどうでしょう。 林:学内学童は必要だと思います。特別支援学校に通う子どもの多くは、スクールバスで長い時間移動して通学しています。放課後の移動がなくなると身体的にも精神的にも負担が軽減されます。また、放デイは毎日利用できるとは限らないですし、複数の事業所の掛け持ちも多いです。慣れた場所で毎日利用できるのであれば子どもの気持ちも安定しますし、親も安心して働けます。特別支援学校に通わせたいけれど、学内学童がないから、小学校内の特別支援学級を選んでいる家庭もありますし。 三村:いまは特別支援学校に学童がないので仕事をしていない親御さんの中にも、学童があれば働きたいという潜在的ニーズはあるんじゃないかと思います。 工藤:皆さんとお話しして、私たちのような親の存在を、声を上げて見える化していくことがとても大事だと感じました。今日はありがとうございました。 (編集部・深澤友紀) ※AERA 2024年2月5日号に加筆
【大災害に備える】無駄吠えや噛み癖はなおっている? ペットの飼い主に求められるしつけやケア、グッズ
【大災害に備える】無駄吠えや噛み癖はなおっている? ペットの飼い主に求められるしつけやケア、グッズ   輪島市でペットの巡回診療が始まった。訪れた犬を診察する獣医師(右)=2024年1月28日、石川県輪島市    元日に起きた能登半島地震でも、ペットとともに被災した人が多数にのぼった。  発災時には「同行避難」ができたとしても、避難所で様々な問題に直面して自宅に戻ったり、車中で過ごしたりする人も後を絶たない。熊本地震(2016年)の際に問題になった、一緒に避難所で生活する「同伴避難」の困難さは今回もあらわになった。19年の台風19号の際には犬2匹、ウサギ2匹を飼っていた男性が、自宅でペットとともに多摩川氾濫の犠牲になったこともあった。ペットの飼い主として、これから起きる大規模災害にどう備えればいいのか、いま一度考えてみたい。 *    *  * 「ペットと同行避難をすることは、動物愛護の観点のみならず、飼い主である被災者の心のケアの観点からも重要である」  環境省が18年3月にまとめた「人とペットの災害対策ガイドライン」に出てくる一節だ。  東日本大震災(11年)で一部のペットが自宅に取り残され、つながれたまま亡くなったり、放浪して行方がわからなくなったりする悲劇に見舞われた。こうした事態を受けて環境省は、大規模災害の際には「飼い主とペットが同行避難することが合理的である」とする基本的な考え方に立ち、各種ガイドラインをまとめてきた。 ペットの巡回診療を訪れた猫=2024年1月28日、石川県輪島市 「同行避難」に備える  いまや同行避難は、ペットの飼い主を中心に、広く浸透している。だが、いざという時、実際に同行避難するためには、やはり日頃の準備が欠かせない。  まず、自宅の近くでペットとの同行避難が可能な避難所はどこなのか、地元自治体の防災計画や動物愛護管理推進計画などを確認しておく必要がある。  そのうえで、実際にペットを連れて、その避難所まで行ってみよう。犬ならリードにつないで一緒に歩いて行けるかもしれないが、猫やウサギ、鳥など、キャリーケースに入れなければ運べない動物では、そこまで持ち運べるかどうか、体力が試される。特に複数のペットを飼育していれば、連れて行くことが物理的に可能かどうかは、深刻な問題になる可能性がある。  また、留守がちな家庭では、近所の人にペットの存在を周知しておくのも一つの手だ。発災時にどこまで頼れるかは未知数だが、家屋が倒壊したり、火災が発生したりした場合、屋内にペットがいることを近所の人たちが知っているかどうかは、少なからずその後の対応に影響するはずだ。「逃げ出すのを見た」などの目撃証言を得られるだけでも、飼い主として何をすべきか変わってくる。 ペットのための防災用品もリュックなどにまとめておきたい  次に、ペットのための備蓄を考えよう。おやつを含むフードや水、トイレ用品については、それぞれ7日分程度は備えておく。リードや食器、タオル、ワクチン接種状況などがわかる書類、おもちゃなどもひとまとめにしておけば、慌てなくて済む。人間用の防災セットを準備している家庭は多いから、それらと同じ場所に保管しておくのがいいだろう。最近では、ペット用の折りたたみ可能なサークルやテントが販売されていたりもする。持っていると、避難先での選択肢は確実に増える。  普段のしつけやケアも重要だ。避難所には動物が嫌いな人、動物アレルギーの人がいることを想定しなければいけない。犬や猫などはまず、ケージやキャリーケースに慣らしておくべきだ。キャリーに入れられなければ、そもそも同行避難もままならない。  また犬であれば、無駄吠えやかみ癖などをなおしておきたいところ。避難所でトラブルのもとになる。同様に、犬猫ともに不妊・去勢手術は済ませておいたほうがいい。避難所に、不妊手術をしていない発情期のメスがいれば、去勢手術をしていないオスの興奮はおさえられない。  定期的なワクチン接種を欠かさず、感染症予防を徹底しておくのも飼い主として当然だ。さらに、日頃からブラッシングや爪切りなどを欠かさず、衛生的にしておくことも最低限のマナーと言える。  これらに加えて猫の場合、大きな地震が起きた直後の行動について踏まえておきたい。まず、恐怖や不安から、どこかにじっと隠れてしまうことがある。捜し出すのに時間がかからないよう、猫がよくいる部屋のクローゼットの扉などを普段から開けておくのがいい。いざという時、そこに隠れるよう誘導できる。  パニックになって、開いていた窓や壊れたドアから脱走してしまう――という事態も比較的よく起きる。そうした場合に備えて、マイクロチップはぜひ装着を。これは犬にも言える。大規模災害時には、身の上にどんなことが起きてもおかしくはない。マイクロチップを装着しておけば、万が一はぐれても、再会できる可能性が格段に高まる。  なお、まず自分の身の安全を確保するのは大前提だ。自身が無事でなければ、ペットを守ることはできない。 「同伴避難」はできるか  ともに避難できたとして、次に問題になるのが避難所での生活だ。ペットとともに避難生活を送れるかどうかで、事態は大きく変わってくる。  同行避難が可能な避難所を事前に確認する際、あわせてその避難所でともに避難生活を送れるかどうかも調べておくといい。被災後1、2日は一緒にいられたとしても、避難が長期化するケースでは、「同伴避難」が難しくなることは少なくない。  まず、もし避難所でともに生活できるのであれば、ペットの飼い主同士で「飼い主の会」を設立するよう動いてほしい。環境省もガイドラインでそう推奨している。互いに協力し、場合によっては自分たちでルールを作りながら、適切な飼育管理をしていくためだ。環境省によれば、避難所での苦情やトラブルを減らす効果があるという。  同じ避難所にいられたとしても、ペットは別部屋のケージやサークルに入れられたり、犬種によっては屋外につながれたりするケースもある。こうした事態に備え、前述の通り日頃からケージなどに慣れさせ、無駄吠えやかみ癖をなおしておき、さらには別の犬や猫と穏やかに過ごせるよう社会化しておくことが大切になる。  一方で、避難所での同伴避難が困難なケースも、残念ながら少なくない。自治体によってその濃淡はあるが、覚悟はしておくべきだろう。  もし車で避難しているのであれば、まずはペットを車内に残し、飼い主は避難所に入るという選択肢が現実的になる。ただ夏場であれば熱中症の危険があり、すすめられない。冬場、寒さに弱い動物を車中に置くのもリスクが高い。また、ペットだけを車中に残すことに不安を感じるのも、飼い主として当然の感情だろう。  こうしたなか、自宅に戻るという選択をする人も一定数いる。だがこれも、余震が続いていたり、ライフラインが復旧していなかったりする場合、リスクが高い。安全を確認のうえ、冷静な行動が求められる。  最も有効なのは、日頃から遠隔地の家族や親戚、友人らと相談しておき、万が一の場合にペットを預かってくれる先を確保しておくことだ。それも離れた複数の地域に。日本に住む限り、大規模災害はどこで起きてもおかしくはない。お互いにとってメリットになる。  また今回の能登半島地震では、ペットの「一時預かり」を受け入れるボランティア活動も始まっている。一時的にでも、ペットと離れて暮らすのはつらい。だが、飼い主にとってもペットにとっても、合理的な判断を下さざるを得ない局面は、残念ながらある。  ただ一般論として、大規模災害時に限らず、「一時預かり」でトラブルが起きることもある。預けたペットを返してもらえなかったり、預けた先で脱走したり、病気やケガをしたり、飼育にかかる費用を巡って見解の相違があったり……。こうした事態に備え、預ける際の「契約内容」、やわらかく言えば「約束事」はよく確認、合意しておくことが大切だ。相手が動物愛護団体の場合には、その活動内容も把握しておこう。  善意に頼るなかで、そうした確認に心苦しさを感じるのは、当然だ。でも、かけがえのないペットのために、絶対に必要なことと割り切ってほしい。預かる側にとってもトラブル予防になるはずで、過度に遠慮することはない。 ペットの心にも配慮を  最後に、ペットの心のケアも考えてあげよう。大規模災害に見舞われた時、人の言葉が通じない動物たちにとっては、いったい何が起きているのか事態が把握できず、不安が大きく募る。過去に大地震が起きた際、その余震に驚いた猫がマンションの窓から飛び降りてしまった悲劇なども、少なからず報告されている。  飼い主の不安は、ペットに確実に伝わる。なるべく落ち着いた行動を心がけ、ペットを安心させてあげてほしい。いつも以上にスキンシップをとることで、ペットの心を落ち着かせることができる。ペットのぬくもりや存在を近くに感じれば、飼い主の心も和らぐ。  被災した状況で、そこまで配慮することが難しいことは確かだ。それどころではない――というのも当然だと思う。でも、そうあろうと努めることが、飼い主にとってもペットにとっても、「次の一歩」につながるはずだ。 (朝日新聞記者・太田匡彦)

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