「文庫・新書イチオシ」に関する記事一覧

ガリレオ裁判
ガリレオ裁判
歴史に残る偉業を成し遂げた人が、人格的にも優れていたとは限らない。科学者は科学者として、戦争の名人は戦略家として、優れていたのだろう。でも、人間としてはどうか。  ガリレオの話なのに、本書はナポレオンの逸話ではじまる。ナポレオンは征服した土地から様々なものを持ち帰ったが、ローマ教皇庁からは膨大な文献を持ち去った。ガリレオ裁判の記録はその目玉だった。  裁判を検証し、教会の蒙昧さを暴こうとしたのだが、整理は遅々として進まず、やがてナポレオンは失脚。文書は返還されるが、運搬費用のためにかなりの史料が業者に売り払われた。おいおい。  ガリレオ裁判の記録も一部失われ、けっきょく近年になってヴァチカンから出版された。 「それでも地球は動いている」の決め台詞は後年の創作で、本人はそんなことは言っていない。それでもガリレオの業績は変わらない。だから彼は、教会と闘った科学の英雄と思われてきた。  だが、現実は違ったらしい。  ガリレオもキリスト教徒だし、世渡りも考える普通の人間だった。有力者に取り入ったりもする。一方、教会内部にも本音ではガリレオの研究成果を認める知識人は多く、どうにか彼の知見と教会の教えを調和させようと骨を折っていた。  地球の自転と公転を「仮説として」考えることは容認されており、ガリレオもその線で行動する。しかし教会内部の派閥対立もあって、ついに異端審問にかけられる。  審問でのガリレオは日和りまくる。「軽率な間違い」で済むチャンスを見逃し、地動説を否定する明確な証明を『天文対話』に書き加えたいなどと、自分から申し出たりもする。これは却下されたが、おかげで『天文対話』が科学史上の名著として残ったのは皮肉だ。 「なーんだ」と思う人もいるかもしれない。だが、そんな男が、それでも事実にたどり着き、周囲の顔色を気にしながらも書き記したのは、別の意味でドラマチックだ。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 12/3
女子大生風俗嬢
女子大生風俗嬢
大学に通うため奨学金を借り、学業に支障をきたすレベルでバイトをしなくてはならない学生がいる。本来、勉学というのは学生自身を知的にするだけでなく、卒業後の彼/彼女が出て行く社会を豊かにすることにも繋がるのだから、国を挙げて応援してもいいようなものだが、実際は違う。財務省が国立大の授業料を引き上げるよう提言したことからも分かるが、いまや自己責任と受益者負担の名のもと、学生がリスクを背負うのが当たり前の時代。苦学の甲斐あってちゃんと仕事に就けるのならいいが、長引く不況がそれを許さない。じゃあ中卒・高卒で働けばいいかといえば、そんなことはない。就職活動で下位校の学生が差別される「就活フィルター」があるのだから、大卒でない学生は、より大変な思いをすることになる。  この状況をもっともシビアな形で体現しているのが、風俗で働く学生たちだ。ノンフィクションライターである著者が取材した学生は、有名大学からFランク大学まで、男も女もいる。大人数をリサーチしているわけではないが、どんな学生にも風俗で働く可能性があると思わせるには十分だ。なお、性的サービスに従事する若者の話を読んで、エロい気分に浸ろうと思っているならやめておいた方がいい。どれもこれもキツい話ばかりだから。  苦学生を助けるためにあるハズの奨学金は「利子で利益をあげる金融ビジネス」「実態は単なる学生ローン」だという。だから著者は「通学制の大学に進学をしない」ことを勧めざるを得ない。それが生きる知恵とは言え、学びたい者が妥協しなくてはならないなんて、切なすぎる。著者が警鐘を鳴らすように、この国の教育システムはおかしいし、わたしも大学教員のはしくれとして、何とかせねばと思うも、ほかならぬこのわたし自身がいまだウン百万円の奨学金を返済中の身。教わる方のみならず、教える方も借金まみれ。泣きたくなるような現実である。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 11/26
イギリス王室とメディア エドワード大衆王とその時代
イギリス王室とメディア エドワード大衆王とその時代
庶民にはセレブへの憧れと平等要求という矛盾した感情があるが、権力側はそれにどう対処してきたのか。  本書はジョージ五世(現・エリザベス女王の祖父)の死からはじまる。ジョージ五世は1936年1月20日夜に亡くなった。直接の死因は安楽死。主導したのは宮廷人で主治医だったドーソン卿だった。国王の尊厳を守り、荘重な雰囲気を醸し出そうと努めた結果だった。  ラジオは夜9時から通常番組をやめて宗教音楽を放送し、21日午前0時15分に死が公表された。ラジオは国王の死をドラマのように演出したのだった。この公表時間は新聞朝刊の記事差し替えが間に合う時間帯でもあった。  英国の「開かれた王室」はメディアを通して国民の意識操作をはかってきたが、そのために国王側は生命すら干渉を受けたのだ。  そんなショッキングな逸話をマクラに、父王を継いだエドワード八世の、政界とメディア、それに大衆や諸勢力をも巻き込んだ「王冠を賭けた恋」の顛末が描かれる。アメリカ人で人妻のシンプソン夫人との恋だ。  エドワード八世は皇太子時代から自由な発言で物議を醸していた。ナチスとの融和を語ったり、労働運動に同情的だったり。政治への関心の強さから「君臨すれども統治せず」という近代英国王室の伝統を踏み外すおそれがあった。特別な存在である王族に、ふつうのふるまいは許されない。  道徳上・宗教上に問題のある国王の恋は、政府を困惑させ、様々な人々の配慮と思惑が交差するスリリングな駆け引きが水面下で展開する。エドワード八世もメディアを抑えるべく工作したり、国民に直接語りかけるラジオ演説をしようと試みたりする。卑俗な欲望から高度な政治的駆け引きまでが渾然一体となり、このドラマを盛り上げた。  ファシズム台頭の時代に起きたこの出来事は、歴史の徒花のようにみえて、実は「情報新時代」の政治の本質を抉る事件だった。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 11/19
負ける技術
負ける技術
著者はマンガ家で会社員で人妻で……と書くと、あれもこれもやってて凄いな、人生に前向きなんだな、という感じがするが、実態はその逆である。「人見知りする人間にとって、美容院は古より戦いの場である」と書くほど、コミュニケーションを苦手としており、会社でも「常に一人、誰とも会話をしないため、うっかり口を滑らせるということがまずない」からマンガ家だということがバレていないという。そして自身の代表作『クレムリン』については「人やチャンスにはとても恵まれている。ただ惜しいことに作者に恵まれていないのだ」と言い切り、あくまで自身への低評価をキープ。ここまで徹底した後ろ向きマインドを持つ人間が書くコラムは、おもしろい/つまらないを超えて、独特であり、唯一無二。しかし、できることなら茶飲み友だちになっていろいろ話してみたいなと思わせるほど、共感ポイントが多い(人見知りだから断られるだろうけど)。  収録されているのは全部で136篇。彼女の日常に起こるあらゆることが話題になっているが、結婚しても相変わらずリア充(リアル=実生活が充実している人々)が憎いという主張はとりわけ素晴らしい。どれだけモテない半生を送ろうが、結婚できた時点でリア充なのだからもう他のリア充を責める資格はない、という世間の抑圧に対し「他人が羨ましくてたまらないという感情には、己の立場は関係ない」と語り、いまだに学生の制服デートに嫉妬すると告白している。わたしにも経験があるが、結婚したら人の幸せを黙って見ていろという言論弾圧はけっこう苦しいものであり、それを活字にしてくれたことに、心からありがとうと言いたい。笑えるコラムの中に「世間様への違和感」を潜ませ、ときどきチクッと刺してくる感じは、白飯に添えた梅干しのようで、酸っぱいけれど、箸が進む。マンガが本業なのは百も承知だが、これからもコラムを書き続けて欲しい!
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週刊朝日 11/12
半市場経済
半市場経済
頑張れという励ましは、時に脅迫のようにも聞こえる。上のほうから、地方創生だの一億総活躍社会だのと言われるのは息苦しい。そもそも何のため、誰のための頑張りであり経済成長なのか。  競争社会から一歩、身を退きたい。多様な生き方を認めるなら、経済理論もいくつかあっていいはずだ。  半市場経済というのは聞きなれない言葉だが、字面から想像されるように、資本主義経済を否定はしないものの、金だけではない交流や助け合いによる生活のしやすさを確保する社会のことだ。  高層ビルやタンカーの建造、自動車や家電の大量生産、効率的流通販売には大資本が必要であり、その健全な発展には市場経済が向いている。新幹線や飛行機の運行・運航も同様。だが日常の食料の獲得やちょっとした修繕には、必ずしも通貨を介在させる必要はない。  田舎暮らしは金がかからないといわれるが、それは隣近所の助け合いで、ある程度の生活基盤が支えられているからだ。また企業であっても、経済活動を通じて社会に貢献し、他者を犠牲にしない方法を探るエシカル・ビジネスが注目され、支持を集めているという。  ただし半市場経済の基本はあくまで相互扶助であり、参加者は「自分は何をして欲しいか」だけではなく「自分は何をできるか(返礼ができるか)」を常に問わなければならないだろう。  近代以降の都市化社会は、そうした付き合いの煩わしさを、金で肩代わりして削ってきた。人間らしさを取り戻すといっても、昔に戻せばいいという話でもない。田舎の生きやすさについて、本書に、都会のように人間が使い捨てにされない、何しろ人が少ないから(特に若者は)、というくだりがある。これは裏返せば、住民の選択肢が少ないということでもある。  市場至上主義と関係性尊重の幸福な中間点はどのあたりに見出せるのか。幸福をめぐる探求はまだ始まったばかりだ。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 11/5
ギャンブル依存症
ギャンブル依存症
人生経験のつもりでパチンコ店に入り、いきなり7万勝ったことがある。ビギナーズラックだ。でも、その後は勝ったり負けたり、というか負けてばかり。「金がなくなるばかりだ! つまらん!」と感じて止めてしまったが、あのままパチンコ依存症になっていたかも知れないと思ったりもする。もう少し軍資金があったら……もう少し家と店とが近かったら……。  著者によれば、日本は約20人に1人がギャンブル依存症だという。そしてこの数字は「諸外国とくらべても驚くほど高い数値」である。ドレスコードがある大人の社交場が海外のカジノだとすれば、サンダル履きで行けるのが日本のギャンブル場。私服に着替えてしまえば、未成年の学生でも潜り込める。しかも、競馬などの公営競技では、親子連れでも楽しめる工夫がなされていたりもする。実は最もギャンブルにアクセスしやすい国、それが日本なのである。  問題なのは、依存症患者へのケアが不十分であること。ギャンブル好きが勝手に堕落していったと考えられ、身内の恥として隠蔽されてしまうが、それでは何も解決しない。「実際のところ、ドーパミンの過活動が大きな原因のひとつになっています。そのように本人の意志だけではなんともできない病気だという認識を持つことが大切です」とあるように、これは立派な病気なのである。アルコール依存症とは違い、身体的には健康であり、ギャンブルをしている時以外は有能な社会人だったりするが、だからといってそのままにしておくと、人を殺してしまったり会社の金を横領したりといった犯罪が高確率で起こる。恐ろしいことだ。  著者は「祖父、父、夫がギャンブラー」であり、自身もギャンブル依存症になった過去を持つ。だからだろうか、高い専門性を保ちながらも、語り口はあくまで柔らかく親しみやすい。ギャンブル依存症について知るための、とても良い一冊だと思う。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 10/29
京都ぎらい
京都ぎらい
驚いた。こういうタイトルでも、中身は逆説的な京都礼賛だろうと思ったのに、本当に悪口だ。著者自身、右京区花園生まれの嵯峨育ちだというのに。  近郊だからこそ過敏な格差意識があるのかもしれない。東京でも文京区と荒川区は、隣接しているのにイメージが違う。それにしても洛中の特権意識は、本当にこんななのか。  生粋の京都人が文化的蓄積に自負心を抱くのはいい。でも、それがバレてしまう無粋さはいかがなものか。観光産業的にもまずいのではないか。  いけずと並んで、全国的に有名な「京都名物」は、坊主の茶屋遊びである。本書にも、「祇園も先斗町も、わしらでもっている」と公言して憚らない坊主が登場する。その生態もさることながら、問題は彼らの遊興費が観光客の拝観料に由来している点だ。寺の儲け主義と非課税扱いの観光収入が花街を支えている。いいのか。  まあ、寺社はもちろん、芸子や舞妓も観光資源といえなくもないから一種のナショナル・トラスト運動と思えばいいのかもしれない。ただしその場合、日本の伝統文化は、欧米人のいうエコノミック・アニマル(今は死語?)とゲイシャに収斂しそうだが。  しかし表面的なところだけでは話が終わらないのが井上流。そもそもお寺は昔から商魂たくましい企業体だったと看破。日本庭園が享楽的に整えられたのは寺からだったとし、その起源をホテルとしての寺の役割に見るのだ。  最近も宿坊がブームだが、室町時代には各地の武将が寺を宿所とし、金を落とした。美しい庭は、ホテルとしてのサービスの一環であり、営業精神と快楽への意思によって禅僧の美意識は磨かれ、精進料理も生み出された……。  さらには南北朝時代(戦前風にいうと吉野朝時代で、京は都ではなかった)の怨霊思想を引き合いに出して、味方しか祀らない靖国神社の近代主義的冷酷さをチクリとやる辺り、さすがです。
文庫・新書イチオシ朝日新聞出版の本
週刊朝日 10/22
働く男
働く男
俳優でミュージシャンで文筆家。著者の星野は、多才な男だ。しかもいま流行りの塩顔イケメン男子ときている(塩顔=あっさりとした顔立ちのことです)。が、全てに恵まれていると思いきや、元・引きこもり少年の鬱屈した感情がチラと見えたり、シモネタで笑わせるユーモアの人だったりもするので、一筋縄ではいかない。星野には「彼のことをもっと知りたい」と思わせる不思議な引力がある。わたしの周りの星野ファンが彼の見た目だけでなく「頭の中」に惚れるのも納得だ。  本書はそんな星野の「思考の軌跡」だと言えるだろう。読者は深い森のような彼の「頭の中」を彷徨うことになる。収録されているのは、映画評、自身の楽曲解説に歌詞分析、コラムに小説、俳優として関わった作品の紹介。さらに、園子温とハマ・オカモト(OKAMOTO,S)のインタビュー「星野源ってどんな人?」や、ピース・又吉直樹との対談も入っている。サービス精神旺盛というか、サービス過多というか、とにかく読者を楽しませようと工夫しまくりだ。  又吉との対談で、肩書に対する違和感を語っていたのが印象的だった。「何の仕事がメインとか肩書きとか、関係なくやりたいですよね。最近、音楽家はそれ一本でいかないとダメとか、芸人さんもそういうところあるかもしれないですけど、何か専門を絞らないといけない時代になっていて」。マルチに活躍する星野と、『火花』の芥川賞受賞で今まさにマルチ化している又吉という、ふたりのクリエイターが抱えるモヤモヤが伝わってくる。ひとつの道を極めることばかり美談になる世の中で、「あれもこれも」を求める異端児の貪欲さが眩しい。しかも「働く男」であることを肯定しつつ「働きたくない」自分を許容するような、矛盾する「あれもこれも」さえ欲しがるほど貪欲。読み進めるうち、こちらまで貪欲をたしなみたくなってくる。もし本書に副題をつけるなら「貪欲入門」で決まりだろう。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 10/15
立志・苦学・出世 受験生の社会史
立志・苦学・出世 受験生の社会史
勉強しない者も受験はする。九九ができない高校生がいるのは、そういう社会だ。近代以降の日本では、学歴は就職の大きな要件であり、ライフ・コースの大きな節目となってきた。  身分制度が厳しかった時代には、受験はなかった。受験は出自とは無関係に競争できるチャンスだった。著者は受験が一般化したのを明治30年代半ばとし、「受験の時代」は昭和40年頃まで続いたとする。それは「平等化」が進められた時代といえるだろう。  明治初期には四民平等が宣せられ、勉強立身熱が生まれたが、まだ分際意識が強く、目指すのは士族や上層農商人の子弟に限られていた。学校制度が整い、それが富貴栄達への順路だと認識されることで、進学願望は広まる。受験戦争が過酷化した一因は、増加する受験者の中身が、学問への関心ではなく、出世のために高学歴を目指す人々だったためだろう。  本書には目からウロコの指摘も多い。例えば戦前は「苦学」する人が多くいたが、試験での資格取得を目指す中学講義録などの通信教育は、実際には、学業をあきらめて今の仕事や境遇を受け入れるためのクール・アウト装置として機能していたとする。「がんばった」という挫折体験で自分を納得させ、大人になるのだ。  また教養主義は勤勉に努力する人々に「育ち」の違いを意識させると指摘し、教養主義に対抗する修養主義(心身の鍛錬と人格の向上)の台頭につながったとする。この先には反知性主義的な精神論が来るだろう。 「受験のポストモダン」とされる昭和後期、受験は予備校などの受験産業によってゲーム化された。さらに現代では、人柄重視という名のコネ疑惑や、帰国子女枠など家庭環境の影響力増大が、不公平感を生んでいる。 「ゆとり教育」以降の現代では、成績上位層の加熱とそれ以外の層の冷却の二分化が進んでいる。今に国民皆受験競争時代は、憧れの対象になるのかもしれない。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 10/8
はじめての文学講義読む・書く・味わう
はじめての文学講義読む・書く・味わう
「小説を読む」ことと「文学を味わう」ことは違うのだと言われても、文学オンチだから、よくわからない……そんな人に是非ともオススメしたいのが本書だ。作家で大学教授でもある著者が中高生に向けて語った講演録が基になっているが、大人が読んでも十分おもしろいどころか、確実に読書の腕前が上がる。  著者は手始めに太宰治「富嶽百景」や梶井基次郎「檸檬」といった日本文学、ジャンニ・ロダーリの文学論、ルネ・マグリットの絵画作品などに言及しながら、一見無関係に思える「二つのものを結ぶ力」の魅力について語ってゆく。「富嶽百景」でいえば富士山と月見草、「檸檬」でいえば檸檬と爆弾のような「取り合わせの妙」が、文学テクストの中でどのような働きをするのかについてのくだりは、いかにも講義っぽいと思うかもしれない。だが、それがやがて、つまらない本を読んでしまっても「その本と何か別の本との組み合わせ、とり合わせによって、がぜんおもしろいユニークな視点が浮上したりする」という「取り合わせの妙」の話に接続するなど、とにかく話の転がり方が軽やかで、講義っぽいというイメージはあっという間に消えてしまう。  後半は、質問に答える形式で、より深く文学を味わうためのノウハウが語られる。真面目な質問者ほど、役に立つことや、押さえておくべきポイントを聞き出そうとするのだが、著者の回答は一貫してその対極にある。役に立たなくても文学を読むことに意味はあるし、読むことの逆、つまり「読むことの中断」が起こる本こそが良い本なのだと語ってみせるのだ。通読してテーマや作者の意図を汲み取るべしという優等生的な読書がいかに一面的なのかが分かってくると同時に文学への苦手意識が薄まってゆく感覚が心地良い。というわけで本書は「もっと肩の力を抜いて文学と付き合ってよいのだ」と宣言しつつ、文学オンチと文学の間を取り持ってくれる優しい一冊である。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 10/1
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ
かつて橋本治は女子高生だった。その後、光源氏になったり『平家物語』という名の日本上古史になったりいろいろしたけど、1970年代には桃尻娘だった。だから誰よりも的確に少女マンガをキャッチしていた。当時、オタクという言葉はまだなくて、マンガを評論するのは異例中の異例だったが、女子高生にそんな世間の事情は関係ない。好きだから読む。語る。自分が同化して「そのもの」になってしまう。本書はそのようにして書かれた画期的な少女マンガ評論の古典だ。  取り上げられているのは倉多江美、萩尾望都、大矢ちき、山岸凉子、江口寿史+鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子。  本書は社会批評としても秀逸だ。たとえば著者は、萩尾望都の『ポーの一族』を、懐かしい時間への回帰循環の物語とし、閉塞化していく戦後社会と、葬り去られた子供たちへの鎮魂歌だとする。だが挫折しても希望は消えない。少年少女は何度でも挑戦を繰り返す。だから萩尾作品の空は青く、景色は金色に輝いている。また大島弓子作品では、性別も親子関係も役割であり、時に交換可能なものとして描いていると指摘。大島は「自分」として立つ人間を描いた。彼らはまだ存在しない世界に踏み出していくのだ、と。  少女マンガは社会の外に世界を切り開いた。なぜなら女子どもは社会に居場所を持たなかったからだ。当時、社会は男の都合で出来ており、持て囃すにせよ色眼鏡で見るにせよ、女子高生は社会的に排除されていた。橋本治は、そんな差別を軽々と乗り越える女子どもの強かさを掬い上げる。  ギャグマンガに多くのページが割かれているのも、差別や周辺への敏感さの表れだろう。土田よしこを論じて残酷さとやさしさの関係を思い、吾妻ひでおを取り上げて全面肯定の笑いに潜む虚無性を見抜いていた。  マンガはどこまでも自由だ。そして評論もまた自由だ。
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週刊朝日 9/24
もののはずみ
もののはずみ
大学で助手の仕事をしていたことがあって、上司のひとりに小説家の堀江敏幸がいた。堀江先生の手提げカバンや腕時計なんかを見るたび、オシャレが好きな人なんだなあ、と思っていた。……が、そんな生やさしいものではなかったみたいだ。  先生曰く「どうしてなのかはわからないけれど、子どもの頃から身のまわりに存在する日用品、電化製品、文房具、玩具といったあらゆる種類の『もの』に関心があった」という。そして「がらくた」と呼ばれるような「もの」を見て「それらが引きずっている人々の過去に、感情に、もっと言うなら、『もの』じたいが持っている心、すなわち『物心』に私は想いをはせる」のだという。先生にとって「もの」は、自分をオシャレに見せるための道具ではない。好きな「もの」と暮らしたいという純粋な気持ちだけが先生を動かしているのだし、なんなら先生の方が「もの」の虜となり、「もの」に完全服従することさえあるのだ。  本書に収録されている50以上のエッセイは「主としてフランスで出会った『もの』たちについての、他愛のないひとりごと」だが、その出会いには「ひと」もまた深く関わっている。奇跡のようなバランスでぬいぐるみを並べる太ったおじさんとか、古いブリキ缶にあとから書かれたとおぼしき下手くそすぎる「カフェ」の文字を、あくまでオリジナルだと言い張るおばさんとか、みんなキャラが濃くて面白い。  こうした人たちとの交渉を経て堀江家にやってきた「もの」たちが、主をなごませたり、仕事の邪魔をしたりしている様子は、とても微笑ましい。文庫解説を担当している片岡義男がその暮らしにどうにか関わろうとするのもよく分かる(解説も名文ですのでお読み下さい)。わたしだって先生になにか良いがらくたを差し上げて、反応を見てみたい。「骨董入門」と呼ぶほど堅苦しくないが、本書を読めば「もの」との暮らしは確実に楽しくなる。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 9/17
この話題を考える
国際女性デー

国際女性デー

3月8日は国際女性デー。AERA dot. はこの日に合わせて女性を取り巻く現状や課題をレポート。読者とともに「自分らしい生き方、働き方、子育て」について考えます。

国際女性デー
高たんぱくダイエット

高たんぱくダイエット

会食の機会も増え、体重の増加が気になる季節。帳尻を合わせるために、極端なダイエットに走る必要はもうありません。 調理時間10分以内、安くておいしいお鍋なら、かんたんに体重オフ、健康パワーもアップできます。 気になるノウハウに加え、一生使えるAERAオリジナルレシピまでを網羅しました。

高たんぱくダイエット
ひらく美術 地域と人間のつながりを取り戻す
ひらく美術 地域と人間のつながりを取り戻す
地方消滅が危惧される今日、全国から熱い視線を注がれている芸術祭がある。越後妻有(新潟県の十日町市、津南町)で3年に1度開催される「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」には、今や50万人近い来場者がある。過疎化の進む中山間地域で、なぜ芸術祭が立ち上げられ、定着・発展してきたのか。  はじまりはよくある地域おこしだった。それが関係者たちの思いの化学変化により、どんどん進化していく。  著者はアートディレクターで、新潟出身ということもあって1990年代からこの地域の芸術祭にかかわってきたが、アートを広い意味で捉えている。アートは、人それぞれ違う個人であるという現実そのものであり、アーティストは歴史の積層を掘り起こし、同時代のささやかな意思を表明し、未来への不安、予感を生理的に表すものではないかと著者はいう。だから表現者だけでなく、スタッフやサポーターとしても「よそ者、若者、バカ者」を巻き込んでいく。地元の歴史や住民へのリスペクトも忘れない。  この芸術祭では、広い地域に「作品」が点々と置かれ、来訪者が作品と共に地域の景観や地元の人々とも直接触れ合う体感的なイベントとなっている。またアーティストの多くは、けっこう長い期間、地域に身を置いて作品作りを進める。彼らと地元住民の交流は、相互にいい刺激となっている。  着想の根底には、土地の美しい場所に足を運んでもらう仕掛けを作りたいという気持ちがあった。  人間関係では行政とのやり取りも興味深い。実際、多くのイベントでネックとなる局面だ。行政は「みんな納得する」「分かりやすい」「無難」なことをやりたがる。「病院のベッドひとつや減反一枚に比べてアートは高すぎる」と発言する地方議員らとやりあいつつ、それでも楽しくイベント作りをする著者の風情が微笑ましい。これがアートの余裕だろうか。心に余裕がないと、人は集まらない。  人生の悩みは、何らかの「規格」から逸脱してしまうことへの不安が引き起こすものだと思うが、中原は、人々を「規格」に押し込めようとする無言の抑圧にノーを突きつける。だから非常に風通しがいい。ぱーっと読めば、活力に変わる。なんだか、エナジードリンクみたいな一冊だ。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 9/10
中原昌也の人生相談 悩んでるうちが花なのよ党宣言
中原昌也の人生相談 悩んでるうちが花なのよ党宣言
ミュージシャン・小説家として十分成功しているハズなのに、なぜか勝ち組の匂いが漂ってこない。それが中原昌也だ。いつも金欠で、テンションが低く、ヨレヨレのTシャツを着ているイメージが……そういう人物による人生相談である本書には「成功者による上から目線のアドバイス」は一切出てこない。だからこそ、人生相談としてはかなりユニークだし、読む気にさせる。 「あの人よりはマシ、と思って自分を慰める自分がイヤ」という悩みには「今の自分に満足してる人なんているんですか? 誰ですか? 叶姉妹ですか? いませんよ、そんな人」と言い切り、「MMK(モテテモテテコマル)」という相談者には「常にほっかむりしてるのはどうでしょう」と提案する。バカバカしいなあ(=最高!)。  その一方で、はっとするような言葉を口走ったりもするから油断ならない。「貧乏から抜け出したい! というハングリー精神で生きていった方がいいのか、それとも、貧乏なりに楽しみを見つけて生きていくのがいいのか」と問う相談者に対し「結局その両極端しかないんですかね。第三の道はないのかなあ。そういうことから解放されるために、映画や音楽や文学があると思うんですがね。違うかなあ?」と回答。あるいはまた「積み上がっていくばかりで本が読めない」という相談には「僕だって、持っている本の一〇パーセントも読んでないですよ。(略)そんな僕でも、こうやって物を書いてるんですよ」という正直すぎるお答えが。悩みへの応答を通じて、中原自身の芸術観が透けて見えるのが楽しい。  人生の悩みは、何らかの「規格」から逸脱してしまうことへの不安が引き起こすものだと思うが、中原は、人々を「規格」に押し込めようとする無言の抑圧にノーを突きつける。だから非常に風通しがいい。ぱーっと読めば、活力に変わる。なんだか、エナジードリンクみたいな一冊だ。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 9/3
なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか
なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか
「なぜ人を殺してはいけないのか」が問われたことがあった。考えるまでもないと、ほとんどの人は思ったはずだ。だが理由を説明しようとすると、陳腐な言葉しか出てこない。  平和も同じだ。平和が大切だとみんな思っている。戦争はいいものだという奴なんていない。それでも、なぜか戦争はなくならない。殺人がなくならないように。  いや、平和の大切さを実感するのは、さらに困難かもしれない。何しろ世界では今も「正義のための戦い」が行われている。そして物語の中の戦争は、ドラマチックでかっこよかったりする。  著者はコミュニケーションの専門家らしい切り口で、戦争が起きるメカニズムを分かりやすく説き明かす。そこには民衆を戦争に駆り立てる世論を生み出すさまざまなテクニックがあった。特に著者が注視するのは、戦争イデオロギーを浸透させるイメージ操作だ。たとえば「先制攻撃」に相当する語が「積極的平和」と訳されたり、自分たちの被害を諸外国に強く訴えるために「民族浄化」の語が選ばれる。選挙活動を広告代理店が請け負うのはふつうだが、今や戦争報道もそうなっている。善良な民衆の感情を昂ぶらせる映像や物語は、これ見よがしのプロパガンダよりもずっと巧みな戦争誘導システムの一環だ。  人々を戦争へと駆り立てる言葉や映像は派手だし、拡散の背後では大きな資本が動いているらしい。それに対して平和を語ることは地道で、ややもすれば紋切り型に陥りやすい。ましてや日本では、自国の戦争の記憶は遠くなりつつある。それを危惧する声は多い。  だが著者は、生身の人間が語るなら、「体験者ではない世代」の語り手は、むしろ「戦争体験」に距離をおき、より力強くリアルに平和の大切さを訴え得るとする。それを希望的観測ではない、現実にするのはわれわれだ。  ふつうの市民の視線で書かれた本書には、柔軟で粘り強い平和への思考が込められている。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 8/27
読んでいない絵本
読んでいない絵本
山田太一作品は「観るもの」であって「読むもの」ではないと思い込んでいたが、それはかなり勿体ない考えだと気付かされた。短篇小説が3作、ショートショートが2作、そして戯曲とテレビドラマの脚本が1作ずつ。書かれ方も主題も異なる作品を次から次へと読んでいくのは楽しい。と同時に、全ての作品が山田太一らしさによって緩やかに繋がっていることは、とても心強い。  ひとを脅すための手紙を送ろうとするしゃがれ声の女や(「あの街は消えた」)、結婚するたび不自然なかたちで夫を亡くす美女など(「読んでいない絵本」)、短篇作品に登場する女たちは、とにかく闇が深い。そして、その闇に近づくことになるのは、世慣れていない青年だ。闇への恐怖と好奇心が綱引きしている様子は、こちらの心までざわつかせる。  一方、戯曲「黄金色の夕暮」に描かれているのは、家族の物語だ。銀行の支店長「花岡」は、上層部からの命令で行った総会屋への不正融資を自分ひとりの罪として背負わねばならなくなる。しかし、事件を担当する検事「内田」は、家宅捜索の後、証拠品を見せながらこんなことを言う。「もし、あなたの息子さんとうちの娘が恋仲だったら、私、これ、なかったことにして、あなたを逮捕するの、よそうと思う」。  花岡家と内田家の事情がいきなり顔を出す展開だ。法律と道徳と家族愛とがごちゃまぜになり、わたしたちもまた善悪の狭間で宙づりにされる。そんな中、花岡の母「八重」は、悪いことが起こって初めてひとは本気になると語る。「そしたら、みんなどんどん本気になるわ。どんどん、みんな、凄い人になるわ」……八重の言葉によって、彼らがある結論へと至った時、わたしもまたひとつの気づきを得ていた(そうか! 悪いことが起こると、ひとは凄くなるのか!)。役者の身体を経由せず、山田の言葉を直接この眼に焼き付ける愉楽、あなたにも是非味わって欲しい。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 8/20
スタンドオフ黄金伝説 日本ラグビーを切り拓いた背番号10
スタンドオフ黄金伝説 日本ラグビーを切り拓いた背番号10
昔、ラグビーは人気があった。成人の日、日本選手権に白いファーストールを巻いた振り袖のギャルが彼氏とともに詰めかけて国立競技場が満員、人気チーム(早稲田か明治、まれに同志社。社会人は蚊帳の外)のレギュラーは芸能人並みにキャーキャー言われたもんだ。競技として相当面白いと思うんだがなあ、ラグビーフットボール。しかし今、やる競技としても見る競技としても、ラグビーはサッカーに負けてしまっている。  そんな時に読んでみるといろいろ思うことの多いこの本。スタンドオフ。そうだ、早稲田のスタンドオフの本城和彦(名前も芸名みたいなカッコよさ)が前髪なびかせてグラウンドを走っていたのを思い出す……というような話ではなくて、ラグビーという競技における「ゲームを組み立て転がしコントロール」するスタンドオフというポジションから、日本のラグビーを振り返り、今後の展望もしようというものだ。  日本代表のスタンドオフ経験者(つまり名選手)のプレイを振り返り、彼らの声を聞き、それがどんな意味があったのかを浮かび上がらせる。しかし、当時の監督の戦術について訊かれた廣瀬佳司が「そういう議論は結果論なんですよ」と言っていて、なかなか冷静でいいと思った。戦史戦術の研究は大事だけど、分析と、コトが終わったあとの駄ボラはきちんと峻別せねばならぬ。本書のスタンドオフたちはあまり駄ボラも吹きまくらないし、聞き手(=書き手)も、W杯南ア大会で大敗した時の小藪修監督への怒り以外は概ね淡々と事実を書いている。それによれば、今のラグビー日本代表は「最強メンバー」らしい。W杯日本開催を控えて期待していいのでしょうか。でも日本の活路って「展開・接近・連続」って、結局はソレなのか。何か、往年の早明戦の、早稲田応援席の異様な盛り上がりを思い出すので、個人的には微妙な気持ち。でもジャパンがいいラグビーするならいいか。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 8/6
コントに捧げた内村光良の怒り続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方
コントに捧げた内村光良の怒り続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方
著者は芸能人に関する記事を得意とするライター。前作『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか』に続く第2弾は、内村光良(ウッチャンナンチャン)を中心に、出川哲朗、笑福亭鶴瓶、タモリ、中居正広(SMAP)、早見あかり(元・ももいろクローバー)、博多華丸・大吉、レイザーラモン、キャイ~ンといった人気者たちの半生を追う、バラエティに富んだ構成となっている。  雑誌でのインタビュー等、一般人でも入手できる資料だけを使って取材対象者の人となりを浮かび上がらせる「テレビっ子」目線の原稿には、独特の手触りがある。「一度もメディアで明かされていないような“裏話”や“新証言”が出てくることは一切ありません。(中略)けれど、その情報の積み重ねと並べ方で“新証言”に勝るとも劣らない“発見”ができるのではないかと僕は思っています」……テレビっ子の魂を忘れず、しかしライターとして決めるところは決めるのが彼のやり方。その手腕に感動した、と書くと凡庸だが、わたしは本書を読んで本当に感動して泣いた。タイトルにも帯にも「泣ける」なんて書いてなかったのに!  なぜ泣けるのか。それは「人間の心理」が描かれているからだ。漫才師の相方に対する複雑な心情や、グループ脱退を決めたアイドルの胸の内が、濃密に描き出されている。マニアックな情報の羅列でもなければ、単なる芸能ゴシップでもないこの感じは、唯一無二。「泣ける」と銘打っている本よりも、よほど泣ける。キャイ~ンの天野ひろゆきにラジオ番組のオファーが来た際、コンビでの出演を固辞したウド鈴木の言葉はとくに泣けてしょうがなかったし、ふたりのことが大好きになった。 「テレビがつまらなくなった」などと言われるが、本書のような「テレビの見方と語り方」があることを知れば状況は大きく変わるのではないか。本書はその可能性を感じさせてやまない。
文庫・新書イチオシ
週刊朝日 7/30
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