そもそも障害者入所施設という形態はどうなのか、90人もの人が同じ敷地内にいて、しかも同朋が惨殺された場所に居住し続けることをどう考えるのかなど、さまざまな問題が含まれています。措置入院、防犯対策も大事ですが、そこだけを切り取るのはあまりに対症療法的であって、19人の犠牲の報いにはつながりません。

 障害者問題の啓発、誤解の払拭においてメディアは大きな役割を担っていますが、今回は検証委員会に振り回されて主体性が薄いように思います。容疑者があのような思考に至った過程、バックグラウンドを報道機関はもっとえぐらないといけないのに、ほとんどが踏み込んだ報道にはなっていません。いま、精神障害者の社会的入院も問題になっています。国が公表しているだけで7万人以上が医療以外の理由で入院しています。今回の事件はこういった障害者問題の遅れを取り戻す機会にもなるはずです。

 

●国連の障害者権利条約への対応を問われる放送事業者 

 

 では、テレビはどうすればいいのか。キーワードは「参加」だと思います。直接か間接かは別として、番組の企画、制作、そして中身を点検するモニタリングに、障害者が参加するのです。

 その話をする前に、いまから約10年前に国連で定められた「障害者の権利に関する条約」を紹介します。日本は14年に批准し、現在は国内法にもなっています。そこではメディアについても問題提起がされています。

 まず、第八条には「あらゆる活動分野における障害者に関する定型化された観念、偏見及び有害な慣行(性及び年齢に基づくものを含む。)と戦うこと」と書かれています。日本の法律で「戦う」ことを定めているのはここだけです。総理も民間人も戦うし、自分のなかにある優生思想とも戦うのです。また「全ての報道機関が、この条約の目的に適合するように障害者を描写するよう奨励すること」とされています。

 続く第九条ではハード面のテレビへのアクセスについて定められています。第二十一条には「マスメディアがそのサービスを障害者にとって利用しやすいものとするよう奨励すること」とあり、第三十条には「障害者が、利用しやすい様式を通じて、テレビジョン番組、映画、演劇その他の文化的な活動を享受する機会を有すること」と書かれています。

 今後はテレビもこの国際規範に沿わなければなりません。条約が作られる過程で、議場で何回も繰り返されたのが「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」というフレーズでした。私はニューヨークの国連本部で100日にわたる審議の約半分を傍聴しましたが、当事者参加の方針から、毎回障害者が発言する機会がありました。WHO(世界保健機関)は全人口の15%、アメリカ連邦政府は20%が障害者だとしています。もうマイノリティとは言えません。障害者が参加して考える過程があったから、権利条約はすばらしいものになったのです。

 同じようにテレビ番組の制作にも、当事者に加わってもらえばいいと思います。当事者の意見がいつも正しいわけではありませんから、ときには激しく議論する。理念だけ言っていてもダメなので、企画、制作、モニタリングの各段階に当事者が加わる仕組みを意図的に作る。いまは制作者個人の資質に任されていますが、今後は「参加」の実質が問われていくでしょう。

 

●メディアは生産性、経済性の論理に従いすぎていないか 

 

 今年8月にはNHK Eテレ「バリバラ」が、日本テレビ「24時間テレビ」のような感動的な障害者の描き方について取り上げて話題になりました。「24時間テレビ」は30年を超えて国民に定着している番組です。ただ、感覚的にではありますが、どうもピタッとこない。何か違和感がある。それは当事者性が薄いからではないかと思うのです。当事者の顔が見えなくて健常者側の論理になっていると、作られた感動に見えてしまいます。もちろん視聴率は大事ですが、まずはメディア側の努力と工夫が必要です。

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