何にでも七味とうがらしを真っ赤にかけるオヤジはそのままで<個性>だ。ぼくは先代中村勘三郎(日曜劇場「娘よ」)のキャラクターにこれを使って、好評で4回も続編が作られた。


 結局、いまの食事シーンには“手数”が少ないのだ。

(8)食事は【食事を作る】シーンから描かないと万全ではない。

 しかし、その[台所]のシーンがほとんど絶滅した今日、(母娘の、姑と嫁のシーンは)撮れなくなった。ところがそれに代わるものをホームドラマは手に入れてない。

 一方でホームドラマそのものが衰微した。しかし無くなったのではない。それは分散して、すこしずつ刑事ドラマの中にも、社会派ドラマの中にも、SFやホラーにまでもよく見ると顔を出している。そして[ドラマのリアリティ]を支えているのだ。ここがいい加減だとドラマ全体がいい加減でチャチに見える。

 食事のシーンの復活はドラマ全体の再生につながるのだ。

 食べること、食べさせること、食べてもらうこと――ずいぶん手のかかる作業なことはいままで書いてきたことでわかるだろう。それはイコール“劇(ドラマ)を作ること”だから、手がかかるのは当たり前なのだ。

(9)それなのに、ドラマ制作の時に(衣装のスタイリスト、化粧の専門家はいるのに)食べ物の専門家を置かないのはなぜか。

 たいていは小道具係の人が食事を整えるのだろう。実はこのポジションこそ専任の、ドラマのことがよくわかり、食事のこともよく識っている人が欲しい。TBSのホームドラマが全盛だった頃は臼田さんという有能な小道具の人がいた(もっとも飯の焚き方だけはANBのほうが巧いと、向田さんがよく言っていた)。どんなに助けられたかしれない。

 ケイタリングや料理屋の食事の指導ではなくて、普通の家庭の食事ができ、しかもいまのデパ地下やコンビニの変化(最初はなかった[米飯]や[弁当]が置かれ、[一人分の鍋]が並ぶようになった変化)は百の理論より雄弁に日本の変化を語っているのだから、それを充分知っているスタッフが演出家の周りに欲しい。

 いや、まず演出家、脚本家、プロデューサーがもっと[食]に興味を持つことだ。

(10)何も難しいことではない。ドラマに関係する人々が俳優を含めて、もっと自分の日々の実生活を大事に暮らすことだ。

 これが一番の近道であり王道なのだろう。最後に書いておきたいのは、ドラマ以外のバラエティ、報道の番組も[食]に関して、逸脱しているのではないか。昔は「突撃!隣の晩ごはん」といった素晴らしい探訪番組(ヨネスケという落語家がアポなしで押しかける)があった。あの人間臭い食事(食べかけの鍋があり、残りものの皿がある)こそ、ドラマが範とすべきものだ。