現代日本の食事習慣で最も特異なのは食器が各人自分のものが決まっていることだろう。ナイフ、フォーク、皿が各自決まっている西洋料理なんかない。

 だから各自が最初に自分の箸なり茶碗なりに触れる時、五郎丸のあのお呪いめいたアクションと同じ時の動作が最も個性的になるわけだ。

(4)食事の質は料理で決まるが、食事の【量】を表現するのは【食器】だ。

 このことでは向田邦子さんに怒られた。この人は自分の書いた脚本でなくても食事のシーンでこちらがヘマをすると叱って来る。「花吹雪はしご一家」というトビ職一家の話の時で、トビ職は肉体労働なのに食器の大きさが小さい、というのである。そんなことないよ茶碗だって大ぶりを使っているし、というと、漬け物を盛った器が小さい。あれではめしが何杯も食えないという。どんぶりに白菜の漬け物でも何でもいいから、山のように盛りなさい。それに使用人をふくめて食べる人数が多いのだから、どんぶりを二つ出すこと――こんなダメを出された。

 まことにごもっとも、どんぶりを二つ出すとは気がつかなかった。向田さんはこれを大工をしていたおじいさんの家で覚えたのだそうだ。何につけても、身の回りのことは目を見開いて、そしてよく覚えておくことだ。

 食器は一時は凝って小津安二郎さんが使っていた「東哉」のものなんか頼んでいたこともあったけれど、こうした基本的なことをしっかり踏まえておかないといけない。実は食器は、その役を演じる役者に選ばせるのが一番いい。どうして皆そうしないのだろう。ほかの小道具などはそうするのに。

(5)食事中の動きは演技者の責任だが、食事を中断させる出来事は演出の責任だ。

 食べるのを中止せざるを得ないのは、地震、近所の火事、来客、届け物の配達等いろいろある。食器を落とすのも、子どもがこぼすのも、汁など熱すぎるのも、幼児がグズるのも、皆食べるのを一時止める。そして芝居の重要な転換点になる。

 それからテレビをつけっぱなしにして食べるのも、本・雑誌を読みながら、スマホを見ながら食べるのも、何も喋らないで食うのも、ひどいのになると自分の分だけ部屋に運んで[孤食]するのも――どれも現代風俗を表すが、意外と芝居に取り入れられていない。食事のシーンは<ドラマとしてコナれていない>のだ。何より食事の中断は演出手法としては重要なもので、演出家はこれの引き出しを数多く持っていることが武器になる。

(6)食事のシーンにもっと[外界]つまり[社会]を反映させよう。食事しながらの皆の【会話・ディスカッション】が無くなった。

 このことの遠い原因は<買い物のシーン>が無くなったことだ。八百屋で肉屋で魚屋で、見たり聞いたり話したりして食事の前に社会と接触することがいいウォーミング・アップになっていたのに、それがない。いまはスーパーでしか物を買わない。ところがこうした巨大小売店のロケが困難になって、結局シーンとして書かれなくなった。

 テレビの制作者たちはスーパーはもちろん、デパ地下にもコンビニにもちゃんと行ってないのじゃないかと思われることが多い。

 一番よくわかるのはコンビニだが、お一人様用の(すでに刻んである)サラダ、なんと一人分の鍋料理の材料詰め合わせ、一人用のソース、醤油、つけ合わせのようだが、実際はオカズに使われているマカロニサラダ、ポテトサラダ等が所狭しと置かれてある。居酒屋料理のような煮物・焼き物も、缶詰(小さくて一人用なのが特色)も売っている。こういう物を買って来て夕食にしている人は結構多いのだ。単身者ばかりではない。老人世帯も多く購入している。

 こういうもろもろがテレビドラマの中に現れない。つまり制作者が、いまの社会の[実生活]をしていないのだ。<料理をしない食事>を描き出しているドラマはほとんど見ない。缶ビールを一つ買って、これら飯とも言えない飯を食べる生活を描いたドラマを見たいものだ。

(7)何かといえばカレーにするドラマでいいのだろうか。

 カレーにソースをかける(たまに醤油の人もいる)シーンも最近減った。実際にはそんなことはない。マヨネーズをかける人、タバスコをたす人、ラー油もガーリックも麹もあるはず。こうした調味料、香辛料の需要は莫大で、カレーばかりではなくあらゆるものにかける。ところがテレビドラマの食卓には食卓塩の一ビンもコショウのひとつもないのが普通で、こんなことではリアルな食事には絶対ならない。

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