触覚に関する日本語には、「さわる」と「ふれる」という2種類の動詞がある。触覚の可能性について考察した伊藤亜紗の『手の倫理』は、まず、私たちがこれらの語句をどう使い分けしているか例示した上で、このように説いていた。

<あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。(中略)接触面には「人間関係」があります>

 幼い頃、相手が親戚であっても、初めて会った大人に頭をなでられると全身がこわばった。だから、解放されると母に抱きつき、彼女になでられて安堵した。たしかに接触面には「人間関係」があり、私たちは「さわる/さわられる」や「ふれる/ふれられる」を通して、過去も現在も他者と関わっている。

 伊藤はこのことを踏まえ、様々な場面における触覚ならではの関わりのかたちを明らかにするため、「倫理」「触覚」「信頼」「コミュニケーション」「共鳴」「不埒な手」の6章に分けて検討していく。触覚を入り口とする考察はどれも新鮮で、たとえば、道徳と倫理の区別や安心と信頼の違いも、すんなりと腑に落ちた。中でも、信頼によって接続できるようになると、<ふれるという行為そのものが、生成的に作りだされる>共鳴的関係が成立するという指摘には、ほのかな感動すら覚えた。

 不道徳だからこそ倫理的である触覚。その触覚が拓く創造的可能性。そこに光をあてた『手の倫理』は、人と人との接触が忌避されるコロナ禍にあって、私たちに「ふれる」ことの重要性をより深く考えさせる。

週刊朝日  2020年11月13日号