歴史的な史蹟や寺社は全国各地で町おこしの目玉となっているが、その根拠となっている由緒が偽りだとしたら、どうなるのか?

 馬部隆弘の『椿井文書(つばいもんじょ)』を読めば、誰もがそんな不安を抱くだろう。私はこの本で初めて知ったが、椿井政隆(1770~1837)なる人物はその生涯で数百点もの偽文書(手紙、家系図、中世の地図、失われた大伽藍や城の絵図など)を創作。近畿一円に流布したそれらの一部は今も、寺社の格式や家系の正統性を証明するものとなっている。

 では、椿井文書はなぜ、かくも広く受容されてきたのか──馬部はこの問いに、具体的に、豊富な事例と40余りの図を用いながら回答してみせる。

 そこから見えてくるのは、当時の古文書に対する需要の高さだ。たとえば、祖先が侍であってほしいと願う豪農や富家たちに、椿井はもっともらしい家系図を提供。他にも、近くの寺社がかつては格の高いものだったと信じたい人々からの要望に、椿井は立派な絵図で応えた。近畿圏の地誌に詳しく、画才があり、国学にも精通した椿井にすれば、それらの創作は趣味の延長のようなものだったかもしれない。

 とはいえ、椿井文書に疑念をもつ者は江戸時代からいた。戦前の歴史学の一派は警鐘を鳴らした。しかし、古文書学を学んだ者が現物を見れば偽物と気づくはずの椿井文書はいつしか活字となり、先述のとおり、まだ堂々と活用されているのだ。

 この現実は、歴史学の課題であると同時に、多くの人々が史実よりも見栄や町おこしを優先してきた結果なのだろう。さて、現地はどうする?

週刊朝日  2020年4月17日号