古井由吉の小説の魅力は、まず、その語りにある。厳選された日本語が精緻に、滑らかにつらなり、句読点が刻むテンポに身をゆだねるように読み進めていくと、現実と思索がからんだ果てに現れる光景を目撃しているのだ。

 一昨年の春先から翌年の夏までの、著者とおぼしき「私」の日々を描く『この道』には、連作の8短篇が並ぶ。どの作品も天候や入院や散歩といった日常からはじまったはずが、またも語りに導かれているうちに、東西の古典世界や空襲下の惨劇や親族の死にふれる。とはいえ、解釈の試案や陰惨な場面に留まることなく、過去と現在、生と死を往還しながら語りは進み、読者は80歳を過ぎた「私」の、現時点での視線を味わうことになる。

 たとえば、冬至が近づく頃、「私」はテラスに出した椅子に座って日没を眺める。そして、沈みかかった太陽の下端が西の家並みの影にふれるまでが<長い時間に感じられる>と語り、こう続ける。

<日輪の上端だけがわずかに残ってからが、またじりじりと長い。生涯のように長い>
 椅子に腰かけた「私」はこの時、「私」の最期を見届けているのかもしれない。「私」を自分たらしめた過去を慈しみつつ、残照のしつこさに自嘲の笑みを浮かべている。

 あらかじめ自分の死さえ垣間見ようとする「私」の視線は、切迫度の違いはあれ、読者もそれぞれ持っている。生老病死への不安は誰にもつきまとうから、「私」の語りは、いつしか普遍性を帯びる。長らく死への道行きを書いてきた古井の新作を読むたび、どこか救われた気分になるのは、彼の語りの賜なのだろう。

週刊朝日  2019年6月28日号