平成から令和へという代替わりで、にわかに「時の人」となった徳仁天皇と雅子皇后。石井勤『皇后雅子』はこのタイミングを見こした本だ。お妃候補として騒がれた頃から結婚までの過程、皇太子妃としての苦悩の日々。そこにはどうも、祝賀ムード一色の報道ではわからない、いささかスリリングな裏事情があったらしい。

 まず、夫妻の縁談が一度はボツったという話。二人の出会いは1986年、東宮御所でのレセプションだった。その後何度か会うも、雅子さんは英国に留学、88年、交際は途切れ、小和田雅子の名は妃候補のリストから消えた。最大の理由は「チッソ」問題。母方の祖父・江頭豊氏が水俣病の発生源チッソの社長経験者だったのだ。妃候補は<親子三代にわたって汚点があってはならない>。ひえ~、皇室ってやっぱそうなんだ。

 宮内庁の懸念材料はまだあった。写真週刊誌の記者に<あなたたち、どこの会社なの。名刺を見せなさい>と雅子さんが叫んで撃退した(87年)。結婚する気がないのに東宮に行く理由を友人に<好奇心よ>と話したという報道(88年)。颯爽とした雅子さんを宮内庁は嫌った。過干渉よね。

 ここで終われば彼女はキャリア外交官への道を歩んだはずだ。ところが4年後、彼女は再び妃候補として浮上する。理由は宮内庁の焦りである。「お妃選びについて静かな環境を」という宮内庁側の要請で報道の自粛が続く中、92年、<報道自粛はいつまで続けるのか。一年でやめるように>という宮沢首相の鶴の一声で事態は一変。あわてた宮内庁は新たな出会いを断念、皇太子の意向もあり、失礼にも旧知の雅子さんへのアプローチをバタバタと再開した。

 それを思うと「僕が一生全力でお守りします」という皇太子の言葉も悲壮な宣言に思えてくる。著者は元朝日新聞記者。周囲の思惑から必死で身を守ってきた二人の孤独な30年が浮かび上がる。それでも著者はいう。<みずからの長い療養体験は、多くの人の胸に届く言葉を与えてくれるはずだ>。新皇后への最高のエールだろう。

週刊朝日  2019年5月24日号