百姓一揆と聞くとつい血が騒ぐのは、われながら悪い癖。若尾政希『百姓一揆』もだから当然手にとったのだけど……意外な事実に次々遭遇。この本で一揆のイメージがまるっきり変わった。

 まず「百姓一揆」という呼称。これは学者を含む後世の人々がそう呼んでいただけで、島原・天草一揆を最後に「一揆」という語は使われていなかったのだそうだ。実際に使われていたのは徒党(百姓が大勢で申し合わせを行う)、強訴(ごうそ)(徒党の上で陣屋などに押しかけて訴願を行う)、逃散(ちょうさん)(申し合わせを行った上で村を立ち退く)などの語で、それは竹槍を手に人々が突進するという一般的な一揆像とはだいぶ異なる。

<むき出しの強権を振るう権力者と、搾取され抑圧にあえぐ民衆。鬱屈した民衆の憤懣が積み重なって百姓一揆が勃発。一揆は、革命を希求した階級闘争だと位置づけられてきた>のは昔の話。

 60年代~70年代に支配的だった<領主階級を打倒しようとした「階級闘争」としての百姓一揆像>はどうやらロマンチックな幻想だったらしい。一揆像は70年代半ばに転換し、現在では仁政(民衆に思いやりのある政治)との関係が重視されている。領主は仁政を施し、百姓は年貢を納め、なんらかの事情で生存が妨げられたときは領主に対して訴訟を行い、それでもだめなら徒党や強訴を行う。

 こうした情報は書物を通じて伝播し、書き写された訴状は寺子屋の教材(往来物)にも使われた。

 近世の百姓一揆は、意外なほどに非暴力的で合理的だった。<日本近世は訴訟社会で、訴状が教材になるほどに、異議申し立てが頻繁に行われていた>という話は、物言わぬ民という近世の民衆のイメージを一変させる。

 いけませんねえ、暴力革命に幻想を抱く、この思い込み。歴史学もまたその時代時代のイデオロギーに影響される。この本のおもしろさは、その過程が一揆研究史を通じて明らかにされていく点だ。認識を改めよう。<『カムイ伝』さながらの歴史叙述は、現在では通用しない>のですよ、もう。

週刊朝日  2018年12月14日号