よく散歩する近所の台地に貝塚があり、積みかさなった貝殻層の断面とともに竪穴式住居が復元されている。その先には超高層ビルが林立し、東京湾はちらっとも見えない。21世紀に生きる私は、それでも時おり、この地で暮らした縄文人に思いをはせてしばらく立ちつくす。

 1万5千年前から1万年以上もの間、縄文人は狩猟、漁撈、採集によって生き延びた。そんな彼らの生き方を律していた思想とはなんなのか? 瀬川拓郎の『縄文の思想』は、文字に残る史料がないという厳しい条件下、この難題に挑んでいる。考古学からアイヌの歴史を研究してきた瀬川がどのようにして縄文人の観念の世界に分け入っていったのか、読者はその方法と具体的な資料にふれるだけでも知的興奮を覚えるだろう。

 たとえば、アイヌと古代海民の間に共通する神話や伝説をきっかけに明らかになる縄文人の、海と山からなる二元的で非農耕民的な世界観。米作をもたらした弥生文化がこの列島に浸透しても南島や北海道、そして海民が拠点とした各地の海辺には縄文文化の断片が残り、彼らの価値観を理解する手がかりとなっている。

<縄文的な世界は、自由・自治・平和・平等に彩られた世界でした>

 網野善彦の海民論と折口信夫のまれびと論を接合しつつ瀬川が浮上させたのは、自由を尊ぶ縄文人の思想だった。それはどんな変化にも対応できる流動性と多様性を認める価値観の源であり、弥生文化の流れをくむ私たちが苦手とする思想でもある。

 今こそ縄文人に学ぶ時かもしれない。彼らのDNAは私たちにも残っているのだから。

週刊朝日  2018年7月6日号