昨年の流行語大賞にまでなった「忖度」。榎本博明『「忖度」の構造』はそれがどれほど深く日本の精神文化に入り込んでいるかを解き明かした他人事ではない本だ。

 昨年3月、日本外国特派員協会での会見で、国有地の売却に際して「安倍総理による口利きはあったか」と問われた森友学園の籠池前理事長は「口利きはされてないでしょう。忖度をしたということでしょう」と答えた。通訳はこれをうまく訳せなかった。

 そうなのだ。〈権力者は、ただ「よろしく!」と言うだけで、ものごとを自分に有利なように動かすことができる〉のである。官僚は政治家などの上位者を忖度して動ける人が評価されるし、明確な圧力がなくても、政治家が困った表情を見せるだけでメディアは忖度を働かせ、自主規制する。

 なぜかって、日本人には「人を喜ばせたい」「悲しませたくない」という意識が強いからだ。

 上司に「もういい!」といわれた部下は「そうか、もういいのか」とは思わず、要求に応えなくてはと焦る。嫌いな食べ物を残して親に「もう食べなくていい」といわれた子どもはしぶしぶでも食べる。それ、全部忖度。よくも悪くも言外の意図を汲み取ることで成立してきた日本のコミュニケーション術。忖度は以心伝心の思いやり。対立よりも融和を重んじる「忖度」にはプラスの面もあるというのが著者の主張なのだ。

 ところが最近、この種のコミュニケーションが成立しにくくなってきた。「聞いてません」と部下にいわれ〈そんなことまでいちいち言わないとわからないのか〉とイラつく上司は忖度を求め、〈それならそうと、はっきり言ってくれればいいのに〉とムカつく部下は忖度ができない。察する力が落ちたのは、教育がサービス化し、手取り足取りのマニュアルが幅を利かせたためというのだが……。

 見当違いの忖度を避けるには〈確認する勇気をもつこと〉。が、それさえも〈そんなことも自分で判断できないのか〉と一蹴される。だからね、そういう態度が過剰な忖度を招くんだって。

週刊朝日  2018年2月2日号