田中克彦『従軍慰安婦と靖国神社』には「一言語学者の随想」という副題がついている。言語学の碩学による、意外にも初のエッセイである。天然なふりをしてじつは挑発的な田中流の論法は、このテーマでも健在。なにせいきなりコレだもん。
<まずぼくは従軍慰安婦のことを、資料を読んだりして調べたことは一度もなく、靖国神社の由来や来歴などを書いた研究書がいくつも出ているのを知っているが、それらの一冊も読んだことはない>。何かにつけて「ソースは?」と迫るお若い衆には真似のできない芸当である。
 実際、「日本軍の強制連行を示す資料はない」などの言い方で問題を狭くとらえようとする論調の中、本書は政治ではなく文化の文脈から問題を広く外へと開いていく。
 たとえば、海外に設置された慰安婦像。韓国人の日本に対する憎悪がどれほど強いか承知したうえで、それが哀悼の意を高める結果になっただろうかと著者は問う。一方、短絡的に像の撤去を求める日本政府にも厳しい視線は向けられる。
<なぜ日本軍だけが慰安婦を必要としたかという、諸外国からの質問にぼくはこう答える。/オトコがオンナを求めたい気持が、日本人も諸外国人も、人種のちがいをこえて差がないとするならば、日本のオトコにかぎって、オンナに言い寄り、「させてください」と頼み、相手もしたくなるようにさそう教養と技術に欠けていたからだと>
 かつての日本には恋愛を尊ぶ文化がなく、それが男女関係において自立できない男をつくり、慰安婦制度をも許した。<国民教育の欠陥を反映していて恥であり、大いに反省すべきことはここに尽きる>。慰安婦は日本の兵士たちのために働いた。<日本人は彼女たちをうやまい、感謝しなければならない>。誤解もおそれぬ大胆不敵な筆致。が、兵士も慰安婦も貧農の子どもたちだった。日本の男たちは慰安婦に対する敬意がない、そのことに田中先生は怒っているのである。

週刊朝日 2014年9月26日号