ポール・マッカートニーが11月にやってくる。“最後の来日公演”ともいわれるなか、7月16日の発表まで二転三転した水面下の交渉を探った。

 キョードー東京の田村有宏貴(ゆうき)(37)は6月10日、ニューヨークのブルックリンにいた。1万8千人を収容できる競技場バークレイズ・センターはすでに超満員である。

 みんなポール・マッカートニーを待っていた。5月4日のブラジル公演を皮切りに始まった彼の世界ツアーは、71歳というその年齢から考えて、「大がかりなものとしては最後になるかもしれない」と音楽業界では語られている。だからビートルズファンも、ポールファンも見逃せない。

 田村はその晩、実母の音楽評論家・湯川れい子(77)と、テレビ朝日の倉林敦夫事業局次長(55)たちと一緒にいた。倉林は、田村と二人三脚でポール招致を働きかけてきた盟友だ(テレ朝は、キョードー東京、朝日新聞社などとともに今回の公演の共同主催者)。

 おなじみのバイオリン・ベースを持ったポールがステージに現れると、聴衆はもう総立ちだった。ステージ中央から手を振ると、拍手と歓声が渦のようになって盛り上がる。1曲目は「エイト・デイズ・ア・ウイーク」。みなが合唱する。

 5曲目が終わるころ、ポールの公演を仕切るプロモーター「マーシャル・アーツ」のバリー・マーシャルが、田村に楽屋に来るよう呼びに来た。これからポール日本公演に向けた最後の交渉が始まるのだ。アリーナの通路を通って楽屋に向かう。

 それは田村にとって、キョードー東京の山崎芳人社長臨席で行われる最終交渉のはずだったが、「どうしても当社に」と粘る日本の同業者の名刺がそこにあった。ライバルが一足早く訪れ、まだ競り合いが続いていた。武術を意味する英語(マーシャル・アーツ)を社名とするバリーは、やり手で、だからポールに雇われている。

 田村は前日の9日、ポールの定宿の高級ホテルで、バリーと3時間ほど交渉を持っていた。そこで経費の細目を詰め、来日時のスケジュールまで協議したというのに、ギャラが蒸し返された。「やっぱり来たか」。演奏は扉を閉め切った楽屋にも響いていたが、もはやそれどころではない。

 キョードー東京がテレ朝と来日公演に向けて交渉を持ったのは、故嵐田三郎会長時代の2004年だった。09年にドイツで行われた交渉ではバリーから、

「キョードーは馴染みのレストランだ。最後になるかもしれないポールの日本公演を、どんな味かわからない違う料理店に任せることはできない」と期待を持たされた。しかし、
「これはビジネス。他社からいい提案があれば検討する」と付け加えることを忘れない。

 以来、「今年こそ行くよ」とほのめかされても、結局は肩すかし。前妻との離婚や娘の養育権をめぐる騒動で、ポール本人に余裕がなかったらしい。ようやく昨年秋、ギャラの交渉を始めるところにこぎつけたが、ライバル3社も同じようにポール獲得を働きかけていた。「ライバルがいくらと提示したよ」。交渉途中、関係者から耳打ちされることもしばしばだった。

 結局、バリーの言い分を汲んで「握手」して取引成立。その間2時間余り。中座したコンサートは終盤にさしかかっていた。

 ディール成立に見えたが、帰国後、公演日程や舞台設営の細目で再調整が必要になり、6月28日発表のはずが急遽順延に。その間隙を縫って同業者が再び動きだす。やっと仮契約書がメールで届いたのは7月2日のことで、「ここまで交渉で苦労したのは初めて」と田村は言う。発表にこぎつけたのは、予定から半月遅れの7月16日だった。

AERA 2013年7月29日号