「サーヤ」と呼ばれ、国民から愛された清子さん。皇室を長く取材してきたジャーナリストは、こう話す。

「これはサーヤのラストメッセージだった。両陛下が孤立無援のなか、バッシングに苦しんだ時期から、『国民に寄り添う平成の皇室』といわれるまで、そのプロセスを見て支えてきたのはサーヤだった。これは、清子さんの誕生日文書だけれども、平成の両陛下が立派にやってきたことを記録に残すという意味では公的な性格を持つ資料のようなものだったと思う」

2005年 結婚披露宴で乾杯する黒田慶樹さんと清子さん (c) 朝日新聞社 
2005年 結婚披露宴で乾杯する黒田慶樹さんと清子さん (c) 朝日新聞社 

 元宮内庁職員の山下晋司さんは、報道室の担当として、平成の皇室を見ていた。

「平成5年のいわゆる"皇后バッシング"のときは、声を失った母・皇后に寄り添い、時期を見て柔らかい表現でその時のことを言葉になさっていた。こういったご対応は、さすが天皇家のお嬢様だと感じたものです。上皇后陛下のかげになって目立つことはありませんでしたが、その優れた才能から『ミニ皇后』という人もいたほどです」

 清子さんの教養の深さに感心はしたものの、これが皇族のあるべき姿なのだろうとも感じていた、と振り返る。

 平成から令和に移るなかで、皇室の立ち振る舞いや考え方も変わりつつある。そして、天皇や皇族のふるまいに対する国民の受け取り方もだいぶ、違ったものになっている。
 それでも、時を経てもなお重みと品性がにじむ平成の内親王の言葉から、学ぶものはあるにちがいない。

 秋篠宮家と国民の心が互いにつながる日が、はやく来てほしい。(AERAdot.編集部 永井貴子)