週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 13』から。諸説と提唱者の分類は編集部による(順不同、提唱者の敬称略)
週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 13』から。諸説と提唱者の分類は編集部による(順不同、提唱者の敬称略)

 本能寺の変は、戦国史のみならず日本史全体の中でも特筆すべき事件だ。その大事件について光秀本人の証言が信用できない以上、そして光秀の動機やビジョンを明確に示す記録が見つかっていない以上、「動機」や「背景(黒幕)」をめぐる議論が起きるのも、そして今もなお論争が続いているのも、当然のことといえよう。

信長を憎んだのか? 天下を望んだのか?

 明治以降、近代歴史学の手法によって、初めて本能寺の変について本格的に言及したのは、東京帝国大学教授で、日本中世政治史研究の土台を作った田中義成である。田中は『川角太閤記』など江戸時代の編纂物をもとに、光秀が信長から折檻を受け、その恨みが事件の動機となったとする「怨恨説」を提唱した。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 13』から。諸説と提唱者の分類は編集部による(順不同、提唱者の敬称略)
週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 13』から。諸説と提唱者の分類は編集部による(順不同、提唱者の敬称略)

 光秀が怨恨を抱くにいたった要因の一つは、丹波攻めの際に人質に出した母親を信長が見殺しにしたこととされるが、現在ではこの逸話は全くのフィクションであることが判明している。もう一つは甲州征伐後、徳川家康が安土城に返礼に来た時、接待役を命じられた光秀が不始末を理由に接待役を解任されたという逸話である。これも、現在では信憑性の低い話であることが明らかとなっている。

 怨恨説と並び、古くからささやかれている説として、光秀が信長の横暴を阻止するために立ち上がったとする「義憤説」が挙げられる。「信長包囲網」の脅威を退けた信長は、「天下人」としての自意識を高め、自らを神格化するにいたった。比叡山や恵林寺を焼き討ちするなど、宗教的な権威をものともせず、正親町天皇に対しても譲位を迫るなど、朝廷の権威さえも凌駕することを志向し始めた。名門土岐源氏の流れを自任し、幕府や朝廷の伝統的権威を重んじる光秀は放置することができず、ついに本能寺の変を起こした。これが「義憤説」のあらましだが、実際のところ、正親町天皇や朝廷と信長が対立関係にあったとする証拠は存在せず、また光秀が伝統を重んじる保守的な人間だったという説明も、具体的な根拠のないイメージに過ぎないことから、近年は否定的な見解が強くなっている。

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怨恨、義憤、野望…さまざまなファクター