「戦後19年たった日本はオリンピックを成功させようと一丸となり、頑張っていましたが、一方でみんなやさしかった。通訳で困ったことがあれば助け合い、失敗しても励まし合っていました。外国人は、私たちの拙いフランス語をわかろうとしてあたたかかった。なぜか、『憧れで航空会社に入ったりしないで、ちゃんと勉強しなさい』と言われたのを今でも覚えています。緊張の連続で3キロやせましたが、勉強したことが役に立ったことは本当に嬉しかった。人生の宝物ですね」

 諏訪は横浜雙葉高校出身。オリンピックの選手紹介や式典で使われるフランス語については発見の連続だった。

「たびたび研修を受けましたが、放送はぶっつけ本番のことが多かった。当時日本ではフェンシングはポピュラーでなく、放送するにしても原稿のひな形がないのです。私たちはオリンピックの基本的な放送用語なども知りませんでした。国歌斉唱のとき、voici(「ここに○○がある」の意)のあと、○○国歌と続く。こんな使い方があることにも驚いた。想定外の放送依頼があり戸惑うことや間違えたこともあったが、目くじらをたてられるようなことはなかった。これらの思い出は今も心の糧となっています」

 白砂は都立小石川高校出身である。同校は大学受験に際し浪人が多い。白砂は東京外国語大を目指して浪人しようとしたが、親が許さなかった。

「でも、上智大は楽しかった。勉強は相当たいへんで、朝8時30分になると教室のカギが閉まるような厳しさがありました。競技場では英語の通訳をしていました。受付に待機して困っている人がいると案内するわけです。当時はフランス語の通訳の仕事は少なく、英語を話せる人も少なかったので、私たちのような外国語学部の学生が競技場を走り回っていました。会場で他大学の学生と多く知り合うことができて楽しかった。開会式と閉会式に出て、マラソンのアベベと円谷、バレーボールの東洋の魔女の金メダルは目の前で観ました。この期間、授業を休ませてもらいましたが、出席扱いになったようです。大学も応援していましたから」

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