日本女子大文学部四年の阿川登志子は、オリンピックが世界をつなぐことを実感し、大会直後にこう記している。

「私は見たのだ、アメリカとソ連の選手の友情交換を、アラブ連合とイスラエルの選手の握手を、モンゴリアの選手と日本人役員の手まね足まねのほほえましい光景を」(日本女子大英文学会 1965年)

 成城大文芸学部3年の橋本侃は香港のホッケー選手の面倒を見ていた。競技場へ送迎するバスの中で、はじめは何を話していいか、どんな対応をすればいいのかわからなかったが、すぐに時が解決してくれた。橋本は大学新聞に手記を綴っている。

「そのうちに、互にその人となりがどうにか解り始めると底抜けにあけっぴろげに、ピンからキリまでの話が出来るようになりました。大学でシェイクスピアを研究した男とオセロについて話し合ったと思うと、監獄の看守や巡査さんと、東京の夜を語りました」(『成城大学新聞』1963年11月15日号)

 上智大外国語学部フランス語学科の学生だった4人に当時をふり返ってもらった。1961年に入学した4年生である。庄司和子、大西偕子、諏訪なほみはフェンシング競技専門、白砂文子は競技場で通訳を担当する。

 庄司は雙葉高校出身で、中学からフランス語を学び、大学受験もフランス語で受けている。

「事前に研修会があって、フェンシングの専門用語、オリンピック、一般常識について勉強しました。今のようにさまざまな情報が入ってくるわけでもなく、環境が全然違っていましたが、一生懸命、通訳をしました。場内アナウンスで日本語、フランス語で案内をしましたが難しくはなかったです。選手村で知り合ったフランス人と手紙のやりとりをして、それから何十年も付き合いが続き、フランスに行った時には泊めてもらうなど、家族ぐるみでお付き合いしたのが印象に残っています」
 
 大西は神奈川県の捜真女学校出身。英語が好きで、英語のルーツのあるヨーロッパの中心の言語であるフランス語を学びたかったため、大学から始めた。

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