(C)山本昌男
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■古い写真は文句なしにいい

 一方、写真集に収められた多くの「散歩写真」には古い写真を見るような、なつかしさを感じる。セピア色の写真のふちはすり切れたようなギザギザで、折れたような跡があるものもある。

「それはわざとやっている。初期のころは作品を手で触って見てもらっていたんです。手あかがつくと古くなるじゃないですか。昔の家族の写真とか、大事にしているがゆえに、持ち歩いたり、さわったりしてぼろぼろになる。古い写真が間違いなくいいところは、『残った』ということだね。要するに、捨てられなかった、大切にされた。もう、古い写真は文句なしにいいに決まっているんですよ。写真がぼろぼろになる、というのは『時間が乗っかる』ということで、それによって記憶が操作されるというか、そういうこともちょっとあります」

 さらに、作品を「エイジングのように」古く見えるように仕上げているのには、もう一つ大きな理由があるという。

「写真を単なる平面じゃなくて、『もの』にしたかったから。それでサイズを小さくもした。要するに手のひらに乗せたかったんです。写真が大きいと、なかなか持った感じがしないでしょう」

(C)山本昌男
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■言葉で見せられたら、撮る必要はない

 手触りが感じられる作品へのこだわりは、表現の世界に足を踏み入れたころからという。

「初めはね、油絵画家だったんです。だけど、自分に油絵の才能のないことがはっきりとわかった。結局、マチエールが好きだったんですね。筆の跡とか。たぶん、それが好きで絵を描いていた。それを写真でも表現できると思っていた」

 それが確信に変わったのは20代後半、アメリカの写真家、エドワード・ウェストンの作品を目にしたときだった。

「ウェストンのオリジナルプリントを見たとき、ものすごくクリアで、『この空気感はマチエールに匹敵するな』と、思ったんです。ああ、じゃあ、写真でいこうと。いまでも作品に手触りみたいなものがないと、なんとなく物足りなさを感じますね」

 今回、新たに表紙にはめ込まれた小さな写真の中に白い細い線が横に伸びている。それが白波だと気づくのにずいぶん時間がかかった。

 その白波を山本さんは「自分で線を引いたんです」と言う。「写真で線を引いたというか。『これはいけたなあ』と思った」。

 ところが、「『それがどうしたの』って、言われちゃう(笑)。その連続。でもね、言葉を軽んじているわけじゃないけれど、言葉で見せられたら、写真に撮る必要はないんです」。

(文=アサヒカメラ・米倉昭仁)

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