ここでできた蛍石の結晶は、まず内部に境界がないか検査される。検査を通った結晶は、再度加熱し徐々に冷やすアニールという工程を経て内部のひずみを取り除いていく。この工程にも7~9日を要する。室内は静かだが、かなり暖かい。

「夏場は40度近くになるので大変ですよ」(大場さん)

るつぼをゆっくりと下降移動させることで単結晶化させる「ブリッジマン方式」の概念図
るつぼをゆっくりと下降移動させることで単結晶化させる「ブリッジマン方式」の概念図

 できた結晶は平面と丸目を出す研削過程を経て、研磨に進む。CG(カーブジェネレーター)でRをつけ、心取りで光軸を出し、研磨、蒸着工程を経て最終的な検査に回る。最初はすりガラスのように白かった結晶が、目の前で徐々に透明になり、我々のよく知るレンズの形になっていく。ちなみに、結城工場では写真レンズ用のほかに、テレビカメラ用の大きなものや、天体望遠鏡に使われるさらに大きなもの(直径400ミリ)も製造している。

 そうしてできた蛍石は宇都宮にあるキヤノンのレンズ工場へ運ばれ、実際に私たちが手にする写真レンズへと組み上げられていく。

「蛍石を使用することで得られる効果は望遠レンズで顕著ですので、望遠ズームレンズや、主に300ミリを超えるような超望遠レンズに使われます。蛍石は同様の性質を持つガラスより軽いため、蛍石を使用しない場合に比べてかなり軽量化ができます。素材の特徴としては非常に傷がつきやすいので、ユーザーが直接触れるような前玉や後玉には使われません。前玉のすぐ後ろなどに組み込まれます。私が設計するテレビカメラ用レンズでは、発売中の全製品に採用しています」(塗師さん)

EF400mm F2.8L IS III USM(右)、EF600mm F4L IS III USMなどキヤノンが誇る高性能望遠レンズには蛍石が採用されている
EF400mm F2.8L IS III USM(右)、EF600mm F4L IS III USMなどキヤノンが誇る高性能望遠レンズには蛍石が採用されている

 また、蛍石を使用した交換レンズは高額であるという印象を持っていたが、「昔に比べれば製造プロセスの進化や歩留まりの向上により、蛍石の値段は下がっています」と大場さんは話す。

 キヤノンで初めて人工蛍石を採用したレンズ、FL-F300ミリ F5.6の発売当時の価格は10万円だ。1969年の大卒初任給が3万円程度なので、現在の価値にざっと換算すると70万円ほどになる。F値が5.6のレンズが、である。現在の300ミリF2.8のレンズなどと比較すると確かに当時の蛍石を使用したレンズが高価格だったとわかる。

 デジタル時代になり、写真レンズにはフィルム時代とは桁違いの高度な性能が要求されるようになった。キヤノンオプトロンの工場で生み出される蛍石は、キヤノンの高性能交換レンズの製造には欠かせないのである。
(取材=アサヒカメラ編集部・高畠保春)

「アサヒカメラ」2020年5月号より抜粋。