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「本能寺の変」の壮絶な謀殺シーンに迫る

【真説! 明智光秀伝】 

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橋場日月dot.
本能寺跡の碑/本能寺は京都市中京区の元本能寺南町周辺にあった。跡地は福祉施設や堀川高校の学舎となっている。同区の下本能寺前町にある現在の本能寺は秀吉が後年移築したものである

本能寺跡の碑/本能寺は京都市中京区の元本能寺南町周辺にあった。跡地は福祉施設や堀川高校の学舎となっている。同区の下本能寺前町にある現在の本能寺は秀吉が後年移築したものである

 週刊朝日ムック『歴史道Vol.7』では、明智光秀を大特集。天正十年(1582)、武田氏を滅ぼし全国統一も目前となった織田信長。しかし、重臣の柴田勝家、羽柴秀吉らが地方の戦場に身を置くなか、信長の周辺には戦力の空白が生じる。前回の記事「本能寺の変の前日に何が起きたのか?」に続いて、中国増援軍の指揮を命じられた明智光秀が引き起こした、日本史上最大の造反劇の一部を抜粋して紹介する。

【写真】本能寺の変の概要図はこちら

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■桔梗紋の旗、本能寺を囲み信長の野望潰える

  織田信長は、公家たちを集めての名物茶器の披露や茶会で本能寺の変の前日を過ごしていたが、一見平和に見える座でも以前に起こっていた改暦の問題に言及し、朝廷の専権事項に属する事柄にも積極的に介入する姿勢を見せた。その相手となった勧修寺晴豊は日記で「これ信長無理なる事」と嘆いている。穏やかさの水面下には政治的緊張も存在していたのだ。

 その後、信長は深夜まで囲碁の対局を見物し寺内の奥御殿で就寝したものの、早起きで知られる彼は光秀が本能寺を取り囲んだ頃にはすでに起床し、洗顔をしていたという(フロイス『日本史』)。外の喧噪を耳にした信長は、当初「下々の者が喧嘩をしているか」と考えたが、明智軍が鬨(とき)の声をあげて突入してくると、「これは謀叛か、いかなる者の企みぞ」と問い、森乱(森蘭丸)が「明智の者と見えます」と応じると、有名なセリフを吐いた。

「是非に及ばず」

 本城惣右衛門が南の堀の橋の番兵ひとりを討ち取ったのを始め、他の門でも守衛は光秀勢によって殺害されており(フロイス『日本史』)、明智軍は四方から寺内に攻め込んでいた。明智軍の先鋒、斎藤利三隊・明智秀満隊はほとんど抵抗を受けず表御殿に到達。表御殿の中も、蚊帳ばかりが吊られていて人は居なかった。

 捕らえた女から「白い着物を着ているのが上様だ」と情報を得たが、惣右衛門はその段階でもまだ「上様とは信長様の事だとは認識できなかった」と述べている。すでに奥御殿で洗顔中だった信長は明智兵から背中に矢を受けたものの、それを引き抜いて長刀を手にし、「出て来た」(フロイス『日本史』)。出て来た先は、『信長公記』に「御殿に乗り入り」とある表御殿だろう。ここで彼は寺の御堂の番衆と合流し、最初は弓で敵を迎え撃つ。御厩(みまや)に宿泊していた部下たち三十人近くが討ち死に。

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