日本考古学の父といわれるエドワード・モース(左)/1875年に来日したお雇い地質学者エドムント・ナウマン(右、1872年の写真、フォッサマグナミュージアム蔵)
日本考古学の父といわれるエドワード・モース(左)/1875年に来日したお雇い地質学者エドムント・ナウマン(右、1872年の写真、フォッサマグナミュージアム蔵)

 大森貝塚の発掘で知られる動物学者エドワード・モースや、北海道の開拓使学校の教師だった地質学者ベンジャミン・ライマンは、いまもその名を知られるお雇い外国人だ。明治初年に来日したお雇い外国人は、近代科学を日本にもたらす傍ら、日本で科学史上の功績も上げていたが、その裏には彼ら同士の競争もあったようだ。

 地質学者としての才能を見いだされ、若くして日本へ派遣されたエドムント・ナウマンの功績をまとめた『地質学者ナウマン伝』(矢島道子著、朝日新聞出版)で明かされた、栄誉の裏にあった熾烈な競争、不本意な帰国、お雇い外国人たちの日本での動向の一端を紹介する。

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■大森貝塚の発掘はモースだけではなかった

 日本考古学史ではながらく、縄文土器は東京大学理学部の生物学初代教授のアメリカ人モースが大森貝塚から発見したとして、その功績が讃えられてきた。モースが発掘した遺物は東京大学総合研究博物館やアメリカ・セーラムのピーボディー・エセックス博物館に大量に陳列されている。ほとんど知られていないが、じつはオーストリア・ウィーンの世界博物館の所蔵庫にも縄文土器が眠っている。なぜウィーンに縄文土器があるのか。ドイツ人のハインリヒ・フォン・シーボルト(フィリップ・フォン・シーボルトの二男)とナウマンも大森を発掘していたからだ。

オーストリア、ウイーン世界博物館蔵の縄文土器片(写真・矢島道子)
オーストリア、ウイーン世界博物館蔵の縄文土器片(写真・矢島道子)

 発見競争が裏にあった。モースは1877年6月に来日、横浜から新橋へ汽車に乗り、車窓から貝塚を見つけたといわれている。9月になって東京大学の学生に発掘に行かせた。すると同じく東京大学地質学教師のナウマンがそこにいた。警戒したのだろう。さっそくモースは東京大学を通して東京府に発掘禁止命令を出させた。10月8日の新聞に、大森貝塚発見の記事が書き立てられ、発見の名誉を独り占めする。

 これに対し、ボン大学のクライナー名誉教授はその論文「もう一人のシーボルト」で、ハインリヒがモースより早く大森貝塚を発掘していたと主張した。同論文によれば、コペンハーゲン国立博物館の館長宛の手紙にシーボルトの論文が同封され、1877年秋に発掘したと書かれているためだ。

 一方、ナウマンは精力的に関東平野を見て回り、崖に自然堆積でない貝層があらわれているのを知っていた。横浜鶴見でも貝塚を発掘しており、1877年10月20日にドイツ東亜博物学民族学協会(略称OAG)で貝塚からの出土品を示して講演している。ナウマンが単独で発掘したとは思えない。シーボルトは当時大蔵省に異動して忙しかっただろうが、ナウマンからモースの動きを知らされて、共同で発掘に当たったのではないかと筆者は考えている。

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業績半ばで帰国を余儀なくされたライマン…