(CG製作/成瀬京司)
(CG製作/成瀬京司)

 まだ会津兵の到着していない三条通りで、新選組は小橋西詰の北側三軒目に位置する池田屋に異変を感じた。元禄の創業と伝わり、長州藩士用達の宿屋としても知られたこの店は、かねて新選組にはマーク対象となっていたであろう。

 会合は二階の三条通りに面した部屋で行なわれていたと見られる。切迫した事態に近藤は御用改めを決断、一部の隊士を表口と高瀬川の船入に通じる裏庭に配して進入した。沖田総司、永倉新八、藤堂平助を伴い、二階に駆け上がった近藤は、白熱していた会合の席に遭遇する。このほど新資料から、沖田、永倉、藤堂が上洛前に近藤勇の借家に同居していたことが判明した。近藤にはごく頼りになる子飼いの者たちである。
 
 捕縛宣告に応ぜず抜刀した浪士に、近藤らは応戦、沖田総司は一人を斬るものの、刀の帽子を折られ、さらに酷暑で昏倒、早期に戦列を離れた。つづいて戦闘は階下に移る。永倉は表口から台所、近藤は奥の間、藤堂は裏庭までと、三手に分かれて浪士と対峙し、戦闘を続けた。

 藤堂は戦闘中に眉間を割られ、やがて戦線を離脱したが、近藤と永倉は戦闘を続行した。吉田稔麿はじめ会合参加者の多くは脱出したが、宮部鼎蔵、大高又次郎ら4、5名が池田屋内で斬られている。

■新選組の運命を変えた、池田屋事件の功名

 やがて土方歳三の一隊が到着、井上源三郎の率いる半隊が屋内の残敵追討を行ない、半隊は池田屋の周囲でさらなる逃走者を見張った。その後は会津藩や桑名藩はじめ、多数の治安勢力による烈しい浪士掃討が広範に行われた。多くの捕縛者があり、六日朝、混乱は終結した。

 池田屋の悲報を知った長州勢は、ただちに京都へ進発を開始、さらに御所に向け、前年の政変からの失地回復を嘆願したが、警衛する会津兵らとの戦闘が勃発(禁門の変)、これを御所への敵対とされ、政局は長州征伐へと続いていった。
 
 ただ、この一夜の激戦によって新選組の武威は内外に広く喧伝された。運命だったのか、この瞬間から、解散をも視野に入れていた近藤は、最強の治安組織の長として、最期まで進んで行くこととなる。

(文/伊東成郎)

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より