新選組「組織の拡大」変遷(図版作成/アトリエ・プラン)
新選組「組織の拡大」変遷(図版作成/アトリエ・プラン)

 組織は当初、発足地に因んだ壬生浪士組を自称した。通称は壬生浪(みぶろう)。浪士組の到着直後、彼らを嘲笑する京雀の間から、自然発生していった名乗りである。
 
 やがて浪士金という名称で、会津藩から活動資金も支給されるようになり、京都や大坂の町道場などから、新入隊士の募集を行なうようになった。当初は、組織の母体となった芹沢鴨と近藤勇の各派閥から、首脳部や幹部を固める隊形をとった。新規入隊者より結成幹部を幅広く重視した形である。

 だが、その後芹沢が市中で金策や商家の破壊などの粗暴な活動を重ねるようになる。組織は芹沢浪士組などと蔑称されるようになり、会津藩は近藤らに芹沢の抹消を示唆、結成約半年後の九月、芹沢と周辺幹部らは暗殺、排除された。
 
 後日、組織には、江戸に戻った浪士組隊士らが発足させた治安維持組織の、新徴組と呼応するように、会津藩から新選組という隊名が授けられた。
 
 単独で組織を担うこととなった近藤勇は、ただちに組織内を8分割した八小隊編成を編んだ。各小隊組頭の統率下、主要任務の市中巡察に際して、機動的に活動することを念頭に置いたのである。

 八小隊編成は、以後も不変のまま継続されている。また、隊士が増加する契機となった池田屋事件以降は、八小隊に加え、経理や庶務面を一括した小荷駄隊を独立させ、全九小隊編成とするなど、より実践的な改革も進められた。
 
 新選組は屯所の玄関に、激烈な攘夷派でも知られる旧水戸藩主・徳川斉昭の、

「いざさらばわれも波間にこぎ出でて あめりか船を打ちや払わん」

という攘夷歌を掲示していた。
 
 念願の攘夷実現を目指す最強の京都の治安維持組織は、その後、西本願寺の屯所で150名もの隊士を抱える強靱な集団となっていったのである。

■京の治安維持のみならず 長州征討行軍も熱望していた

 新選組が主要な任務としたのは、京都市中の治安維持活動だった。

 その一環として彼らには、他の治安組織とともに、個別の巡察地域も定められていた。定められた範囲内で、より的確で綿密な警備活動を行なうように統制されていたのである。個別の巡察区域は、池田屋事件の起こる2カ月前の元治元年(1864)四月以前から定められ、その後も適宜、変更されていった。

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長州征討を渇望し作成した「行軍図」