薩摩藩では、余剰金を借金の返済ではなく、軍事費に投じていた。富国強兵・殖産興業を図ろうとする島津斉彬は、近代工業化のための集成館を設立し、武器や弾薬の製造にも乗り出している。もともと薩摩藩は他藩よりも人口に占める武士の割合が多く、しかも火器による戦闘を強く意識していた。そこに十分な量の銃砲が整備されたのであるから、軍事力は文句なしの20点満点である。


 
 人材についていえば、薩摩藩では、学芸を主とする造士館、武芸を主とする演武館といった藩校を設けており、文武両道による育成が行われていた。また、島津斉彬の時代には、下級武士の大久保利通や西郷隆盛が登用されるなど、能力によって政治にも参加することができていた。ただしお遊良騒動(注)など、藩政の実権を握る権力争いから足の引っ張り合いもあったことを含め、人材は18点となる。

 藩内では凄惨な権力争いもあったが、大久保利通や西郷隆盛らが政治の実権を握ったあとは、討幕で藩論が統一されていく。15代将軍徳川慶喜により「討薩表(とうさつのひょう)」が出されたことで、結束力は高まった。その点をふまえ、モチベーションも19点とした。

(注)藩主の後継をめぐり正妻の子・斉彬を擁立する一派と、側室お遊羅の子・久光を擁立する一派が対立したお家騒動。

第2位 長州藩

「幕末に有能な人材を多数輩出するが、急進派の過激な行動が評価を下げた」

○長州藩
国名/長門国(山口県)藩庁/萩城(萩市)・山口城(山口市)
主な藩主家/毛利氏 石高/36・9万石

【長州藩 総論】
【長州藩 総論】

■藩内の急進派と保守派が対立。一時は朝敵とされてしまう

 もともと長州藩では、急進的な尊王攘夷論を唱えた改革派だけでなく、幕府と協調するべきだとする保守派も存在していた。そうしたなか、藩主の毛利敬親は、藩士の言いなりだったことから、「そうせい侯」と揶揄されることが多い。ただ、どちらかの一派が政権を握れば、藩内が混乱するわけで、藩主として慎重な態度をとり続けた結果とみることもできる。
 

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外交力が低い理由