「治療の方法」
「治療の方法」

Q:医者も病院もほとんどない! どうやって傷を治した?
A:迷信的、非科学的な荒療治も施されていた

■破傷風の危険さえあった荒っぽい療法とは?

 衛生という思想の乏しい戦国時代は、迷信や医療誤解が戦場にまかり通っていた。『武学拾粋』という当時の医学書には、血止めや疵(きず)止めについて述べられているが、その方法とは、「手疵を負いたる時は、血止めの薬を飲み、疵口に灸(きゅう)をすえるべし」という単純なもので、薬が無い時は、「疵口に塩か人糞を摺すり込むべし。塩を摺り込む時(患者の)多くは絶死(気絶)する者も の也なり」と荒っぽいばかりか破傷風(はしょうふう)の危険さえある療法が奨励されていた。

 僅かに救いであったのは、戦場を往来する時宗の放浪僧だ。中世以来集団で各地を移動した彼らは、その豊富な医学知識で上下を問わず治療やリハビリ、患者が死亡した場合は埋葬まで行った。

「全国武将の隠し湯」
「全国武将の隠し湯」

  こうした従軍僧の中から、後年金創(きんぞう/外科)専門の医師が出現する。江戸期、内科医が総髪(そうはつ)、外科医が僧形(そうぎょう)という風俗の差を生じたのは、これであるという。

 が、多くの足軽たちは、そうした医師団と一生無縁で過ごした。仲間うちの不充分な手当てで何とか生き残った者たちも、身障者となり故郷に追い返された。彼らは村の相互扶助制度のもと、「村厄介(むらやっかい)」となる。伝承によれば、あの豊臣秀吉の実父弥右衛門も、こうした負傷帰農者の足軽だったという。(監修・文/東郷隆)

※イラスト/さとうただし

※週刊朝日ムック「歴史道Vol.5」より