巨大組み体操を実施する学校数の下げ止まりといい、段数を上げる学校数の増加といい、巨大組み体操の問題はけっして終わっていないし、復活の兆しさえ垣間見える。

■「教育」という大義名分

 なぜあれだけ非難された巨大組み体操が、再び巨大化してしまうのか。
その理由は、学校文化の基底に、巨大組み体操が「教育」として十分に意義があるという考えが根づいているからだと考えられる。

 たとえば巨大組み体操をつくるにあたっては、土台役に共通する経験は、「ただひたすら重かった」「膝に砂や小石がめりこんできて、激痛との闘いだった」である。そしてこの苦痛に対する典型的な指導方法が、「土台の子は、上の子が安心していられるように、痛くても重くても我慢しなさい。『痛い』『重い』と言っていては、上に乗るのが不安になってしまうでしょう。そして上に乗る子は、土台の子があなたのためにグッと我慢してくれているのだから、土台の子を信じて、勇気を出して上にのぼっていきなさい」である。

 多くの指導書や学校のウェブサイトで、クラスメイトのために自分の痛みや恐怖を抑え込むことに、組み体操の魅力が見いだされている。それは、クラスのなかに信頼感や一体感を生むというのだ。

 だが、信頼感や一体感、あるいは感動というのは、そこまで身体をリスクにさらさないと得られないものなのだろうか。大人の無謀な「教育」で、身体を傷つけられるのは結局のところ、子どもである。(文/名古屋大学准教授・内田良)