アムール川とハバロフスクの街(2007年、筆者撮影)
アムール川とハバロフスクの街(2007年、筆者撮影)

 一口に日本文化というが、食やことば、漁の方法など、各地で多様な文化が交じり合うのが実態だ。いつから、なぜ文化はこんなに多様になったのか。

 われわれの直接の祖先、ホモ・サピエンスが列島にやってきたのは4万年前くらい。実はその直後から、各地で独自な文化がはぐくまれ、その違いは現在まで引き継がれていると、『境界の日本史』(森先一貴・近江俊秀著、朝日新聞出版刊)は説いている。

 文化の境目から日本史を見直すというユニークな視点はどこから生まれたのか。筆者の一人、森先一貴氏がその具体的な視座を得た、自身の在外研究を紹介する。

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 まだ大学院生だった2007年の夏。ロシア連邦極東部、アムール川下流域のほとり、マラヤガバニ遺跡の発掘調査に参加した。この遺跡は新石器時代(日本でいう縄文時代に相当)のもので、日露合同発掘調査だった。

 日本での発掘調査の経験はあっても、海外での調査経験はほとんどない。そのうえ、ロシアは初めてで、期待よりもはるかに大きい不安を抱えたまま、大学の先輩たちと新潟から現地に向かった。

マラヤガバニ遺跡に向かう途中でバスが故障、やむなく道の傍らでキャンプを張る(筆者撮影)
マラヤガバニ遺跡に向かう途中でバスが故障、やむなく道の傍らでキャンプを張る(筆者撮影)

 日本から空路3時間ほどでロシア極東の大都市の一つ、ハバロフスクの空港に着き、市街地のはずれの小さなホテルで数日滞在してから、小型のバスでロシア人メンバーとともに遺跡近くの村に向かった。楽な道ではなそうだと覚悟はしていたけれど、運転手がかける大音量の音楽の中、リクライニングもない固くて小さな二人用座席に仲間と並んで座り、でこぼこだらけのひどい道を進む。車内でろくに眠れず揺られること20時間以上、おまけに途中で脱輪して立ち往生し、道端でテントを張ってウオツカを飲みながら一晩過ごしたりもした。

 現地についてからも2週間の調査期間中は河畔でのテント生活で携帯電話も通じない。ロシア側の仲間とウオツカを楽しむ(?) 以外は、ただ遺跡の発掘だけに向き合う日々。日本と違い風呂もシャワーもなく、毎日アムール川で水浴びをしたが、これが夏でもかなり冷たい。洗濯も川でやるしかなかった。

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海外での調査が感動も多かったが、閉口したのが…