積雪のなか、渋谷「道玄坂上」をゆっくり走る“玉電”。大雪とあって人影もまばらだ。上通停留所(撮影/諸河久:1969年3月4日)
積雪のなか、渋谷「道玄坂上」をゆっくり走る“玉電”。大雪とあって人影もまばらだ。上通停留所(撮影/諸河久:1969年3月4日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は春雪の渋谷・道玄坂上を走る東急玉川線の路面電車だ。

【50年が経過した渋谷「道玄坂」はどれだけ変わった!? 現在の写真はこちら】

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「降る雪や 明治は遠く なりにけり」。俳人中村草田男が1931年に詠んだ名句だ。

 5月に天皇陛下が退位されて元号が改まる。昭和が終わってからおよそ31年が経っている。20年前に過ぎ去った明治を偲んで草田男が発句したときより、昭和はさらに10年も遠くなってしまった。春雪とともに走り去った昭和の路面電車の記憶に思いを馳せる昨今だ。

 1969年の東京は、3月に入って4日と13日に30センチを越す降雪に見舞われた。ことに4日は、都心でも朝からたっぷりと雪が積っていた。風流に「春雪」の雪見ともいっておられず、この年の5月で廃止が決まっていた東京急行電鉄・玉川線(以下玉電)にフォトジェニックな降雪シーンを求め、雪支度に身を固めて渋谷界隈に出かけることにした。

 渋谷駅周辺は、その名が示すとおり“谷底”のような地形で、駅を中心に四方に通りが伸びている。昭和40年代には、通りに面した百貨店の開店をきっかけに若者がひしめき合った「渋谷公園通り」や、「宮益坂」「金王坂」などの坂道もある。今回の写真の「道玄坂」は渋谷駅の西側に伸びる坂道だ。当時とは異なり、現在は、渋谷有数の繁華街として昼夜を問わず人が行き交う場所になっている。

降りしきる雪のなか、渋谷駅では乗務員が着雪を払っていた(撮影/諸河久:1969年3月4日)
降りしきる雪のなか、渋谷駅では乗務員が着雪を払っていた(撮影/諸河久:1969年3月4日)

■玉電渋谷駅は一面の銀世界

 話を戻そう。地下鉄・銀座線の渋谷駅から階下の玉電渋谷駅に通じる階段を下りて駅に入場すると、一面の銀世界だった。三軒茶屋方面から次々到着する電車の後部が巻き上げた着雪で真っ白だ。このまま折り返すと「二子玉川園」行きか「下高井戸」行きか判別が付かなくなるため、乗務員が懸命に雪落としをするめったにお目にかかれないシーンを撮影できた。             

 渋谷駅のスナップショットを終了し、玉電に乗り込んだ。営団地下鉄
(現東京地下鉄)銀座線を左に、京王帝都電鉄(現京王電鉄)井の頭線を右に垣間見て見て雪の専用軌道を進む。営団の渋谷検車区が途切れた辺りで左折し、渋谷から道玄坂を上って来た玉川通り(国道246号)に合流する。ここからは路面区間に入り、自動車が頻繁に行き交う道路上の積雪の状況を観察しつつ、撮影地を判断することになる。運転台の目線で見ていると、降雪の玉川通りはフォトジェニックそのもの。一刻でも早くシャッターを切りたい気持ちが抑えきれず、渋谷からひとつ先の上通停留所で下車した。ここで渋谷方と三軒茶屋方からやって来る雪中の玉電をしっかり捉えることができた。高感度フィルムの「コダック・トライX」(以下、トライX)が降雪時の厳しい露出ワークに充分に対応してくれたからだ。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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