雑草が生い茂るグリーンベルトの中を都電が次々にやってくる。現在の麻布十番の雰囲気からはこの草いきれの光景は想像つかない(撮影/諸河久:1965年9月1日)
雑草が生い茂るグリーンベルトの中を都電が次々にやってくる。現在の麻布十番の雰囲気からはこの草いきれの光景は想像つかない(撮影/諸河久:1965年9月1日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は“城南の都電王国”と謳われた港区麻布十番「一ノ橋」を走る都電だ。

【現在の麻布十番はまったく違う光景に!? いまの同じ場所の写真はこちら】

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 路面電車ファンに「往時の麻布十番はどんな街だったか?」と尋ねたら、「都電王国だった」と回答する人もいるだろう。なぜなら、都道415号線(通称・麻布通り)の一ノ橋(後年麻布十番に改称)~二ノ橋にかけては「センターリザベーション方式」の軌道が敷設され、自動車に邪魔されずに次々にやってくる都電を撮影・観察できたからだ。ちなみに、センターリザベーション方式とは路面電車の軌道敷を道路の中央(センター)に車道と分離して敷設することだ。道路状況によって道路脇(サイド)に敷設するケースもある。

■麻布十番に地下鉄が走ったのは…

 そもそも麻布十番の街が発展を遂げたのは、都電が寄与するところも大きい。営団地下鉄(現・東京地下鉄)南北線や都営大江戸線の麻布十番駅が開通したのは、ともに2000年だ。地下鉄の長い歴史から見れば、実は“最近”のことでもある。現在は高級住宅街として名高い麻布界隈において、麻布十番に粋な飲食店が多くどこか庶民的な雰囲気を漂わせるのは、かつて、つっかけサンダルを履いて気軽に乗降する人も多くいた都電王国時代の名残があるのかもしれない。

現在はビルが立ち並び、遠景も大きく変わった(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在はビルが立ち並び、遠景も大きく変わった(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 前述の一ノ橋~二ノ橋区間には、五反田駅前~銀座二丁目を結ぶ4系統、目黒駅前~永代橋を結ぶ5系統、中目黒~築地を結ぶ8系統、渋谷駅前~金杉橋を結ぶ34系統の4つの系統の都電が、同じ軌道上を頻繁に行き交っていた。運用される都電形式は1000・1100・1200・2000・3000・6000・7000・8000の8形式におよび、ファンには垂涎の撮影スポットだった。

 写真は一ノ橋停留所を発車して二ノ橋停留所に向う34系統渋谷駅前行きの6000型だ。ご覧のとおり、古川線が麻布通りの真ん中にセンターリザベーションで敷設されていた。都電沿線の全域にこのシステムが波及していれば、路面電車と自動車交通が共存できたと思うのだが、当時の狭隘な道路事情ではとても実現は不可能だった。わずかに、昭和通りの上野駅前~秋葉原駅東口や京葉道路の錦糸堀車庫前付近など、道幅が拡幅された一部区間で実施されたのに止まった。

 撮影日は9月とはいえ残暑が厳しかった。軌道敷と道路を隔てるグリーンベルトに繁茂した雑草の草いきれの中で、矢継ぎばやにやって来る都電にシャッターを切った記憶がある。

 写真の6273は、290両在籍した6000型の最終増備車で完成度が高かった。側窓が9個になり、座席定員が8人増えて30人になった。台車も新型の防振オイルダンパ・コロ軸受付き鋳鋼製D17になり、大幅に乗り心地が改善された。1952年に日本車輌で新製当初は錦糸堀車庫に配置され、広尾、柳島と転属して1971年3月に廃車されている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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停留所が「橋」の連続