日本硫黄観光鉄道(福島県)。初めて撮影する軽便鉄道に心が躍った。雪中のフィールドワークも初体験で、かじかむ指先でシャッターを切った記憶がよみがえる。凍てつく沼尻駅に到着する下り列車。1964年1月2日(フジカ35SE・フジノン45ミリF1.9・コニパンSS)
日本硫黄観光鉄道(福島県)。初めて撮影する軽便鉄道に心が躍った。雪中のフィールドワークも初体験で、かじかむ指先でシャッターを切った記憶がよみがえる。凍てつく沼尻駅に到着する下り列車。1964年1月2日(フジカ35SE・フジノン45ミリF1.9・コニパンSS)

■同好の先輩たちから学んだ撮影のノウハウ

 こうして撮影機材が整った1964(昭和39)年正月、かねて知己を得ていた同好の先輩が企画された福島県の「日本硫黄観光鉄道」への撮影旅行に参加させていただくことになった。

 筆者にとっては初めての軽便探訪といえるこの旅行は、上野発の夜行列車に乗り込むところから始まった。未明の郡山駅で磐越西線下り一番列車に乗り換え、午前7時前に幼年時代から憧れていた「軽便原風景」が展開する川桁駅に降り立った。「白河の関」を越えて東北に行くのが初めてという16歳の高校生には、磐梯山麓で展開される軽便情景のすべてがフォトジェニックに感じられたことはいうまでもない。

尾小屋鉄道(石川県)。除雪用に温存してきた5号機に火が入った。この日はファンが乗車した特別列車を牽引した。尾小屋1970年11月3日(マミヤC33・セコール80ミリF2.8・プラスX)
尾小屋鉄道(石川県)。除雪用に温存してきた5号機に火が入った。この日はファンが乗車した特別列車を牽引した。尾小屋1970年11月3日(マミヤC33・セコール80ミリF2.8・プラスX)

 その頃の筆者の撮影技術は未熟で、フィルムの装填ミスで、空前絶後の列車走行シーンを逃した大失敗などもあったが、撮影現場での交渉術や沿線の撮影所作など、諸先輩から伝授されたノウハウを体験できた貴重な旅であった。この撮影旅行で「軽便」探訪の魅力に開眼した筆者は、「日本の軽便鉄道をすべて巡ろう」と立志した。撮影旅行に制約があった高校時代には、遠州鉄道・奥山線、静岡鉄道・駿遠線、三重電鉄(後の近畿日本鉄道)、尾小屋鉄道を歴訪した。当時残存していた軽便鉄道はこのほかに、井笠鉄道、下津井電鉄、頸城鉄道自動車、越後交通・栃尾線、宮城バス・仙北鉄道、花巻電鉄の6社があった。

 大学に進学した初年に、宮城バス・仙北鉄道を手始めにして、未踏だったこれらの軽便鉄道を一気呵成に行脚し、最後に残った下津井電鉄を訪問して「全国軽便巡り」が成就したのは、68年初夏のことだった。

 高校時代の撮影では、もっぱら35ミリ判を使っていたが、指導していただいた先輩は、35ミリ判よりワンサイズ上のブローニー判の120フィルムを使った中判カメラでの撮影を勧めてくれた。大学への進学が決まって、わくわくする気持ちで入手したのが、6×6センチ判の二眼レフカメラ、マミヤC33プロフェッショナルだった。マミヤC33プロフェッショナルは国産二眼レフの中では、唯一レンズ交換可能な機種で、Cシリーズ初のセルフコッキング機構が追加され、メカ的にも堅牢で、鉄道写真のフィールドワークに適合するという判断で選んだ機材だった。

宮城バス・仙北鉄道(宮城県)。大学に進学後、初めて訪れた軽便鉄道だった。朝もやをついて走る瀬峰行き上り列車。佐沼―板倉1966年3月4日(マミヤC 33・セコール80ミリF2.8・ネオパンSS)
宮城バス・仙北鉄道(宮城県)。大学に進学後、初めて訪れた軽便鉄道だった。朝もやをついて走る瀬峰行き上り列車。佐沼―板倉1966年3月4日(マミヤC 33・セコール80ミリF2.8・ネオパンSS)

■軽便鉄道の魅力と探訪エピソード

 軽便鉄道の魅力って何だろう。その答えは「ノスタルジー(郷愁)」の一言に尽きよう。「モータリゼーション」という新しい時代の波に乗り遅れた旧弊な交通システムが軽便鉄道であり、そこには現代人が失った古きよき時代の憧憬があった。

 次々と消えてゆく軽便鉄道を慈しみ、その姿や風情を後世に残したい。こんな思いでカメラを携えて各地を巡った学生時代だった。軽便鉄道の旅は、都会では得られない、沿線の人々や鉄道員の皆さんとの温かい交流や、さまざまな出来事を体験することができた。

 日本硫黄観光鉄道では、筆者が乗り込んだ下り2番列車が沼尻スキー場に向かうスキーヤーで満員の盛況だった。長火鉢にいけた炭火が暖かそうな車内には乗車できず、寒風にさらされたオープンデッキにぶら下がる極寒の旅を強いられた。遠州鉄道・奥山線では、車庫がある元城駅の内藤駅長や清水運転士のお世話で、同社の社員寮に泊めていただいたこともあった。

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運転士さんとの縁