「当時、エストニアで話していいのはロシア語だけ。母国語のエストニア語は禁止されていました。唯一エストニア語を使っていいのは、歌を歌うときだけ。だから、音楽は自由の象徴だった」(谷中)

 ところが、このライブでスカパラは大きな失敗をしてしまう。

「前夜祭でお客さんを盛り上げようとして、ロシア民謡の『ペトラーズ』を演奏したんですよ。そしたら、お客さんが固まってしまって。そりゃそうですよね。エストニアの人からすれば、ロシア民謡は『占領した国』の曲。外国に行く時は、その国のことをちゃんと知ってからライブしないといけない。本当に勉強になりました」(谷中)

 谷中に限らず、スカパラのメンバーは、エストニアのロックフェスティバルを最も印象に残っているライブのひとつにあげることが多いという。

「制限が多い生活のなかで、音楽をしている時だけはみんな自由で、楽しそうだった。エストニアの人たちが僕らにこう言ったんです。『私たちは歌と花の国に住んでいます』って」(谷中)

 音楽と自由。使い古されたフレーズだが、スカパラはその意味について身をもって体験している。だからこそ、外国でのライブも、スカパラが若い頃からやってきたストリートライブも、常に「ベストを尽くす」。スカパラを知らない人でも、一期一会のライブで楽しんでもらう。それを29年間続けてきた。

「アウェイのステージで演奏するのが好きなんですよ。亡くなったギムラも青木も、海外で演奏することにこだわっていた。『いつか、自分たちの日本語なまりの英語をコピーしてくれるバンドが出てくればいいな』ってよく話していました。今でも海外のライブが成功すると『二人は観てくれてるかな』って思う時があります」(谷中)

 2000年代に入ってからは、奥田民生、田島貴男、チバユウスケ、CHARA、甲本ヒロトといった稀代のボーカリストらとコラボレーションすることで新たな挑戦と発見を続けてきた。

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2000年代に入ってからの新たな挑戦