53年前の東京駅の南側周辺(撮影/諸河久:1965年3月29日)
53年前の東京駅の南側周辺(撮影/諸河久:1965年3月29日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、東京ステーションシティとして駅から街に変身する東京駅丸ノ内を巡る都電だ。

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 1908年に建築家・辰野金吾の設計で着手された東京の中央停車場は、1914年に「東京駅」と命名されて開業した。全長335mにも及ぶ長大な駅舎で、南北のドームをそれぞれ乗車口、降車口に分離し、中央のドームは皇室用とするデザインだった。ルネッサンス風の鉄骨・赤レンガ造りの荘厳な駅舎は、日本最大の洋館建築物となった。

 1923年の関東大震災にも無傷で耐えた東京駅舎だったが、1945年の空襲で威容を誇ったドームを焼失。戦後の復興工事で焼け落ちたドームが八角屋根仕様に変更され、三階建てから二階建て駅舎へと改築された。丸ノ内駅舎の乗降口の分離は1948年まで続けられた。

 筆者の幼少時、明治生まれの祖母とタクシーに乗ると「東京駅乗車口までやっておくれ」と、現在の丸ノ内南口までの行き先を運転手に告げていたことを記憶している。

現在の東京駅南側周辺(撮影/井上和典・AERAdot編集部)
現在の東京駅南側周辺(撮影/井上和典・AERAdot編集部)

 2003年、丸ノ内駅舎は国の重要文化財に指定され、駅舎の保存・復元に向けた機運が高まった。2007年に駅舎保存・復元工事が東日本旅客鉄道によって着工され、5年後の2012年に保存・復元工事が完成。往時を彷彿とさせる典雅なドーム型の駅舎を鑑賞できるようになった。
 
 開業当初、東京駅は丸ノ内側からの乗降で、八重洲側には乗降設備が無かった。東口(後年八重洲口に改称)が開設されたのは1929年のことだった。八重洲口は戦後になっても寂れた乗降口だったが、1964年の東海道新幹線開業を契機に八重洲口駅舎が大幅に改良され、現在の隆盛を迎えた。
 
 東京駅丸ノ内口にアクセスする路面電車(市電・丸ノ内線)が敷設されたのは、東京駅開業から7年後の1921年3月だった。その間、内堀通りに敷設された神田橋線(1903年開業)の和田蔵門停留所を「東京停車場前」に改称して、東京駅への乗換え客の案内を図った。1918年、東京停車場前停留所は「東京駅前」に再度改称され、前述の丸ノ内線が開業すると、元の和田蔵門に復名している。
 

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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