東京・上野の不忍池。弁天堂を望む。色鮮やかなファッションが、いきいきとした東京を感じさせる(撮影/諸河久:1969年4月12日)
東京・上野の不忍池。弁天堂を望む。色鮮やかなファッションが、いきいきとした東京を感じさせる(撮影/諸河久:1969年4月12日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、四季の移ろいが豊かな不忍池(しのばずのいけ)を専用軌道で巡る都電だ。今回は当時貴重だったカラーポジフィルムで撮影された作品を掲載する。

【50年が経過した現在の上野・不忍池はどれだけ変わった? 写真はこちらから】

*  *  *

 東京・上野恩賜公園のなかにある天然の池「不忍池」。現在の姿からは想像しにくいが、かつて池畔に路面電車が走っていた。

 写真は上野公園停留所から300mほど上野動物園前寄りにあった「都電の踏切」に差し掛かる20系統須田町行きを撮影。不忍池に張り出した弁天堂や池面を描写するため、上野の杜に登る石段の中ほどから俯瞰した。往時の不忍弁天前停留所は、この踏切あたりにあったのであろう。背景となった弁天堂の境内はお花見の行楽客で賑い、散策する人々のファッションや表情にも「春の喜び」が感じられるカラー作品となった。

 市電「動坂線」が開業したのは1917年7月だった。開通当初は池之端七軒町から上野公園まで、上野東照宮前、不忍弁天前の二停留所を間に挟んだ1120mの区間が専用軌道で敷設された。ちょうど不忍池を半周する線形で、ファンはこの区間を「池之端の専用軌道」と呼んで親しんだ。上野公園に隣接した不忍弁天前は1921年に廃止され、後年、池之端七軒町は池之端二丁目、上野東照宮前は上野動物園前に改称された。

 上野の杜と不忍池に挟まれたこの界隈は、都心とは思えない木々の緑に溢れ、春は満開の桜花、夏は飛び交うトンボやバッタ、秋は紅葉、冬は降雪と、専用軌道を走る都電の車窓からは四季折々の風情が楽しめた。

現在の上野不忍池。弁天堂の背景にはタワーマンションなどの高層建築物も(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
現在の上野不忍池。弁天堂の背景にはタワーマンションなどの高層建築物も(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 池之端の専用軌道を走る都電は、20系統(江戸川橋~須田町)・37系統(三田~駒込千駄木町)・40系統(神明町車庫前~銀座七丁目)の三系統だった。日曜・祭日には上野広小路発池袋駅前行きの臨時20系統も運転され、多くの行楽客が利用した。1967年12月に37・40系統が廃止されてからは20系統の一人舞台となり、不忍池畔から都電が消えたのは1971年3月だった。

 筆者がカラーポジフィルムの撮影を始めたのは1966年で、当初は廉価な「フジカラースライド」で鉄道情景を撮影。同好者の会合で月例作品として発表していた。当時の最高峰ポジフィルムはコダック・エクタクローム(ISO32)だった。大学生のアルバイト時給が100円の時代に、 エクタクローム・36EXが現像料別で1200円もしたから、価格的にも高嶺の花だった。奮発して買ったエクタクロームXで撮影。その精緻で鮮明な仕上がりを見たときには、まさに「目から鱗が落ちる」思いだった

 1967年12月、都電・銀座線が廃止されることが発表された。バイト代をつぎ込んで高価なエクタクロームを購入し、銀座を走る最後の雄姿を高画質のカラーポジフィルムで撮影することができた。

 池之端の作品を撮った1969年には、雑誌など印刷物への寄稿に対応して、35mmサイズから120サイズのカラーポジ撮影に転換していた。ちなみに撮影機材は、カメラ/6×6判マミヤC33 レンズ/マミヤセコール80mmF2.8 フィルム/コダック・ハイスピードエクタクローム120(EH)ISO160だった。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
不忍池に浮かぶ弁天堂の由来