現在の渋谷駅東口方面(撮影/AERAdot.編集部・井上和典)
現在の渋谷駅東口方面(撮影/AERAdot.編集部・井上和典)

 文化会館の屋上には天体観測ドームがあり、階下の8階が「五島プラネタリウム」の観客席となっており、小学生・社会科の定番見学地だった。1957年から、ドイツ・ツアイス社製投影機を使って四季折々の天体を見せてくれたが、2001年に惜しまれながら閉館した。

 10系統と6系統には前年就役したばかりの新鋭7500型が充当されている。渋谷駅前~三宅坂で路線を重複する9系統も一番手前の線から交互に発着する。右端の6000型は34系統の金杉橋行きで、ここで折り返していた。

 渋谷駅東口には従来から発着していた34系統(渋谷駅前~金杉橋)に加えて、1957年3月の新線敷設(ループ線化)にともない、西口から6系統(渋谷駅前~新橋)、9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)、10系統(渋谷駅前~須田町)の三系統の発着所が移転した。これにより、四系統が発着する都電最大の駅前ターミナルが完成した。

昭和38年2月の路線図。渋谷界隈。(資料提供/東京都交通局)
昭和38年2月の路線図。渋谷界隈。(資料提供/東京都交通局)

 ターミナルの東側には青山線を走る6系統、9系統、10系統の二線三面の乗降所があり、西側に隣接する天現寺橋線の34系統には二線二面の乗降所があった。東側と西側の間の乗降所は双方を兼ねるから、合わせて四線四面の乗降所から四系統の都電が発着していた。

 青山線が山手線・渋谷駅前に延伸したのは、市営になった1918年頃だった。約800m手前の青山七丁目までは、明治期の1906年に開通しているから、延伸に10年以上かかったことになる。遅延した理由は、玉川電気鉄道(玉電)の市内延伸免許線との調整に年月を要した、と伝えられている。

 34系統が走る天現寺橋線は、玉川電気鉄道・玉川線の延伸という形で1922年に敷設が開始された。玉電の渋谷を発して、恵比寿駅前(後に渋谷橋)~天現寺橋に至る2700mの路線。玉電の渋谷ターミナルから山手線の高架下をくぐり、天現寺橋に向っていた。

 1937年、玉電ビルの建設にともなって、玉川線と直通していた天現寺橋線は渋谷駅東口の東横百貨店前で打ち切られ、その運行が分離された。同年7月、天現寺橋線と同じ玉電が敷設した中目黒線(渋谷橋~中目黒)は、市電車両を借用して電車の運行が続行された。翌1938年11月には東京市に経営を委託。戦後の1948年に中目黒線とともに東京都に譲渡され、渋谷駅前を発着し、金杉橋と結ぶ34系統として都電路線の仲間入りを果たした。

 ここまでお読みいただいてもわかるとおり、渋谷駅とその周辺の工事はまさに複雑怪奇。だが、その複雑さこそが、雑多に入り混じった文化が継承された「渋谷」の魅力でもある。

■撮影:1963年8月25日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。9月には軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催中。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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