雷門停留所付近。50年以上前の美しき東京の一コマだ(撮影/諸河久:1965年11月7日)
雷門停留所付近。50年以上前の美しき東京の一コマだ(撮影/諸河久:1965年11月7日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、全国有数の観光地「浅草」のランドマークである「雷門」の都電だ。

【約50年前とどれだけ変わった? 現在の浅草「雷門」付近の写真はこちら】

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 金龍山浅草寺の総門である「雷門」。正式名称は「風雷神門」という。「雷門」と書かれた赤の大提灯が下げられた門前は、内外からの観光客で日々大いに賑っている。

 写真は浅草広小路といわれた浅草寺門前の並木通りからの撮影。雷門を背景にして、雷門停留所で折り返しを待つ臨時1系統三田行き都電を狙った。往時の並木通りはまさに桜の並木が続いており、花見客で賑ったという。都電でゆっくりと雷門に近づく車窓の視界は、トンネルを走る現在の地下鉄では味わえない風情だ。

雷門は大火で焼失したままだった

 雷門に路面電車が走ったのは1904年で、馬車鉄道を電化した東京電車鉄道によるものだった。運転経路は品川~新橋~本町~浅草橋~雷門~上野~本町で、後の市電1系統のルーツとなった。この路線が開業した頃、雷門は1865年の大火で焼失したままだった。1906年発行の「東京電車唱歌すごろく」にも「雷門は名のみにて 仲見世とをれば仁王門」と記述されている。

 写真の雷門停留所は蔵前線の終点だが、開業当初はさらに交差点を左折して吾妻橋線に入り、上野駅前に向っていた。

現在の浅草「雷門」付近。観光地として整備されたが、1965年当時と比べると、やや視界が狭く感じる(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
現在の浅草「雷門」付近。観光地として整備されたが、1965年当時と比べると、やや視界が狭く感じる(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 正面掲示の運転系統板を採用した1928年には、1系統として品川(北品川乗入れ)~本町~浅草橋~雷門を結び、雷門で折り返していた。後年、南千住方面の千住線が開通すると、駒形二丁目~雷門(240m)は盲腸のような雷門支線に凋落するが、臨時22系統が雷門~銀座七丁目に頻繁に運転された。

 日曜祭日には写真の臨時1系統が三田から乗り入れて、銀座以遠からの利用客に喜ばれた。また、蔵前国技館で大相撲が興行される時節には、相撲客輸送に充当される都電が何台も雷門支線で待機していた。

大提灯の周囲には海外からの観光客でごった返す(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
大提灯の周囲には海外からの観光客でごった返す(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 背景の雷門は堂々とした江戸様式造りで、1960年に当時の松下電器産業(現・パナソニック)松下幸之助社長の寄進で再建された。縣吊されている大提灯も松下氏の寄進で高さ3.9m、直径3.3m、重さ700kgの巨大さだ。大提灯の底部には浅草寺ゆかりの龍の彫り物がある。

 雷門付近を走る都電は前述の臨時1系統、臨時22系統のほか、22系統(南千住~新橋)、24系統(福神橋~須田町)、30系統(寺島町二丁目~須田町)の各系統が往来していた。雷門の門前から都電が消えたのは、最後まで残った24系統で1972年11月だった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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