昭和40年3月の路線図。築地界隈。停留所名さながら「通勤定期券一カ月710円」の表記にも時代を感じさせる(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。築地界隈。停留所名さながら「通勤定期券一カ月710円」の表記にも時代を感じさせる(資料提供/東京都交通局)

 11系統の正式な終点は月島線の月島八丁目(後年月島に改称)だったが、実際の運行は二つ先の新佃島で折り返すのが定番だった。方向幕は「月島(新佃島)」になっていた。

 写真の5000型は定員100人の大型ボギー車で、戦時下の1944年に輸送力増強用として5013~5024の12両が日本車輌で製造された。戦災で3両を失ったが、戦災復旧車2両が復帰して、1930年に製造された5001~5012の12両と合わせた23両が、新宿(後に大久保に統合)車庫に配置された。車幅が広いので運用できる線区が限られ、11・12系統に充当された。3扉車として製造されたが、戦後は中扉の使用を止め、閉切りにしていた。1957年から始まった更新工事で2扉車に改造された。ゆったりした車内で座席定員も多く、乗客の評判は良かった。筆者も幾度となく重厚な乗り心地を味わっている。

 前回のコラム「両国駅前」編でも記したが、都電には、築地から築地中央市場場内に至る「中央市場引込線」が存在した。自動車燃料が逼迫した1944年、築地市場からの自動車輸送の代替として、貨物営業専用の中央市場引込線が敷設された。この引込線は勝鬨橋線の築地四丁目交差点から分岐して、新大橋通りの道路上を600mほど南西に進み、市場内の専用線に接続していた。

 トラックに代わって活躍したのが、大正期に造られた400型四輪車だ。400型を貨車に改造した甲1型10両、400型を貨物用に簡易改造した甲400型31両、計41両の貨物電車が生鮮食料品等の輸送に充当された。戦中・戦後の混乱期、営業線の集積拠点に停車中の貨物電車から、物資を荷車などに積み替える光景が記録に残されている。

 戦後になり、自動車燃料の需給などの社会情勢が好転してきたため、1949年9月で貨物営業は廃止された。貨物営業廃止後も中央市場引込線は軌道敷跡を残したが、1960年3月で正式に廃止された。

 都電から地下鉄に移り変わるときも寂しさがつのったが、平成最後の秋に中央市場が築地から豊洲に移るのも、ひとつの時代の区切りを感じる。

■撮影:1963年8月18日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。現在、軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催中。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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