築地停留所付近から撮影。左側に「築地本願寺」の尖塔が見える(撮影/諸河久:1963年8月18日)
築地停留所付近から撮影。左側に「築地本願寺」の尖塔が見える(撮影/諸河久:1963年8月18日)

 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、東京の台所ともいえる「築地中央市場」への足として働いた築地の都電だ。

【55年が経過してどれだけ変わった? 現在の写真はこちら】

*  *  *

 2018年10月、築地中央市場は1935年から80余年続いた営業を終了し、豊洲市場に移転する。

 日本一の繁華街「銀座」に近接した「築地」は、その利便性からしても、これに匹敵する立地条件の卸売市場は他に例を見ない。築地市場は都内に11箇所ある東京都中央卸売市場の一つだが、その規模は世界最大の卸売市場といっても過言ではない。

 10月の豊洲移転後も、築地卸売市場の外郭をなす築地場外市場商店街(築地場外市場)は現在地に残留する。場外市場は世界各国から旅行者が集まる都内屈指の観光スポットとなり、再来年に迫った東京オリンピックでも日本食を求めに観光客でごった返すと思われる。

 いっぽう、1964年の東京オリンピックの頃はといえば、築地界隈は「人」と「車」で溢れかえっていた。

 写真は築地停留所を発車して新佃島に向う11系統の5000型を築地停留所から撮影。背後の築地四丁目交差点は、晴海通りと新大橋通りが交差する交通の要衝だ。撮影日も築地市場を発着するトラック群で両方向が渋滞していた。

 左側に京都・西本願寺の直轄寺院である「築地本願寺」の尖塔が見えている。「築地本願寺」の本堂は、古代インド様式や桃山建築様式を取り入れた荘厳なデザインの建物だ。1934年に伊東忠太・東京帝大教授の設計で建造され、現在も築地を代表するランドマークのひとつになっている。

 右奥に見えるトラスは、1940年に竣工した隅田川唯一の可動橋である勝鬨橋だ。橋上には当初から路面電車用の軌道が敷設されていたが、実際の運行は1947年から始められた。

現在の同じ場所。現在も変わらず交通量が多い交差点だ(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
現在の同じ場所。現在も変わらず交通量が多い交差点だ(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 晴海通りの築地停留所は相対式の停留所。築地が終点の8系統は、降車扱いを終えると勝鬨橋方に進み、左手前の分岐器を使って中目黒に折り返した。麻布十番や古川橋などを経由する8系統は「山手(やまのて)の魚屋さん」の足としても重用された。

 勝鬨橋線が敷設されるまでは、11系統も築地で折り返していた。1947年12月に勝鬨橋線が全通し、11系統は隅田川を渡河して月島通八丁目まで延伸された。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
市場内を走った都電