品川駅高輪口付近。細長い停留所に人が集まっている様子がうかがえる(撮影/諸河久:1963年3月21日)
品川駅高輪口付近。細長い停留所に人が集まっている様子がうかがえる(撮影/諸河久:1963年3月21日)

 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は東京で最初に路面電車が走った品川駅前の都電。往時は京浜第一国道上の細長い停留所から三系統の都電が次々と発車していた。

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「品川駅」といえば、多くの人が「新幹線」を想起するだろう。朝夕のラッシュ時になると途切れることなく人の波が押し寄せ、駅構内は混雑を極める。だが、品川駅に東海道新幹線が停車するようになったのは、実は2003年のこと。わずか15年前とは思えないほど、品川駅には新幹線のイメージが定着している。

 写真は、品川駅「高輪口」を出てすぐのところ。撮影したのは1963年3月なので、東海道新幹線開業(1964年10月)の前年にあたる。

 都電の背景に写っているのは「京品ビル」で、京浜電鉄の旧高輪駅に隣接して建てられていた。その二・三階は京品ホテルの客室として供せられた。撮影時の写真を観察すると、京品ビルの一階は貸し店舗で、写真の右端から「珈琲店ボン」「中華菜館 桃苑」「京品モータース・モーターボート商会」「スケート用品大門堂」が盛業中。京品ビルの隣が立派な石鳥居がある「高山稲荷神社」で、江戸時代は灯台の役目も果たしていたそうだ。その先が「品川やぶ食堂」「ヤマニ大衆食堂」といった駅前飲食店が繁盛していた。

 品川駅高輪口から八つ山橋方向に少し歩き、京浜急行(現・京急電鉄)の高架線を背に品川駅前停留場の都電を撮影する。1・3・7系統の三系統が直列で発車するため、停留所はうなぎの寝床の様に細長く設置されている。7系統四谷三丁目行きが乗車扱いを始めると、手前の自動車の流れが途切れて、シャッターチャンスが到来した。撮影日が春分の日であったため、春陽を浴びて日章旗をはためかす1200型を記録することができた。

約50年が経過した現在の同じ位置。ホテルが林立するなど辺りは様変わりしたが、当時から盛業している飲食店もわずかに残っている(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)
約50年が経過した現在の同じ位置。ホテルが林立するなど辺りは様変わりしたが、当時から盛業している飲食店もわずかに残っている(撮影/井上和典・AERAdot.編集部)

 都電1200型は、明治末期から大正中期にかけて製造された木造ボギー車1000・1300型を鋼体化改造した1000型シリーズの第3弾として登場した。電気部品、台車などは旧車のものを流用。折からの流線型ブームに乗って、車体の前面を傾斜させ、丸味を帯びた形状に変更。張上げ屋根を採用するなど、スマートな外観となった。1936年から1942年にかけて日本車輌、帝国車輌によって109両が就役した。写真の1285は戦災復旧車で、1948年に共栄車輌により復旧。広尾車庫に配置された1200型は7・8・33系統で使用された。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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