昭和40年3月の路線図。万世橋界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。万世橋界隈(資料提供/東京都交通局)

 1903年に東京電車鉄道が上野線を敷設するのと同時期に、少し下流の現在の位置に新万世橋(しんまんせいばし)が架橋され、路面電車が神田川を渡った。昭和期になると震災後の復興計画で改正道路(新中央通り)が計画され、前述の万世橋に再度改築されている。因みに上流に位置した旧萬世橋は1906年に撤去された。

 当時の写真で、都電の背景にあたる神田川の南岸に写るのが赤レンガ積みの高架橋。これは明治期に中央本線のターミナルとして造られた旧万世橋駅の残滓(ざんし)で、戦後も電留線として使われていた。そのうしろの建物が、筆者が幼少のころから親しんだ「交通博物館」だ。

 1912年、それまで中央本線の終点だった昌平橋から万世橋まで路線が延伸され、万世橋駅が開業した。万世橋駅は市電への乗換えターミナルとしてにぎわい、駅周辺の神田須田町界隈は銀座を凌駕するような繁華街となった。1919年に中央本線が東京駅へ延伸されると、中間駅となった万世橋駅は急速に凋落してゆくことになる。4年後の1923年、関東大震災で辰野金吾が設計した赤レンガ造りの駅本屋などを焼失。その後に復旧された万世橋駅の一部を使って、東京駅から「鉄道博物館」が移転したのは1936年だった。1943年には万世橋駅の業務が休止され、廃駅となってしまった。

 1948年「鉄道博物館」は「交通博物館」として再出発し、多くの「鉄道愛好者」を育んでくれた。2006年、さいたま市に新設された「鉄道博物館」に展示物や資料を移設して、「交通博物館」は閉館された。「交通博物館」の跡地にはJR神田万世橋ビルが建設され、2013年からは旧万世橋駅の遺構を見学・体験できる「mAAch マーチエキュート 神田万世橋」がオープンしている。サブカルチャーが移ろい行くこの界隈で、いまも昔もシンボルとして残っているのが、どこか嬉しい。

■撮影:1965年10月10日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。9月には軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催予定

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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