鉄道80年の記念行事で東京駅の一日名誉駅長を務める作家の内田百閒=1952年10月15日撮影
鉄道80年の記念行事で東京駅の一日名誉駅長を務める作家の内田百閒=1952年10月15日撮影

 普段から多くの人々が利用し、日本の発展を支えている鉄道。市井の人々にとって日常のものではあるが、日本の歴史に深く関わることも。政治学者であり、鉄道をこよなく愛する原武史さんの新著、朝日新書『歴史のダイヤグラム<2号車> 鉄路に刻まれた、この国のドラマ』では、鉄道と人物とが交差する不思議な物語が明かされている。同書から一部を抜粋、再編集し、紹介する。

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■落合博満と内田百閒

 二〇一一(平成二三)年八月のある日、スポーツ紙記者の鈴木忠平(ただひら)は東京駅の新幹線改札口に立ち、中日ドラゴンズの監督だった落合博満が来るのを待っていた。東京から名古屋に移動する車内で話を聞こうと考えたからだ。

 鈴木の『嫌われた監督』によると、落合が乗ろうとしたのは東京18時51分発の「のぞみ59号」だった。しかし落合はなかなか現れなかった。発車まで一分足らずになったとき、ようやく姿が見えた。

「落合はいつものように、ぶらんと体の脇に下げた両腕をほとんど動かすことなく、ゆったりと歩いてきた。改札の前に立っている私を見つけると、『お』と短く発し、改札を抜けた。私はその後ろに続いた」(『嫌われた監督』)

 列車に乗り遅れまいと急ぐ客を横目に、落合のペースは全く変わらなかった。「まもなく、扉が閉まります――」というアナウンスが聞こえてもそうだった。

「周囲に流されない。他に合わせない。それが落合の流儀だろう。だが、あらかじめ指定席をおさえた新幹線が今まさに目の前で動き出そうとしている。そんな状況でさえ、自らの歩みを崩そうとしない人間を私は初めて見た」(同)

 落合が乗り込まないうちに「のぞみ」の扉は閉まった。この場面を読んで思い出したのは、内田百閒(ひゃっけん)が弟子との汽車旅を描いた『第一阿房(あほう)列車』だった。

 一九五一(昭和二六)年三月、百閒は東京から東海道本線の普通列車に乗り、国府津(こうづ)で降りて御殿場線に乗り換えようとした。だが東海道本線の列車が遅れていたため、国府津で駅員に早く乗り換えるよう急(せ)かされた。百閒は反発し、歩調を変えなかった。階段を上がる途中で、発車の汽笛が鳴った。

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出発の合図にも慌てない二人