【エピソード1】

医師:Hさん、今日はどうですか。血圧や脈拍には異常はないし、顔色もいいですね。

Hさん:ええ、まあ。

医師:このまま、もうしばらく放射線治療を続けて、今後抗がん剤治療も始めて、少し様子を見てみましょうか。

Hさん:あ、いや。もうそこまでしなくても……。もう十分尽くしてもらったし、私はいつでも、です。もうすぐ90歳にもなるし、抗がん剤は苦しいと聞きますし、治療はもうあまり……。

医師:最近は高齢の方のがん治療も進んで、Hさんより上の方でも治療を受けられていますよ。薬の副作用を抑える薬もありますし、まだ望みはあります。それに最近では免疫療法もかなり効くようになってきましたし。

Hさん:いやあ、もう、そんなにしてもらわなくても。もっと若くて、先がある人のために医療費を使わないと、もったいない。

医師:じゃあ、もう少し検査をして様子を見てみましょうか。

Hさん:うーん……。

【このときの医師の気持ち】

 前立腺がん自体は治すことができなくても、上手に付き合いながら一日でも長く、子どもさんの家族と楽しく過ごしてもらえるようにするのが医療者の務め。確かに治療にはいくらか辛さがともなうかもしれないが……。

 一昔前まではがんは治らない病気と考えられてきたけど、今では新しい薬や治療法が日進月歩で開発されている。まだできることは多い。治療法があるなら、それをやらない理由はない。Hさんは「もういい」と口では言っているけど、本当はもっと生きたいと思っているだろう。Hさんの気持ちに寄り添いながらも、医療者としてあきらめないで、最善の治療法を考えて実施しよう。Hさんはもちろん、家族の皆さんもきっと喜んでくれるはずだ。

【解説】

 医師法には、医師は患者の診察や治療を拒むことができないという応召義務が定められています。しかし、そんな法律には関係なく、病気で苦しんでいる、しかも自分の病院、施設に治療を求めて来た患者は、たとえ患者本人が「もういい」と言ったとしても、少しでも病気を治して、元の生活に戻れるよう手を尽くそう、と医師は考えることでしょう。

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医療者にとっての治療と、患者にとっての治療とは同一ではない