岐阜城
岐阜城

 1567年、織田信長は戦いで疲弊した城下町(後の岐阜城)を活気づけるために「楽市令」を発布した。定住を条件に大幅な減税を約束し、関所も無料とするなどして城下町の経済をV字回復させた。織田信長の手によって発展した岐阜城と、実は信長と関わりの深かった二条城を、城郭考古学で知られる奈良大学教授・名古屋市立大学特任教授の千田嘉博氏が案内する。(朝日新書『歴史を読み解く城歩き』から一部抜粋)

【信長が戦った桶狭間の現在の様子はこちら】

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■住者への大胆なインセンティブでV字回復

 織田信長は一五六七(永禄一〇)年に斎藤氏を追って稲葉山城を手に入れた。そして、城と町の名を岐阜と改め本拠の振興に努めた。斎藤氏との戦いで城下は疲弊しており、町の活性化は急務。そのとき信長が実行したのが「楽市令」だった。信長は城下の市町に一五六七年と六八年に「楽市令」を発布した。

 戦国大名が市町を「楽市」とした事例は全国にあった。だから、信長の岐阜城下の「楽市令」も一般的なものに見えるかもしれない。しかし、実は信長の「楽市令」は戦略的で特別な政策だった。ほかの大名は市日に限って保護や保証を与えた。それに対し信長は、人びとが保護や特権を得るためのたったひとつの条件を「楽市令」に加えていた。 それが「この町に引っ越して住んだら」という条件だった。つまり、市の日だけに人が集まる市場は住むことを前提としないから、なかなか都市に発展しない。しかし、定住を前提に特権を保証すれば都市の復興と発展が促進できる、と信長は考えたのである。信長が商人や職人の定住と引き換えに認めたのは、自由な売買と治安維持、信長の領国内の関所無料、家屋の固定資産税無料、商売に関わる税金無料、臨時税金の免除だった。

 つまり住めば、規制緩和で自由に商売できて無税。高速道路も無料。私は信長の城下にぜひ引っ越したい。そして信長の政策は大当たりし、岐阜の市町を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、まるで伝説のバビロンのようなにぎわいと記した。危機からの復興にはお金がかかる。税を減じて経済をV字回復させた信長に、いまも学ぶことがあるのではないか。

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信長が作った二条城