富士見三重櫓。内部は公開されていないが、写真の面は、乾通りの一般公開などで見ることができる。また、裏面の方も近年整備されて間近で見学することができるようになった。
富士見三重櫓。内部は公開されていないが、写真の面は、乾通りの一般公開などで見ることができる。また、裏面の方も近年整備されて間近で見学することができるようになった。

 明治維新後、将軍の住居から天皇の御所「皇居」となった江戸城。だが、江戸城の遺構は失われることなく皇居東御苑となった本丸や二の丸のほか、都心部にも数多く遺されている。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.26 江戸三百藩の名城大図鑑』では、江戸城の現存遺構を特集。その中から、令和に伝わる江戸時代の痕跡の数々を解説する。

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 天正十八年(1590)、小田原に拠った北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康に北条氏の拠点があった関東を与えた。このころの江戸は、太田道灌が築いた江戸城があるだけの寒村であったといわれてきたが、近年の研究で道灌が城を築いたことにより開発が進んだようだと考えられるようになった。

 また、秀吉が力をつけてきた家康を京から遠ざけたとされていたが、家康自らこれから発展する可能性を秘めた江戸に行ったのではないかという説も出て来ている。

 こうして江戸に入った家康は城の大改修を行った。当時の江戸城は、本丸の他に曲輪が2つあるだけの小規模なものであったからだ。だが、工事は、秀吉の行った文禄・慶長の役によって中断。本格的な工事が始まったのは、慶長八年(1603)に江戸幕府を開いてからである。三月三日に再開された工事は、家康が天下人になったことにより、一大名の普請から各大名に命じて行われた天下普請へと変わった。

本丸は城の中心となる部分。江戸城の本丸には天守以外に、本丸御殿の殿舎が並んでいた。
本丸は城の中心となる部分。江戸城の本丸には天守以外に、本丸御殿の殿舎が並んでいた。

 といってもすぐに櫓や天守などの建物を建てたのではない。現在の皇居前広場よりも東側は日比谷入江と呼ばれる海だった。ここを、現在の神田駿河台にあった神田山を切り崩した土で埋め立て新しい土地を造り出した。家康の描いた江戸城のグランドプランは、城だけでなく城下町までを含めた壮大なもので、現状のままでは土地が足りなかったのだ。

 翌慶長九年から本格的な築城が開始される。まずは、伊豆から石を運び、石垣を築いた。家康が将軍として直接、江戸城築城に携わったのはこの辺りまでとされる。じつは、慶長十年に将軍職を息子秀忠に譲ったからだ。家康が大御所になっても工事は進められ、慶長十一年には将軍秀忠が御殿に入っているので、ここで一応の完成ということなのだろう。

 慶長十二年、天守台に着手。天守は御殿よりも後に造られた。家康存命中の江戸城は本丸に遠待、大広間、白書院、黒書院に相当する建物があった。天守は現在の天守台があるところではなく、本丸中ほど西側だった。

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