C大阪などでプレーした苔口卓也
C大阪などでプレーした苔口卓也

 ピッチを鋭く切り裂き、相手を一瞬で置き去りにする。古くは岡野雅行、現在では伊東純也、前田大然……。いつの時代も「スピードスター」にはスタンドを沸かせる華がある。Jリーグの舞台でも過去、現在を問わず、多くのスピード自慢の日本人選手が登場し、活躍してきた。だが、その中には周囲の期待に応え切れず、壁にぶつかり、大成できなかった選手たちも多い。

【写真】「ケガがなければ…」日本代表の歴史を変えられた“未完の逸材”たち(全4枚)

 J創世記の“未完”のスピードスターと言えば、山田隆裕が思い出される。1972年4月29日生まれ。名波浩、望月重良、薩川了洋、大岩剛と錚々たる面々を揃えていた伝説の清水商の超高校級エースとして名を馳せて将来を嘱望されていた男。その期待通り、高校卒業後の1991年に日産(現横浜FM)に入団直後から出番を得て、右サイドの俊足ドリブラーとして、1992年には20歳でオフト監督率いる日本代表に選出。甘いマスクでも人気を集めた。だが、代表辞退騒動もあってA代表出場は1試合のみ。リーグ戦では1995年には7得点をマークしたが、次第にチーム内での立場は弱まり、「スピード勝負」から「パサー」へとスタイルを変えながら京都、V川崎、仙台でプレーしたが、かつての爆発力は鳴りを潜めた。J1通算224試合20得点と一定の数字は残したが、10代の頃に見せていた期待値は超えられなかった。

 潜在能力の高さでは、小島宏美も負けていなかった。1977年12月12日生まれ。東福岡高時代に3年連続で選手権に出場した後、G大阪入団後も自慢の俊足を生かした高速ドリブルで存在感を示し、3年目の1998年にはリーグ戦34試合に出場して17得点をマーク。「期待のスピードスター」として、トルシエ監督の下でシドニー五輪を目指すU-23日本代表、さらに2000年には22歳でA代表に選出された。しかし、2001年以降はレギュラー争いに敗れた末に低調なパフォーマンスが続き、2002年から札幌、大宮、大分、神戸、岐阜と渡り歩きながらボランチなどでもプレーしたが、インパクトは残せず。スピードに加えて抜群のサッカーセンスを有して“華のある選手”だったが、キャリア的には右肩下がりで、A代表出場も1試合のみに終わった。

次のページ
高校選手権で話題となったスピードスターも…