中日でもプレーしたオマール・リナレス(OP写真通信社)
中日でもプレーしたオマール・リナレス(OP写真通信社)

 かつて野球で世界最強を誇ったキューバが、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で4大会ぶりに準決勝進出をはたしたが、米国に2対14と大敗。“赤い稲妻”時代を知るファンにとって、寂しい結果となった。

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 米国留学生を通じて1864年に野球が伝来したキューバは、1890年代には75ものプロチームが存在するほど、急速に普及した。

 だが、1959年のキューバ革命以降、米国との関係が急激に悪化。その後、キューバはアマチュアの国内リーグに一大転換し、選手たちは国家公務員という独自の形で、“国技・野球”を発展させていく。

 72年にニカラグアで開催された世界選手権でキューバと初対戦し、0対2で敗れた日本は、スピードとパワーの差に圧倒され、「(米国以外に)こんなすごいチームがあったのか」と思い知らされた。

 以来、日本はキューバのナショナルチームに7連敗を喫したが、78年のオランダ・ハーレム国際大会で8対2と打ち勝ち、初勝利を挙げた。3回に勝利を決定づけるタイムリーを放ったのは、東芝府中時代の落合博満だった。

 だが、2週間後にイタリアで行われた世界選手権では、「あんな速いボール見たことなかった。ゆうに160キロは超えてたんじゃねえのかな」と落合も驚いたエース、ブラウディリオ・ビネンを攻略できず、2対3と雪辱された。

 ここまでなら、アマチュアの話だったのだが、キューバは日本のプロチームとの対戦でも、侮りがたい実力をアピールする。

 88年11月、山本浩二監督が就任したばかりの広島がキューバに遠征し、5試合を行ったが、結果は惨憺たるものだった。

 第1戦は初回に1点を先制したものの、その裏、4点を失い、あとは防戦一方で3対8と完敗。さらに第2戦は6対8、第3戦は5対6、第4戦は1対7とアマチュア相手にズルズル4連敗。木製バットの広島に対し、キューバは金属バットというハンデを差し引いても、山本監督が「スピードとパワーはもちろんのこと、手首やバネの強さがすばらしい。かと言って、粗っぽいところはなく、1点を確実に取る攻撃をしてくる」(鉄矢多美子著「熱球伝説─キューバリナレスを育てた野球王国」 岩波書店)と舌を巻いたように、どちらがプロかわからないありさまだった。

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久保田龍雄

久保田龍雄

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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最強キューバに立ち向かった日本人投手は?