■入念に準備された「しがらみのない学校改革」

「しがらみのない全く新しい学校をつくったから、田村さんは思い通りの教育ができた」。やっかみ半分かもしれないが、他の私学関係者からそんな見方を聞いたことがある。確かに、渋幕開設時には、田村氏がつてをたどって評判のよい教師を探し、米国務省に勤務経験のある元都立高教師など多彩な人材を集めた。新たな理念や方針を実現するには、新しい組織のほうがやりやすい。とりわけ学校は教師の独立性が高く、ベテランが改革に同意してくれるとは限らない。当時の公立高校では、教師が校長にも授業を見せたがらないと言われるほど特有の閉鎖性があった。

 父が他界したことを受け、35歳の若さで学園の理事長と渋谷女子高校の校長を兼務した田村氏は教員免許を取得し、自ら教壇に立ってもいたが、当時「自分は教育の経験がそれほどない」と自覚していた。ベテラン教師たちを納得させるためには、別の場所で全く新しい学校をつくって実績を挙げてからのほうがよい、と考えて進出したのが、縁のなかった幕張の地だったのだ。

 渋幕の教育と経営を軌道に乗せる一方で、田村氏は意識して若手教師を採用するなど、渋谷女子高を一貫校化する準備を進めていた。他校と共同で生徒の短期海外留学や英語研修を始めたのは、都内でも早い時期だった。女子高ならではの厳しい「しつけ教育」を保護者も求める時代にあって、生徒と若手教師の話し合いで「不要」な校則の撤廃を進めていった経緯も実に開明的だったと言える。渋渋の魅力といわれる自由な雰囲気は、一朝一夕ではなく、トップの強い信念のもと育まれたと言えるだろう。

 今も両校で年間計60回行っている「校長講話」(現・学園長講話)で田村氏は、古今東西の歴史や哲学、科学の発展などを題材に、「自分で決められる自由」な社会を人類がいかに獲得してきたかを熱く語る。生徒が選んだテーマで1万字程度の「自調自考論文」を書く取り組みは、近年文部科学省が推進する探究学習にも重なり、今や全国の公私立高校に類似の活動が広がりつつある。

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海外の名門大学にも合格者を出す