エマニュエル・トッドさん
エマニュエル・トッドさん

 私たちは民主主義の制度を持ってはいても、システムは「寡頭制」とも呼ぶべき何かに変質してしまったように思います。言うなれば、「リベラルな寡頭制」です。それはかなり重大なことになっています。絶対的な大惨事だ、と言うわけではありません。しかし、このことは考慮に入れなければならない。そして、これは今に始まったわけではなく、以前から現れていた問題でした。

 かなり簡単に説明できます。民主主義の時代というのは、識字率の向上の結果であることが大きいのです。非識字から普遍的識字への移行は17 世紀から20世紀にかけて、世界中で民主主義を広めました。誰もが投票し、政治プロセスに参加する可能性を広げました。普遍的な識字能力には「国民」の感覚が伴いました。すなわち、各地の人々は、特定の国民共同体に属するという感覚です。自分はフランス人である、英国人である、米国人である、日本人である、ドイツ人である、ロシア人である、中国人である、といった感覚です。そして、これはすべて民主主義の一部でした。

 しかし、今、おそらくここ半世紀ほど、私たちは、社会の新たな階層化を経験してきました。

 かつてほとんどが読み書きはできるが他のことは知らない。ごく少数のエリート層を除けば人々は平等でした。

 しかし今では、おそらく国にもよりますが、おそらく30%の人びとが何らかの高等教育を受けています。これに対して、20~30%の人々は基本的な読み書きができる程度、つまり、初等教育のレベルで止まっています。

 この教育の階層化は、不平等の感覚を伴います。社会構造の最上部と底辺では、人々は同じではない、という感覚です。

 私は「非平等主義的潜在意識」と呼んでいます。民主主義の基本的価値の正反対にあります。

 さらに、それは共同体の感覚も破壊します。社会は分断されます。私たちがヨーロッパで経験したことであり、米国でも、ほとんどの国でも当てはまると思います。中国はまだ到達していない段階ですが、いずれこの段階に到達するでしょう。

次のページ
民主主義を腐らせる「老人支配」とは?